13:30 社員食堂
世界はきっと一つではない。
全ての人の中にそれぞれの世界があって
夜、ときおり見られるソレこそが
自分にとっての 本当の世界。
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スーツ姿。
ここが、会社というからには、その身なりは基本ではある。
しかし、点滅を繰り返しながら53階を目指すランプを見上げ、右手に持った燻銀のジッポーライターを、せわしなくカチンカチンと開け閉めしている目の前の銀髪男は、サラリーマンというにはあまりにもかけ離れた風情をしていた。
…ヤクザ…?
…まふぃあ…?
黒の上着は羽織る程度で、その下にはグレーのシャツを着ているのだが、腰からだらしなくはみ出している。こげ茶色の革靴が、やけに高価そうだと思わせた。
くああっ…と大きな欠伸を一つ、男がしたところで、エレベーターは53階に到着する。
ポーン…。
扉が音もなく開く。
奥にいた智香と紘乃は、この柄の悪そうな男が自分達のために『お先にどうぞ』と言うとは、当然だが思ってはいなかった。
だから男が先に扉を出た時も、何も考えずにそのまま後をついて出ようとしただけだった。
まさか、男が出る瞬間に1階と『閉まる』のボタンを素早く押すとは。
夢にも思っていなかった。
「あああっ!! ちょ!! 何するんですかっ」
「おー、俊足俊足」
慌てた智香が、『開ける』のボタンに飛びついて連打する。
危うく、また1階まで降下する所だ。
子供染みた嫌がらせをした男はニヤリと歯を見せて笑うと、そのまま『staff canteen』と書かれたプレートの下がった扉へと歩いて行った。
「くはー、なんかむっかつく!」
「よこさんの好きそうな顔してたけどねぇ」
「…え。わかった?」
言葉とは裏腹に、少し口元を緩ませている智香を、紘乃が呆れた顔で笑う。
行動は受け入れがたかったが、その鋭い目つきと細身の体格は、智香の好みとする所だ。
ロビーで会った佐野といい、この会社は顔は良いが変な男が多いのだろうか。
それにしても空腹にはたまらない、香ばしい匂いがこの階には漂っている。
「なんかちょっとしたレストランみたいだねぇ~、よこさん」
「うわ、ちょー美味しそうだよ」
先ほど、銀髪男が通った扉を二人も進む。
ステンレスカウンターの向こう側のキッチンでは、幾人かの調理人がいるようで、もくもくと湯気が立つ大釜が5つもあった。頭上のパネルにはメニュー写真が映っている。
ラーメン、本日の焼き魚定食、カレーといった定番料理と、その横にランチセット。
Aランチは豚肉のソテーで、Bランチはスズキのポワレ(新)とある。
「ポワレて。社食でポワレて…」
「どんだけ凄い会社…」
受付を交代した巻き毛の女性が言ってたお勧めランチは、間違いなくBなのだろう。
だが、肉に目のない二人は、迷わずAランチを選択する。
「すいません、Aランチを二つお願いします」
「おうっ」
注文をすると、キッチンの中から野太い声が返ってきた。ちらりと見ると、レスラーのように大きな身体の中年男がフライパンを握りしめた所だった。
「おっ?新しい女の子達か。良かったな。Aランチはもうすぐなくなるとこだったんだぞ」
「わー、そうなんですか。良かったぁ」
「はっはっは、いい笑顔だ。肉も残り少ないし、特別にお嬢さん方に多く盛って…そうだなぁ、今日のAランチはこれで終わりにしちま…」
「宇治川のオッサン、待ってくれっ!俺っ、俺もAランチで!」
「ふぎゃ!?」
突然現れた男性が、紘乃の横から厨房に叫ぶ。
慌てて走ってきたらしく、レイヤーの入ったうねりがある髪の毛が、少し乱れていた。
「あと…み…水…」
「水くらい自分で取れ、日村。はっはっは」
日村、と呼ばれた青年は、厨房との境のカウンターに手を置きながら肩を上下に揺らし、ぜーぜーと息を整えている。
なんとなく可哀想に思った紘乃は、そこにあったグラスにピッチャーから水を注ぎ、両手を添えて日村の前に差し出した。
「どうぞ?」
「え。ああ…」
