表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

時代系

【フィクション】弥助という男




 お城のまわりは全部海だ。

 (てい)は初めてそれに気付いた時のことを、くっきりと思い出せる。




 お城で下働きをしている母と姉にくっついて、ものものしい格好の武士達の間をぬけて、ゆっくりとした傾斜の道を上がっていったのは、もう十年も前のことだ。

 貞はその頃、まだ四歳(よっつ)だったが、目端もきくし、ちょっとした手間仕事ならできた。縄を綯ったりわらじをつくるのはお手のもので、裁縫も少しはできたし、書くのはまだ苦手だったが、文字を読むのなら二歳(ふたつ)上の兄より余程達者だった。海での仕事が忙しい父も承知したので、母と姉にくっついて一緒にお城へ行くようになったのだ。


 その時分、(いくさ)で大勢がお城をあけていたけれど、留守居をしているお武家さまは居たし、陪臣も沢山居たから、貞のやることは結構あった。飯炊きの手伝いに、掃除、皿洗い、水汲み、あっちこっちを駈けまわって、偉いお武家さまの伝言を、御方さまへ伝えたこともある。貞はいわれたことを忘れないので、随分重宝された。


 お城で働くようになってしばらく経った頃、貞は城から少しはなれたところにあるお寺へ行くことになった。御方さまの(めい)で、侍女達がそこで祈祷を頼み、護符をもらいに行くのだけれど、貞は御方さまになんだか気にいられたようで、貞もつれていくようにと命ぜられたのだ。

 侍女達はのんびりしたのばかりで、貞を妹か子どものように可愛がってくれるから、それをいやがらなかった。お貞ちゃんとでかけられる、と喜んだ程である。御方さまはその上、帰りに飴でも買うようにと、侍女達に小遣いをくださった。


 貞は、御方さまの為に護符をもらってくるのだと思うと、体がかたくなって、なんだかうまく歩けないような気がした。侍女のひとりに手をひかれ、毎日のぼりおりしている石段をゆっくりと降りていく間も、仏さまにどんなことをお願いし、護符をもらうのか、貞は頭のなかで何度も繰り返していた。

 御方さまは、お館さまの気持ちが、このところ天気のようにくるくるとかわるのを、心配しておいでだった。仏さまのご加護で、それをどうにかしてほしいと思っていたのだ。御方さまは本当に、お館さまを案じてらした。いつ見ても綺麗な御方さまは、綺麗なのにあまり、お館さまに顧みられていないらしい。天女さまみたいに綺麗なのに、と、貞はそれを、不思議に思っていた。


 御方さまが沢山寄進しているお寺で、侍女達は祈祷を頼んだ。

 貞は外でそれを待っていた。南蛮人が数人、困り顔でうろうろしていて、貞も見知っている老爺が声をかけると、道に迷ったようなことをいった。言葉が違うから、お互いわずかに知っている単語を並べるばかりで、話らしい話はできていないのだけれど、結局老爺は道案内を買って出た。多分、今南蛮人達が指揮して建てている最中の、大きな建物の場所がわからなくなったのだろう。どうやら南蛮とこの辺りとでは、随分と景色が違うようで、南蛮人達はよく迷った。


 護符をもらった侍女達と、貞は手を繋いで、お城へ戻っていった。御方さまのいった通りに護符をもらえて、ほっとしていた。その道中、侍女のひとりが飴を買ってくれて、貞は黒っぽいそれを口へ含み、小さな足で石段を駈けのぼった。

 それで、不意に気付いたのだ。狭間の向こうに、穏やかにさざ波の立つ海が見えて、お城が海に囲まれているとわかった。それまで、頭でわかっている筈だったのに理解していなかったことが、ぱっと目の前にあらわれたのだ。

 それは酷く不思議な気分だった。それまでだって、海に囲まれて、貞はそこに居たのだ。水を汲んだり、掃除をしたり、皿を洗ったり……でも、自分が海のなかに居るなんて、考えてもいなかった。

 よくよく眼下を見てみれば、毎日のように通る門は、橋のたもとにあった。毎日橋を渡っていて、その下になにがあるか、見ていなかった。その下には、しおっからい海の水と、そのなかで泳いでいる魚達が、沢山居たというのに。






 四歳(よっつ)の子どもには仕方のないことだろうと、貞はそれを思い出して、ちょっと苦笑した。

 あれから随分、時間が経って、大きな戦が何度もあった。貞は女だから、戦へついていくことはないけれど、傷付いた男達の治療はしたし、怪我で起き上がれなくなってしまったお武家さまの飯の世話もした。貞におつかいを頼んでくれた、風流なお武家さまも、戦で亡くなった。酷い病もはやったし、きりしたんが寺社を襲うこともあった。


 お城は相変わらず、海のなかにある。貞はたまに、不思議に思った。まわりはしおっからい海の水ばかりで、下働きの子どもらで塀を越え、下まで降りていって、()()()()採りをするくらいなのに、どうしてお城のなかにはちゃんと、井戸があるんだろうか。その井戸の水は、しおっからいところなんてひとつもない。どんな時でも、やわらかで甘い水が湧いている。貞は何度も、その水を汲んで、(くりや)まで走ったものだ。今だって、子どもの時分よりは大きな桶を担ぎ、厨へ水を運ぶ。

