13:00 本社ロビー
音が聴こえる。
これは本当じゃないって。
早く気付いてって。
でも もう少し。
まだ もう少し。
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「えっと…あの?」
「どうした?」
目の前で首を少し傾けた男性に、紘乃は困惑した。
この人は誰だろう。
そして、ここは何処だろう。
むしろ、私は何をしているのだろう。
自分の記憶の限りでは、この会社に覚えはない。
勤めている会社の本社ではないし、営業先にもこのように立派なビルを持つ会社はなかったハズだ。
派遣を依頼されたわけでもなく、いやそれよりも隣に智香が一緒にいるのが、まず不思議だ。
ちらり、と智香を見ると相手も同じく、こちらに視線を向けていた。
そして、その瞳は明らかにこう語っている。
『ひろちん、この人、めっちゃ格好良いですけど!?』
…う、うん。
ソウダネ…。
智香の輝いた瞳に気圧されて、改めて目の前の男性を見上げる。
確かにその男の顔立ちは整っていた。
深い紺に、細いグレーのストライプが入ったスーツ。白いワイシャツのボタンは一番上まで閉じられていて、その太い首元には、蒼のネクタイが綺麗に結ばれている。
有酸素運動で鍛え上げられたかのような、しっかりとした体格を持つその男の身長は、ゆうに180cmを超えているだろう。
少し茶色味がかかった髪の毛は首筋で綺麗に揃えられていて、切れ長で物憂げな瞳が、口をぽかんと開けている二人の受付嬢を映していた。
「すまない。早く鍵を渡してくれると助かるのだが…」
「…かぎ?」
「そうだ、私の家の鍵だ」
「家の 鍵 ?」
なんで 私が アナタの家の鍵を?
彼氏でしたっけ?
と冗談を言おうかと思ったが、相手は至って真剣そうだ。
茶化している場合ではないなと紘乃が困った瞬間、隣の智香が足元にあるケースを見つけた。
「ひろち…峅原さん、これっ。これじゃない?なんか鍵がいっぱい入ってるっぽいですよ?」
「なんだ、新しい受付の者だったのか。ならば解らないのも仕方ないな。そうだ、そのケースの中にある、私の家の鍵を渡して欲しいのだ」
低く落ち着きのある声で、男は右手を紘乃の前に差し出してきた。
長い指だなぁ…と、紘乃はその大きな手を、ぼんやり見つめる。
「名前がいっぱいあるんですけど…」
「ああ、そうか。私は 佐野峨人 だ」
「佐野…佐野… あのぅ、佐野さん二人いるんですが」
「山に我で、たかひと と読む方だが」
「あっ、こっちか」
機転の効く智香は、てきぱきと物事を進めていく。
白いケースの、佐野峨人と書かれたネームシールのある引出の中には、藍い革で出来た楕円のキーホルダーがあった。
その先には、銀色の鍵が付いている。
「これですよね?」
「ああ」
にこり、とお互いに笑みをたたえて、智香が佐野に鍵を差し出す。
受け渡しのその瞬間に、指先が少し触れた。
「あっ」
「おっと」
普段なら、特に意識することもない偶然の触れ合いなのだが、その瞬間、智香の右手に何か走る感覚があり、思わず鍵の束から手を離してしまった。
カウンターテーブルに落ちるその前に、佐野が素早く鍵を受け止める。
「すみません、佐野さ…」
「…ふ、私に見とれたかな? 有難う、お嬢さん」
軽く片目を瞑り、その男──佐野は、踵を返してガラスの自動扉の入口へ歩いて行った。
シャンデリアから反射された煌めく太陽光を受け、颯爽と風を切るように歩く姿は、老若男女問わず、見る者全てを魅了するかのようだ。
ああ、しかし。
「…残念だね…」
「うん…非常に残念な人だったね…」
佐野の大きな背中を見つめながら、智香と紘乃はぽつりと呟きあった。
いくら顔が格好良くて、身体つきが格好良くて、声が格好良くても、残念なところが目立っちゃう人間はいるものだ。
いや、逆に他が全部素敵すぎるから余計に悲しくなるというか。
「ナルシストは頂けないわ…めっちゃ好みだったけど」
ふうう~と智香が溜息を吐いた時、エレベーターの方からヒールで歩く音が聞こえてきた。
見ると、すらりとした美脚を持つ、これまたスタイルの良い茶髪の美女が2人、小さなバッグを抱えて近づいてくる。
「お疲れ様。悪いわね、先にお昼食べてきちゃって。あなた達もどうぞ」
「へ? はぁ…」
「新しく出来たランチ、すっごく美味しかったわよ~。ぜぇったいに、お勧め!」
「ほぇ? はぁ…」
凛とした雰囲気の女性が微笑み、智香の肩に手を置いた。
腰までの巻き毛を揺らす女性は、今食べてきたランチの魅力を、どうしても伝えたいらしく、紘乃の手をぎゅっと握りしめる。女性特有の、甘い香りが鼻をくすぐった。
「どうしたの?早く行かないと次の仕事に差し支えるんじゃない?食堂は53階よ」
「ランチタイム2時半までだから、気をつけてね~」
あれよあれよという間に受付カウンターを交代した紘乃と智香だったが、改めてその女性達を見るとその容姿に感嘆せざるを得なかった。
顔良し、スタイル抜群、仕草は優雅。実に申し分なし。これぞ、受付嬢。
対して自分達は。
顔…普通(寝起きは特にひどい)
スタイル…ダイエット必要(もう何年も必要としている)
仕草…大げさ(がさつともいわれますが、何か)
…考えると、なんだか実に居た堪れなくなってくる。
さっきまで、よくもあの大理石カウンターに座っていられたものだ。
「よこさん、とりあえず53階に…行ってみる?」
「そうだね」
二人の美女が出てきたエレベーターに目を向けて、何も分からないこの状況だけど、違う場所に行けば何か起こるかもしれないと期待を持つ。
あと、お腹が空いている。
エレベーターに乗り込むと、全面ガラス張りで出来ていて外が見えるようになっていた。
55階まであるうちの、53Fと印字されたボタンを押すとそれは淡く点灯し、ガラスの箱が即座に音もなく上昇していく。
ぼーっと外の景色を眺めていた紘乃が、ふと口を開いた。
「私ねぇ、一つ思ってる事があるんだ、よこさん」
「ん?」
「これはね… 夢なんだよ」
「…夢か!」
「そう、夢なのよ!!」
くわっ、とお互いに目を開きつつ、こくりと頷き合う。
そうだ、これは夢だ。だから、何だかふわふわするし、イイ男もイイ美女も登場しちゃうし、こんな大きな会社に勤めている(らしい)し。
夢だと解れば、怖いものなんてない。
「きっと、起きたら忘れちゃっているかもだし、楽しんだ方が得だと思うのっ」
「だよねっ。よーし、そうと決まれば…食べるよ、ひろちん!」
「お~うっ」
ポーン…。
智香と紘乃が小さくガッツポーズを取った瞬間、ガラスの箱が突然止まって、扉が静かに開いた。
一瞬53階に到着したのかと思ったのだが、階数ランプは44階を示している。
右こぶしを作ったままの、間抜けな状態の二人の前に、鋭い目つきを持つ銀髪の男が立っていた。
そして明らかな嘲笑を浮かべ、はき捨てるように小さく呟く。
「…アタマ、悪そーだな」
「っ…」
ずかずかとエレベーターに乗り込んできた男は、そのまま『閉』のボタンを押した。