小首を傾げた紘乃を、日村のまっすぐな視線が捉える。好青年というのはこういう人の事を言うのではないだろうか。彼は真紅のネクタイを少し緩めると、水滴の付いたグラスを受け取って一気に飲み干し、一息ついた。
「はー…助かった。ありがとう、ええと…その名前、何て読むんだ?」
「えっ?あ、くらはら、です」
「有難う、峅原さん」
今気付いたが、紘乃の着ている服の左胸には小さい長方形の名札がついていた。
太陽のような笑顔の日村が、もう一度、今度は自分で水を注ぎながら二人に話しかける。
「いやー、午前の仕事が思ったより長引いてさ…昼飯にありつけないかと思って焦ったんだよなー。…で、そっちの君は何て読むんだ?その名前」
「よこや、です」
「へえ。二人とも珍しい名字なんだな」
「よく言われます」
「おう、日村出来たぞ。そっちのお嬢さん方も…日村のせいで、大盛りどころか肉がちょっと少なくなっちまったが…カンベンしてくれよ」
「あ、そんな全然。頂きます~」
「わー、美味しそう!」
厨房から、宇治川がランチプレートを3つ出してきた。
受け取ろうとした紘乃の横から、日村の腕がひょい、と飛び出す。
彼は自分の分を左手に、紘乃と智香の分のプレートを器用に右手に二つ乗せると、ウィンクをした。
「じゃあ、峅原さんに仍古谷さん。肉を少なくしてしまった代わりに、俺が席までお持ちします」
「…ぷっ」
「あははっ、宜しくお願いしまーす」
大股で歩く日村の後ろから、二人はちょこちょこと付いて行った。
食堂の窓は大きくて、明るい日差しが降り注いでいて気持ちがいい。
直射日光を避け、インテリアグリーンが映りこんでいる窓側の席に日村は決めたようだ。上に乗っている皿を滑らせないように、3つのプレートを綺麗にテーブルに並べた。
「初めて会うと思うんだが。新入社員…ってワケでもなさそうだよな?」
「えっ、そ、そうですね…まぁ新しいっちゃ新しいというか…なんというか…」
席に着いた日村は、小さく手を合わせていただきます、と呟くと、すぐに汁椀を口にする。
続いて豚肉を取り、白米と一緒に頬張った。
なんと説明しようか困った紘乃は、智香を見る。
どうしようか。
いきなり受付に座ってました、とか。通じるだろうか。
これは私達の夢の中なんです、とか。通じるだろうか。
それにしては、美味しそうな匂いがリアルだ。
「日村、食事中すまないが、少しいいか?」
「ん? おう、どうしたツカサ」
「会社では、水嶋と呼べと言っているだろう…」
智香と紘乃が困って顔を見合わせた時、日村に声をかける人物が現れた。
綺麗に前髪を分けていて、黒縁の眼鏡をかけた知的そうな男だ。左手にある書類の束が、食堂にまで仕事を持ち込むという真面目さを覗わせる。
「あー、二人とも悪い。ちょっと俺、席外すな」
「あ、はい」
間一髪、質問を乗り切る事が出来たようだ。
また聞かれるかもしれないが、回避方法は後で考えよう。
「まー、とりあえず食べようひろちん、いただきまーす!」
「いただきまあす!」
智香は手の平を合わせ、紘乃は指を組み祈る。
そして二人は豚肉に箸をつけた。
──ピーピピピピー…
──ちゃ~ららら~…
「………」
「………」
──ピーピピピピー…
──ちゃ~ららら~…
「……朝…?」
「……え…夢…?」
もそり、と掛け布団の中から紘乃が携帯に手を伸ばす。同時にベッドの下の智香も、自分の携帯を握りしめた。
表示された時刻は、7:00とある。
今日は休みなのに、昨日の夜は酔ってしまっていたので、いつも通りの起床時間のままにしていたようだ。
寝ぐせが爆発している紘乃は、ぼーっとしながら智香のいる方を向く。
「あのねぇ、よこさん。私、いい夢見てたの」
「うん…私も」
「しかも今、超イイ所だったの」
「私も」
もぞもぞと布団の中で動く智香は、全く起き上がる気配はない。
そうそう、だって今日はお休みだし。
「もういっかい行ってくるね。だって大事な事してないもん」
「…私も」
さあ、Aランチを食べに行こう。
こうして、二人はもう一度目を閉じたのだった。