「お貞」

「はい」

 子どもらがとってきたかめのてを煮て、味噌汁にしようと思っていた貞は、呼ばれて顔をあげた。あたらしい御方さまの侍女が、にこにこして顔を見せている。「お願いしていいかえ? 御方さまが、かさ・ぷろふぇさの先生に、お届けものがあるんやって」

「ああ、はい」

 貞は頷いて、下働きの子を呼び寄せ、火の面倒を任せて厨を出た。侍女はにこにこしている。「それとなあ、帰りに飴を買うてきてほしいんやって。なんぼかあんたが食べてもいいけんな。頼んだで」




 貞は、いつぞやお寺へ寄進したのとは別の御方さまから預かった包みを手に、お城を出た。大手門をまもっている武士達が、親しげに声をかけてくる。「お貞、まだ嫁のもらい手はないんか」

「ない」

 苦笑を返す。武士達はそれに笑ったけれど、少しだけ心配そうだった。

 貞はもう十四になるけれど、まだそういう話はない。姉は去年、水夫(かこ)の嫁さんになったし、兄も嫁さんをもらって落ち着いている。貞はお城で働くのが好きで、二の丸御殿の隅の隅の、下働きの部屋に住めるようになったから、誰かと添うなんてことは考えてもいない。お城に住んで、貴いかた達のお世話をして、飯炊きや掃除、水汲みで一生を終えても、それで充分だった。


 仕事そのものが好きというよりも、海のなかにあるお城が好きなのだ。

 貞は気にいりの木があって、たまにそれによじのぼった。具合のいい楠で、腰掛けのようなところがある。それにのぼって見下ろすと、視野が海でいっぱいになった。

 海には、赤銅色に日焼けした男達が、大勢出ている。小さな舟もあれば、十人近くがのるような大きなものもある。魚をとって戻ってくる舟もあれば、無断で航行するよその船をとりしまりにいく男達も居る。長い髪をうなじできゅっとくくった、鉤を手にした男ぶりのいい水夫もいれば、年老いてくくる髪もなくなった、波を読むのに長けた爺さまも居る。遠くの浜を見れば、貝拾いの子ども達と、網をあむ女達が居る。

 たまには、夜にも木にのぼって、星や月の明かりできらきらする波頭を見た。わずかな漁り火が水面に反射して、極楽浄土のような美しさを見せる夜もある。よその水軍が横柄なことに我が物顔でやってきて、貞の姉婿達に追い返されることもある。南蛮からもたらされた筒のようなもので、星を眺めているかわり者も居た。


 貞は、そういう風景を見るのが好きだった。だから、お城で働けるのに満足していた。絶え間ない海の、波の音が、貞にはなくてはならないものだった。それを聴いていると、心が凪いでいく。




 かさ・ぷろふぇさは、大勢の南蛮人が居るところだ。のびしゃどとは違うものだが、のびしゃどのすぐ近くにあった。貞はその門前で挨拶をし、奥から出てきた南蛮人に、御方さまからの寄進を持ってきたことを伝えた。彼は貞の言葉を理解していて、にこにこしながら敷地内へと案内してくれた。

 貞は何度も、御方さま達のおつかいでそこへ行っていた。いわれたことは忘れない貞は、南蛮人の言葉を幾らか理解していたし、幾らか喋れる。意思が通じる程度には会話ができるのだ。

「じゅりやさまに、お礼をお伝えください」

 かさ・ぷろふぇさで一番偉いのだろう南蛮人は、数人、肌の黒い男をつれてやってきて、貞の手から包みをうけとり、そういった。貞は丁寧に頭をさげ、承諾した旨伝え、数歩後退る。


 南蛮人の後ろに控えた、特に背の高い、夜の闇のように肌の黒い男と、寸の間目が合った。

 貞には、のびしゃどやここで下働きをしているその男達の区別はつかない。墨を塗ったように黒い肌で、背の高く健康そうな体付きの者が多く、男ばかりなので、少々威圧感を覚えてはいた。

 南蛮人も、衣装やなにかで目星を付けているだけで、声を聴いたらまあわかるかもしれないという程度だった。普段見つけている、貞の周囲の人間達と、彼らは顔立ちがあまりにも違う。体型も違ったし、衣装も違う。言葉も違う。見分けのつこう筈はない。衣装と、声とで、なんとか目星を付けているだけで、それをかえられたらもう貞にはなにがなにかわからないのだった。


 だが、その時、貞はふっと、自分がよく見ていなかったことに気付いた。そして、お城のまわりが海だったと気付いたあの瞬間を、思い出した。

 よくよく見てみれば、肌の黒いその男達の顔は、たしかにひとりひとり違った。目が大きく、きらきらとかがやいているのも居れば、ひげそりが苦手と見え、口の辺りに剃刀の傷が幾らかあって、ひげがちょぼちょぼと生えているのもいる。髪をそりあげているのもいれば、短く整えているのもいた。彼らはなにより、肌の色が違った。上等な漆塗りのような者も居れば、砂糖の塊のような肌をした者も居る。背の高さも、腕の長さも、脚の具合も、ひとりひとり、まったく違った。

