14:30 通路脇
誰かに必要とされている世界がある。
何をやるべきか、何を求められているか解っている。
すぐに帰るから、待っていてね。
私が 助けに行ってあげる。
何度でも。
何度でも。
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「…Aランチはっっ??」
「お肉はっっ??」
気づけば、目の前にあるのは『女子トイレ』の看板。
明らかに53階の食堂ではない、何階かは解らない廊下に、智香と紘乃は立っていた。
先ほどまで目の前にあった熱々の豚肉が乗ったプレートは消えていて、もちろん日村の姿もない。
「…ううっ…食べ損ねたよぅ…!!!」
ばしん、と右手を壁に突きながら紘乃が悔しがる。
いくら食べても太らないであろう世界にせっかく舞い戻ってきたのに、味わう事が出来なかったのは非常にツライ所だ。
智香も同じ気持ちらしく、意気消沈とばかりにうなだれている。
「…ホ、アンタ達、大丈夫か」
「えっ?」
突然と声をかけられ、紘乃は廊下の端を見る。
そこにいたのは、清掃員の格好をした白髪の男性だった。右手にモップを握り、左手には洗剤が入ったバケツを下げていて…年齢は70歳くらいだろうか。ただ、その瞳は優しく、純粋に輝いていた。
「こんな所でのんびりしている場合では、ないじゃろう? もうすぐ会議の時間と聞いたが」
突然の事に、二人は顔を見合わせる。
一体どこから、そんな話が出てきたのだろう。
「か…いぎ…ですか? ど、どこで?」
「何処って…59階の会議室に決まってる」
「59? いや、この会社55階までしかないですけど…」
智香は、社員食堂に向かった時に見たエレベーターのボタンを思い出した。ついでに、あの銀髪男が嫌がらせをした記憶までが一気に甦り、少し眉をしかめてしまった。
「なんじゃ。押し方を忘れてしまったのか。仕方ない娘達じゃなあ。ほれほれ」
見事な毛並みの白髪眉を寄せ、清掃員の男性は二人をエレベーターの前へと追いやる。そして上階行のボタンを押した。
その顔に何処か見覚えがあった紘乃は、おずおずと尋ねる。
「…あの。何処かでお会いした事ありませんか?」
「…ほぅっ? この歳でこんな若い女性から口説かれるとは思ってなかったぞ」
「ああっ、違っ…そんな意味じゃなくて…」
両手をぶんぶん降る紘乃の横で、智香も清掃員の顔をじっと見る。
…至って、普通のおじいさんだ。
だが、智香自身も、この老人を知っているような気がする。
「えっと、私もどっかで会いました?」
ポーン…。
エレベーターが止まった。同時に扉が開く。
おどけるように目を丸くした老人は、ゆっくり微笑むと二人の肩に手を置いて優しく押し、そのままエレベーターの中へ進ませた。
そして、『5』のボタンを押しながら『9』を押す。
ボタンのランプが、黄色から紫へと変わった。
「こんなジジイは、どこにでもおるよ」
にかっ、と白い歯を見せた老人は、そのままエレベーターを出て、扉が閉まりきるまで手を振っていた。
絶対に会ったと思うんだけどなぁ…と智香が首を捻っていると、紘乃が、ばしばしと腕を叩いてきた。
「ひろちん、痛いです」
「だ、だってねよこさん! やっぱりランプは55階までしかないよ! どうやってその上に行くのっ?」
「んー?あれじゃない?隠し階ってのがあって、実は55階よりも上にそのまま上がって行っちゃうんですー、的な…」
智香がそこまで口にした時、ちょうど55階をランプが指し示した。
エレベーターが一瞬止まる。
と、即座に右へ引っ張られる感覚がし始めた。
「──横かああっっ」
「ぎゃあああっっっ」
体験した事のないエレベーターの動きに、二人は悲鳴を上げる。
ガラスの箱は真横に滑るように動いた後、また上昇を始めた。この文明の利器は心臓に悪い。
ポーン…。
「…そして後ろか…」
「すごいっ、映画みたい!」
59階、という階数ランプはないが、押しボタンの上のデジタル版が59階を表示していた。
先ほど乗り込んだ扉とは反対の、今まで外を見ていたガラス張りの方が出口となって静かに開いた事に、紘乃は喜ぶ。
開いた先にはまっすぐな廊下が続いていて、奥にはこげ茶の重厚感溢れる扉があった。
それ以外に見えるのは、通路手前にある非常口用のドアのみ。
どうやら迷う事なく『会議室』には行けそうだが。
エレベーターを降りると、足元が柔らかかった。
廊下には絨毯が敷き詰められていて、明らかにここが秘密の階だと匂わせている。
果たして自分達のような受付嬢まがいの者が、踏み入っても良い場所なのだろうか。
「まあ、なるようになるよね」
「…だね」
楽観的に笑う紘乃に対して、智香も満面の笑みで答える。
躊躇ばかりして、機会を逃すなんて勿体ない。それで後悔を口にするなんてのは、もってのほかだ。
緊張と期待を高めて、紘乃は扉に近づき、控えめに2回ノックをした。
「…入れ」
冷たく低い、男の声。
一瞬戸惑ったが、次の瞬間、向こう側から取っ手が引かれ、扉の隙間から太陽の光が二人に降り注いできた。
あまりの眩しさに、智香も紘乃も顔を片手で覆って目を細める。
「おや。ハナイデ君ではなかったみたいですよ、黒部さん。ゲストのお二人のようだ」
「…まぁ、アイツはノックなどしないからな。ふん、15分前到着か。早すぎるのも問題だと教わらなかったのか?」
眩い中でも少しずつ慣れてきた瞳で、最初に声のしたほうを向くと、温和そうな男性が笑みを湛えて扉を開けてくれていた。薄い紫色のワイシャツが、柔らかい印象を与えている。
部屋は広く、1階の受付ロビーと同じようにガラス張りで出来ている壁からは、59階の眺望を満喫できるようになっていた。
中央には、無垢材で造られた楕円状の会議用テーブルがあり、さながらサミットのようだ。
違うのは、集う人間が全員日本人で、男性といった所か。
「…ん? 着物?」
その中でも、特に一際目立った服装の人物を、智香は瞬きをして見つめる。
他の人がスーツやカジュアルなジャケットを着用しているのに対して、その長い髪の男は灰色味がかった着物をさらりと着ていた。その瞳は穏やかに伏せられていて、華道か茶道の家元を連想させる。
「何をしている。早く中に入れ」
「あっ、はい!」
ノックをした時に返ってきた声だ。
前を向くと、その男は智香と紘乃の二人が立つ場所から、テーブルを挟んで丁度真向かいに座っていた。
多分、この中で一番偉い役職を持つ人が座る所。
黒く短い髪の毛は少し逆立っていて、その細い瞳がナイフのように鋭い光を放っていた。
それは、最初に乗ったエレベーターで出会った男とは少し違う、冷たいもの。
あの銀髪男は、鋭いながらも悪戯な光を宿して…。
「…って…! 嫌がらせボタンの人っっ!!」
「おー、あん時の俊足ダイコンか」
「なんだ金田。彼女達に会ってたのか」
「えっ、日村さん!?」
まさにあの、ヤクザまがいの男がそこにいた。
革のハイバックチェアを揺らしながら、ニヤニヤとしているのを見つけた智香が叫び、その男の隣に、食堂で席を共にした日村が座っているのに、紘乃が驚いた。
「まあ…お二人とも。とにかく座って下さい」
大きな扉を閉めながら、微笑みかけてきた紫のシャツの男──白戸 優は、二つの椅子を手前に引いて、智香と紘乃を即したのだった。