 貞はもう一度、今度は南蛮人ではなく、その男達に頭をさげて、踵を返した。南蛮人は体が二度、お辞儀したと思ったようで、妙な顔をしていた。




 お城へすぐには戻らず、貞は橋を渡って、お宮へ詣った。仁王さまのあるお宮で、その辺りは貞にはあまりなじみがないのだが、お祀りしているのが病の神さまなので、そこへ詣るようになった。貞の姉は、折角嫁いだのに、最近伏せっている。それで、どうにかその病を退治してくださいますようにと、貞は毎日そこへ詣っているのだ。

 お詣りをすませると、貞は座までいって、御方さま達のほしがる飴を買った。丸亀から運ばれてきたものだそうだ。堺や石山の辺りでそれは随分売れているそうで、以前買った時よりも値上がりしていた。

 幾つもある包みのふたつを、貞はとりのけた。通りで遊んでいる子達を呼びとめ、ひとつずつ食べていいからといって、姉の家まで届けてほしいと包みをひとつ渡す。子ども達は飴に大喜びで、貞の頼みを聴いてくれた。早速飴を口へ含んで、貞の姉の家の方面へと走っていく。もうひとつの包みは、貞の袖に滑り込んだ。

 飴の残りの包みは、いつも持っているきれで大切にまとめた。貞はとぼとぼと歩いて、お城へ戻った。門番は若いのにかわっていて、貞は彼らに頭をさげ、石段をのぼっていった。

 侍女に包みを渡し、厨へ戻ると、飯の支度の仕上げをして、自分も幾らかおなかへ詰めこんだ。袖のなかの飴の包み、ほんの数個はいったそれを、貞はまだ幼い下働きの子達へ渡した。子ども達はとても喜んで、それを食べ、まだ明るいからと、かめのてを採りに行った。











 仕事の合間、楠へのぼった貞は、南蛮人が船にのっているのを見た。南蛮の船ではない。堺や平戸から、南蛮人をのせた船が来ることがある。それだろう。それらは火縄や煙草、胡椒、びいどろ、それに生糸やなにかを積んでいる。貞にはわからない、火縄や、らんたか砲を動かすのに必要な石も、沢山積んでいるそうだ。それとひきかえにするのは、おもに硫黄だった。府内や平戸からは、明や呂宋へむけて、硫黄を積んだ多くの船が出航しているという。硫黄だけでなく、貞もたまに食べる、海鼠なども持っていくらしい。


 船に居る南蛮人は、ふくらませた袴をはき、黒いびろおどの羽織を着けて、凝った形のひげをはやしていた。襟は波打たせたかわったもので、蜘蛛の巣みたいなものを縫い付けてある。その肌は、団子をこねている時にささくれがはがれて、血がまざってしまったような色をしている。のびしゃどやかさ・ぷろふぇさに居る南蛮人達は、夏の日にあたると、顔や手の甲をまっかにしていた。

 貞がよく見る南蛮人と、あまりかわりはないが、帽子の形がかすかに違った。船の様式や、先導している小舟の装いから、平戸から来たのだろうとあたりをつける。

 南蛮人達は、いつも、肌の黒い男達をつれていた。その船にも、そういう男達がのっている。

 彼らにとって、それはなにかしらの権威付けであるらしかった。武士達は大勢の小者や近習をつれているから、それの真似をしているのだろう。南蛮人の多くは、きりしたんのお坊さまだそうだから、貞にはその行動が、なんだか不思議に思えた。お坊さまも、小坊主をつれていることはあるけれど、南蛮人が肌の黒い男達にするような扱いはしない。


 貞は、きりしたんをきらいはしないが、きりしたんになるつもりもなかった。お館さまも御方さまも、三年(みとせ)ほど前に受洗され、きりしたんとなっていたし、それもあって多くの者がキリシタンになっていたけれど、貞はそれに魅力を感じなかったのだ。以前、お寺へ寄進した御方さまは、きりしたんをきらっていて、改宗することはなかった。きりしたんは、お寺やお宮へやってきて、仏さまの像を打ち壊したり、神さまの宿る木を切ってしまったり、時折酷く凶暴になる。それで、貞はきりしたたんはきらいではないけれど、きりしたんのそういう行動はきらいだった。

 お館さま達がきりしたんになってすぐ、大きな戦があって、負けてしまった。それもあって、きりしたんになってもたいした御利益はないのではないかと、懐疑的な者は多い。南蛮人達は躍起になって、ひとびとをきりしたんにしようとしているけれど、そううまくもいっていない。きりしたんになっても、そこまで信心深くない者は、教えに背いてお寺やお宮へ詣ったし、護符やなにかも身につけていた。


「お貞さん」

 下を見ると、下働きの女の子が居た。貞はひょいと、木から飛び降りる。女の子はにっこりした。

「下に、おつかいが来ちょるよ。お姉さん、おめでたやったって」

 貞はぽかんとしたあと、くすくす笑った。病でなかろうかと心配していたが、なんのことはない。結構な話だった。


 おつかいに来てくれたのは、姉婿の仲間だった。まだ独り者の水夫の、鵂というので、何度か貞へ飴や菓子を贈ってくれている。貞はそれらをうけとって、下働きの子達と分けて食べていた。

「よかったなあ、ねえさん、なんともねえで」

「そうやな。ありがとう、鵂さん、わざわざ」

「いや、お貞ちゃんの顔を見たいできたんじゃ」

 へへっと照れたように笑い、鵂は踵を返して走っていった。貞はくすっとして、石段を戻っていった。






 いいことがあったのに、今度はぎょっとするようなことが起こった。お館さまが隠居なさるというのだ。

 貞は武家の出ではないから、直接の関わりはないし、なにが起こっているのかもわからない。けれど、あれが必要だから買ってこいとか、これをどこそこへ届けてほしいとかいわれて、そのようにした。

 どうやら、前々から、お館さまはそれを考えていたらしい。船で数時間で行ける場所にあるお寺で、これからはおすごしになるそうだ。天徳寺という。

 きりしたんがお寺ですごすというのも妙な感じがするが、侍女達の噂話や、門番達がこぼすことを聴く限り、ただのご隠居ではないようだった。その辺りにはきりしたんがいっこう増えないので、お館さまが直にお出向きになって、きりしたんを増やそうという計画のようなのだ。

 お館さまがそこまできりしたんとして考えをかためているのか、貞にはよくわからなかった。だが、話は着々とすすんでいった。


「ごめんください」

 訪いを告げると、顔見知りになった南蛮人が出てきた。かさ・ぷろふぇさは随分盛況になっている。数年前より、たしかにきりしたんが増えているのだと、貞は目の当たりにした。

「おお、よくいらっしゃいました」

「お世話になっております」

 お辞儀し、言付け通り、持ってきた包みを示した。「御方さまから、こちらへ届けるようにいわれました」

「ああ、きいております。どうぞ、こちらへ。お茶でも出しましょう」

 どうも、かさ・ぷろふぇさも、お館さまのご隠居の為に、なにやら準備をしているらしかった。貞は頭をさげ、案内されるまま、奥へとはいっていく。


 南蛮から持ってこられた材料でつくったという、白い綺麗な壁の、特別いい部屋に、貞は通された。南蛮人は室内でも履きものをぬがないから、体もわらじのままだ。すすめられるまま、南蛮製の、脚のついた座布団のようなものへ腰掛けた。

 肌の黒い男達が、すぐにお茶を運んでくる。飴のような、しろいお菓子も一緒だった。目の前にある机には、南蛮の言葉が書かれた、大きくて分厚い本が開かれている。貞が普段目にするのとは違い、紙はうっすらきばんでいて、一枚々々が分厚かった。これを綴るのだから、本が分厚くなるのも当然だ。

 本を見ていた貞は、肌の黒い男のひとりが、茶碗をひっくり返したのに気付いた。驚く貞の前で、南蛮人はその男をぴしゃりとやり、男達はお茶のあとをさっと片付け、あたらしいものを運んできた。

 南蛮人のやりように、貞は口を噤んだ。驚いたのと、嫌悪感とがあった。そんなだから、貞はそのあと、ほとんど口をきかず、南蛮人が話すことを聴いて、包みを渡し、急いでお城へ戻った。南蛮人は、何度もおつかいに来ている貞を、きりしたんにしたいようだった。文字も読めるし、数もわかるから、きりしたんになれば多くのひとを救えるというようなことを話していた。お茶を用意してくれたひとに対して、あんなようなふるまいをするのがきりしたんなら、きりしたんにはなりたくない。











 お館さまは隠居してしまった。御方さまは、二の丸御殿に残ってらっしゃる。

 貞は十五になって、やっぱりたまに、おつかいで、のびしゃどやかさ・ぷろふぇさへ行っていた。たまに、きりしたんにならないかといわれるけれど、貞はそれには答えなかった。わからないふりをしているのだ。ならないといえば、彼らは何故ならないかを訊いてくる。貞は随分南蛮の言葉を覚えたから、あなた達の振る舞いは時折傲慢で、それが非常に不愉快なのだと、いおうと思えばいえたけれど、いわないことにしていた。


「お貞さん、のびしゃどのおまつり、行った?」

「ううん、行っちょらんよ」

「あんなあ、高槻のせみなりよから、いーっぱい、ひとがきちょるんって」

 下働きの女の子は、顔をほころばせる。嬉しそうに跳ねると、まとめた髪が揺れた。「おかしをうりよったよ。おとうさんに買うてもろうた」

「よかったなあ」

 そういって、貞は、手拭いで手の水気を拭い去った。この間縫ったばかりの袷に、早速樹液が染みついているのを見付け、ちょっと苦笑する。


 おまつりに興味はないが、お菓子はほしかった。姉がこの間子どもを産み、産後の肥立ちがよくない。甘いものを食べたら、精がつくかもしれない。

 数十文を手に、貞はのびしゃどの辺りへ行った。黒い肌の男達が、荷物を担いで運んでいるのが見える。おまつりという割りに、にぎわいはない。「もし」

 声をかけると、黒い肌の男達は驚いたように貞を見た。貞は、何度かかさ・ぷろふぇさで見かけた、男達のなかでも特に肌の色が濃く、手足の長い、背の高い男と目を合わせる。

「お尋ねしたいのですが、おまつりはどこでやっているんでしょう」

 辿々しいが、南蛮人の言葉だ。男達はそれを理解したようで、同じ方向を指さした。貞は彼らに頭をさげる。「どうも、ありがとう」

 おまつりはたしかに、そこでやっていた。特製の窯で焼いたというぼーろやびすこいとが、甘い香りをさせている。平戸から運ばれてきた砂糖をたっぷりつかっているらしい。おまつりは、きりしたんにとって大切なものだそうだ。貞はそこで、甘い香りのぼーろを幾らか買い、顔見知りの男の子につかいはしりを頼んだ。数文渡して、姉へ届けてもらったのだ。


 帰り道、あの男達はまだ、荷運びをしていた。貞は、持って戻るつもりだった残りのぼーろを見て、ちょっと考え、その男達へ渡すことにした。きりしたんにとって大切なおまつりだというのに、彼らはその裏方仕事なのか、ずっと荷運びをしている。彼らもきりしたんのようだから、これくらいの恩恵はあってしかるべきだろう。

「もし」

 また、声をかけられたことに、彼らは驚いたらしかった。貞はぼーろの包みをさしだす。「道案内ありがとうございます。どうぞ」

 男達は顔を見合わせ、あの、特に肌の色の濃い、手足の長い男が、辿々しくいった。

「もらえません」

「何故?」

 男は貞のよく知っている言葉を話したのだが、貞はてっきり、その男達も南蛮の言葉で話すものだと思っていたから、南蛮の言葉で返した。

 男は肩をすくめ、南蛮の言葉で、短くいった。

「そういうものをもらってはいけない」

 それだけ。

 貞は、彼らの扱いがあまりよくないことをしっかり考えて、小さく頷いた。低声(こごえ)でいう。

「では、ぱーどれ達にわからないようにして、すぐに食べてしまいなさい」

 今度は、男達は断らなかった。貞は、なんだかいたずらがうまくいったような気分で、ぼーろを男へ渡し、彼らからはなれた。






 ぼーろの件から、貞はたまに、肌の黒い男達へ声をかけるようになった。彼らの立場も鑑みて、南蛮人の居ないところでだ。握り飯や団子をつくりすぎた時など、持っていくと、彼らは喜んでそれを食べた。

 あの、貞に最初に話してくれた、特に肌の色の濃い、手足の長い男は、彼らのなかでは格が高いらしい。貞には彼らの年齢はよくわからないのだが、あの男はほかよりも年嵩なのか、それとも出自がいいのか、信頼され、頼られていた。少しだけ、貞達の言葉を理解しているのが、その理由かもしれない。

「ありがとうございます、お貞さん」

「いいえ。いつもご苦労さま」

 久々に里帰りした貞は、お城へ戻る道すがら、家でもらった餅やまんじゅうを彼らに届けた。かさ・ぷろふぇさの裏手に居た彼らはすぐに、それを頬張る。「お貞ちゃん」

 ぱっと振り返ると、鵂が居る。荷物を背負っているから、船頭の指示で届けものにでも来たのだろう。

 鵂はぺこりと、あの男へ会釈した。かさ・ぷろふぇさへ届けもののようだ。男は鵂から荷をうけとり、自分はなにも食べずに、裏口からはいっていった。


 お貞は、送る、という鵂と一緒に、お城へと歩いていく。

「鵂さん、かさ・ぷろふぇさへよく行くん?」

「いや、たまにや。うちはたまに火薬の材料を運ぶけん、それで、若狭とか、堺とか、あの辺りとのやりとりがあるんやって。つかいはしりしちょるだけで、俺はなーんもしらん」

「ふうん」

「お貞ちゃんは、あのしらと親しいん?」

 鵂は純真無垢な笑みで、お貞を見る。「いいしやな、あの背の高いのは特に。俺なあ、ぱーどれの言葉はさっぱりやけど、あんしが少しだけ通詞をしてくれて、たすかったことがあるんや」

「そうなん? へえ……」

 お城の下で、鵂は手を振って、海へと走っていった。貞は手を振り返して、鵂の長い、潮にさらされて色が少しぬけた髪が揺れるのを、しばらく見ていた。
















 十八になった貞は、鵂との結婚をすすめられ、断っていた。鵂はいいひとだが、添うのは違う気がしたからだ。鵂は残念そうだったけれど、諦めてくれた。

 武家の出ではないから、ただの下働きの貞だが、ずっとお城で働いているし、侍女達とも親しい。武士のなかにも、貞をもらいたいという者が居て、かなりのところまで話がすすんだが、結局だめだった。貞は、城勤めを辞めたくないのだ。そこに海があり、海で働くひと達を見ることができるという理由で、貞はお城からはなれたくなかった。あたらしく据えられた阿羅漢砲は好きではなかったが。


「お父さん、海が好きやったなあ」

「うん」

 姉と、その息子と、貞は、浜辺に居た。少し前、貞の父がのった船が転覆し、水夫も船頭も、皆、海へもらわれた。

 遺骸は上がらないが、おそらくだめだろうと、皆で弔った帰りだ。貞は砂をけり、甥が砂に落書きをするのを見ている。姉はまた、おなかが大きくなっていた。

「おねえちゃん」

「うん」

「家族って、どんなものなん。こども、うむって」

「さあなあ」

 貞の質問は意味のわからないものだし、答えを期待してもいなかった。ただなんとなく、言葉が口をついてでただけだ。

 砂を掴んで、ぱっとまくと、甥が酷く笑った。

 姉が、飴をとりだして、くれたから、貞はそれを頬張った。甘く、酸っぱい。かわった味だ。酢でもまぜているらしい。もっとほしいといって、姉から幾つも飴をもらった。貞は、もう少し波を見ているというふたりを残し、とぼとぼと歩いて、お城へ向かった。


 荷物を担いで、歩いている、彼を見付けた。

 あの、特に肌の色の濃い、手足の長い男だ。

「もし」

 呼びかけて、あれから何年も、たまに握り飯やら団子やらを持っていっているのに、名前も知らないと気付いた。

 男は振り向いて、にこっとした。貞はそれへ走っていって、姉からせしめて握りしめていた飴をさしだす。「どうぞ。父の葬式の帰りです。父が海のなかでも楽しくやれるように、これを食べてやってください」

 そんな訳のわからないことをいう貞に、男は優しい眼差しを向け、肩の荷物を器用に片手で支えて、飴をうけとった。口へ含む。

 貞はぐっと、歯をくいしばった。父は、海を好いていた。その海へ行ったのだから、文句はあるまい。きっと今頃、魚達と遊んでいる。

 だから、泣きたくはなかった。貞はそれで、泣かないようにした。

 どさっと、音がして、見ると、男が座りこんでいた。荷物が落ちている。男は、顔を覆い、小さく喘いでいた。

 貞は戸惑って、その傍へしゃがみこむ。男の背中へ手を遣り、そっと撫でた。「どうしたの? どうかしたのですか?」

 男はしゃくりあげ、涙を流しながら、貞を見た。

「これは、わたしのふるさとの味です」




 男はしばらく泣いていたが、落ち着いて、荷物をたしかめた。壊れたものなどはないそうだ。それを担ぎ、彼は歩き出す。貞も、なんとなくそれについていった。

「わたしの母が、昔、これに似たものをくれました。村の木のものです。大きくて、とても大きくて、まるで空に届くような……ほかの場所で見たことのない木で……実のなかに、種がある。それは、しゃぶると、このような味がする。母はみごもっていて、わたしがおなかがすいたというと、これをくれた。ずっと忘れていたことでした。これでおもいだした」

 男は南蛮の言葉でいい、口を噤んだ。貞は、彼が泣いていたのはどうしてか、考えた。事情ははっきりしないが、どうも、彼は相当遠くから、ここへ来ているらしい。遠くのふるさとを思い、涙したのだろう。

「姉に、訊いてみます。どこで買ったのか。つくったのなら、どうつくったのか」

 貞は、必死に、そういった。「また、持ってきます」

 男は目許を拭い、小さくいった。

「ありがとう」















 お館さまが戻り、また居なくなった。あたらしいお館さまも受洗されたが、すぐに棄教された。

 南から、軍勢が攻め上がってきたのは、冬のことだ。貞はお城で、絶え間ない呻き声のなかに居た。負傷した武士達を治療していたのだ。血止めはもうなくなった。真水で傷口を洗い、きれでぐるぐるまきにするくらいしかできない。薬師は数人居るが、いかんせん怪我人が多すぎる。

 貞の鼻は、煙を嗅ぎとっていた。敵軍はおそろしいことに、城下を焼き払おうとしていた。そしてそれは、ほとんど成功したらしい。

「のびしゃどがやけおちた」

 そう聴いて、貞は目の前が徐々にくらくなっていった。




 阿羅漢砲で、敵軍が密集している辺りに、沢山の砲弾を撃ち込んだ。

 お武家さまが奮戦し、親子共々討ち死にされた。

 敵軍は退いたが、のびしゃどもかさ・ぷろふぇさも、なくなってしまった。






「お貞ちゃん」

 戦後のもろもろが落ち着いて、奮戦されたお武家さまの弔いも一段落つき、やっと一息つけそうな頃、鵂がやってきた。鉤役となった彼は、水軍同士の小競り合いで、幾らか顔に傷をつくっている。

 大手門の外へ出た貞は、鵂が焦った声を出すのを聴いた。

「あのぱーどれ、ここから居なくなるらしいんじゃ。あの黒い男も一緒に行くんやなかろうか。さっき、船がでちいってしもうた」

 貞は、呆然として、鵂を見る。

 鵂はまた、焦った声を出した。鵂もあれから、貿易などのことで何度も、彼と話しているのだ。あの飴も、一緒に食べた。三人はたしかに、親しくしていた。

「のう、せめて一目見ようや。俺、舟出すけん、行こう!」

 鵂に手を掴まれ、貞はそのまま走る。走るうちに、鵂と肩を並べ、いつの間にか追い越していた。




 鵂の小さな舟へ飛びのって、貞は祈るような気持ちで居た。あのひとが居なくなってしまう、というのは、なんだか変なことに思えたのだ。ずっと、のびしゃどか、かさ・ぷろふぇさに居るのだと思っていた。ずっと。そして、たまに、あの酸っぱいような飴を持っていって、食べてもらう。


 彼が言葉少なに、貞や、貞と一緒に居る鵂にぽつぽつと語ったことを、思い出していた。彼は、幼い頃、ふるさとをはなれたそうだ。もう、その場所の名前も忘れてしまった。家族のこともほとんど覚えていない。ただ、あの、甘いような酸っぱいような飴、それに似たもののことだけ思い出した。村にあるとても大きな木で、その実のなかに、あの飴に似た種があるのだという。それは普通、身ごもった女が食べるものだが、幼かった彼は、身ごもった母からそれをもらったことがある。

 彼は以前、安土に居たそうだ。安土や、京に。また、石山に。偉いお武家さまに仕えていて、その傍で荷運びをしたり、こまごました雑事をこなしていた。読み書きが達者ではないから難しいことはできないけれど、お武家さまは優しくて、そのようなことは気にされなかった。相撲をしたり、戦へついていったこともあるという。といっても、辿り着く頃には決着はついていて、行って帰るだけだったそうだが。

 戦があって、お武家さまが死んでしまって、ぱーどれの許へ戻った。それで、以前のように働いた。


 彼は愚痴をこぼさなかった。不平不満をいわなかった。だが、ふるさとへ戻ることを望んでいるようだった。彼がどんな理由でぱーどれ達へ奉公しているのか、貞には理解できないなにかがあるようだった。




「おおい、ちょっと待ってくれんかあ」

 鵂が声を張り上げる。海の男は声が大きい。貞は我に戻って、南蛮人達ののった船を見上げた。さほど大きくはないが、おそらく堺へ向かう船だろう。

 鵂が手を振ると、見知った船頭が顔を出した。「おお、どげえした、鵂」

「黒い肌の男らがのっちょるじゃろう。つれてきちくれんかあ」

 船はとまらないし、だから鵂も、小舟をこぎ続けている。ひょいと船頭がひっこんで、すぐにまた顔を出した。にんまり笑う。「内密にか?」

 きどったものいいだったが、貞も鵂も笑いもせず、頷いた。この何年かで、彼らがぱーどれやいるまん達からろくな扱いをされていないことは、わかっていた。

 船頭はふんと鼻を鳴らし、またひっこんだ。


 すぐに、黒い肌の男達がやってきて、船縁からこちらを見た。貞も、鵂も、もう彼らの見分けはつく。鵂が手を振ると、彼らはにこっとして、ふりかえしてくれた。

「なあ、もういってしまうんか」

 鵂がいうと、彼が頷いて、答えた。黒い肌の男達のなかで、少しとはいえ貞達の言葉を理解しているのは、彼だけだ。

「ええ。堺へ行きます。高槻のせみなりよへ行くのです」

「俺やお貞ちゃんになあんもいわんで、ひどいんやないか」

 鵂が割合、真剣な調子でいってから、小さく舌を打った。「ま、ぱーどれ達が、あんた達を自由にせんやろうな」

 それは、貞も想像がついた。黒い肌の男達は、いつだって荷運びだの、ぱーどれの雑用を仰せつかっていて、休んでいることはほとんどない。貞、それにたまに鵂がなにかを持っていっても、仕事の合間に立ったままぱっと食べている。そういう扱いに対して、彼らは不満を持っているのかもしれないけれど、顔には出さない。


「あの」

 潮風に、声が掠れる。貞は髪が顔にかかるのを振り払う。

「残れないんですか」

 男は、なんともいえない表情をうかべた。鵂がいう。

「なあ、もうちっとぉおってくれたっていいやんか。のびしゃどもまたでくるじゃろうし、これじおもでくるじゃろう。そこにおられるようにしてもろうたら」

「それはできません。この船にのるように、いわれました」

 今度は南蛮人の言葉で、だから貞は、鵂へ向けて口早にいった。「でけんって。この船にのるようにいわれちょるって」

「そんな……あんた、どうしてぱーどれ達のいうこときくんか?」

 鵂が少し怒ったような調子で声を張り上げると、男はしかし静かに、穏やかに、南蛮の言葉で答えた。

「そのように定められているのです」

 通詞をすると、鵂はむっとしたようで、櫂から片手をはなした。「じゃあ、俺が定める。お前、降りちこい。こっちに飛び移れ」

「鵂さん」

 貞はそれ以上なにもいえない。男は戸惑い顔で、ふたりを見下ろしている。

 船頭が笑った。「お前、盗みをするんか?」

「する」

 鵂が答えると、船頭は尚更笑った。

「そうやったら、もう少し待て。島影にはいったほうがいいけんの。で、わしになんかくるんのか? 見返りは?」

「これ、あげるわ、おいさん。仕立てたばっかりで」

 貞は思わず、自分が着ている小袖を示した。船頭は笑いをひっこめて、気持ちだけでいいわ、と優しくいった。




 島影にはいり、岩礁が難しい位置になると、船の速度はゆるんだ。船を動かしているのは貞や鵂の顔見知りばかりで、彼らはどうやら協力してくれるらしい。船が完全に泊まり、船頭が縄梯子を下ろすと、あの男がおずおずと、それをつたっておりてきた。鵂はかわりみたいに、懐にいれていた銭を、上へと投げる。紐でつなげられたそれを、船頭は器用にうけとった。「途中、伊予か松山にでも寄るじゃろう。そんしらにもなんかくわしちゃってくれ」

「うけおった」

 船頭がひっこみ、黒い肌の男達も、こちらへ名残惜しげに手を振ってから、居なくなった。


 船が動き出す。鵂は反対方向、浜のほうへと小舟を動かした。貞は帯を解き、小袖を脱いで、座りこんでいる彼へ被せる。肌の色が目立つから、それで隠すことにした。

 小袖を被せられた彼は、戸惑うような顔で、体を、そして必死に櫂を動かす鵂を見ている。

「いいんですか?」

「なんが」鵂は不機嫌な声だ。「大きい船の荷を盗むくらい、誰でもしちょる。俺は初めてやけどの。あんた、荷物なんじゃろう、ぱーどれにとったら。じゃあ、俺が盗んだってよかろう?」

 とんでもない理屈だが、貞は黙って頷いた。彼は鵂のいうことがわからなかったみたいだ。貞がかいつまんで伝えると、驚いたように目を瞠った。

 それから彼は、口のなかで小さく、いった。

「わたしを助けてくれて、ありがとう。でも、あなた達に迷惑がかかります。わたしはこの国では目立つから」

「そげなことはしらん」

 思わず、貞はいいかえしていた。笑ってしまう。どうして、彼はこんなにも控え目で、大人しいのだろう。大きな体で、本気を出せばぱーどれ達なんてひとひねりだろうに、それをしないのだろう。


 貞は涙をこらえ、いう。

「なあ、いいけん、おいで。お城は無理でも、水軍の館なら隠してもらえるかもしれん。あんたは働き者やけん、誰もいやがらん。また、飴、つくってあげるけん。また、食べよう。鵂さんもあれ、好きやろ?」

「おお、好きじゃ。あんたのいう本物を喰うちみてえ」

 貞は不意に、思い付いて、泣き笑いで彼を見る。

「なあ、そうや、鵂さんなら、あんたのことふるさとまで戻してくれるかもしれん」

「そりゃいいわ!」

 鵂が大声で笑った。「俺とお貞ちゃんは、本物をたべらるる訳じゃな。そりゃいい。頭領にゆるしをもらったら、すぐに出発しよう。いい船を買うてな。それに、腕のいい水夫も必要じゃあ」

「なあ、一緒に戻ろう。そこやったら、あんたは目立たん。じゃろ? 目立つのは、わたし達じゃ」

「お貞さん……鵂さん……」

 彼はぐっと、なにかをのみこむような顔になった。目許を拭い、顔を覆っている。鵂はそれから顔を背け、島々を見ている。貞も、彼が泣いているのには、気付いていないふりをする。




 浜が近付いてきた。鵂が手を振ると、水軍の仲間が気付いて、こちらを見る。「お貞ちゃんが衣装をのうならかした! かわりのもんもってきてくれ!」水夫達は笑いながら、船を飛び降りた。まるで鰐のように、するすると泳いで、浜へと向かっていく。

 貞は彼の背中を、小袖越しに、撫でた。

「何度も話したにい、名前も訊かんやったな」

 声が震える。「わたしも、鵂さんも、海は好きやけんな。あんたのふるさとまで、ほんとにつれていっちあげるで。ずうっと海の上なんて、嬉しいわ。なあ、じゃあけん、あんたの名前を聴かんといけん。ずっとあんたち呼ぶのもおかしいじゃろ。名前、教えてくれんかな」

 彼は洟をすすり、目許を拭って、顔をあげた。

「わたしは……もともとの名前は、もう、思い出せません」

 ぐさりと刺されたような、痛みを伴う答えだった。鵂が顔を赤くしている。怒っているのだろう。

 けれど当の本人は、穏やかで、賢さを感じさせる、そんな微笑みをうかべる。低くて、少しだけ涙に震えた声を出す。

「戻れば、それもわかるでしょう。……かわりに、弥助と呼んでください。この国で、尊敬するかたからもらった、大切な名前です」




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