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仲古車

作者: 瀬口利幸

僕は、通勤途中に見かけた女性が気になっていた。

後日、その女性が、自分が乗っている中古車の前のオーナーだった事が分かった。

それがきっかけで、二人は付き合う事になる。


「いい女だったな」

会社の昼休み。

僕は近所の喫茶店で、同僚の上野と食後のコーヒーを飲んでいた。

その時、つい漏らした僕の独り言を、上野は聞き逃さなかった。

「なんだよ、それ」

「え?」

「いい女って」

「ああ・・・」

今朝、僕は会社に来る途中の国道で、その彼女に出会った。

その場所はいつも渋滞する箇所で、今朝も例外ではなかった。

そこへ、彼女の運転する車が、僕の斜め前にある路地へと現れた。

しばらくして、車は動き出し、僕は彼女の車を入れてあげた。

すると彼女は、なんともいえない優しく魅力的な笑顔で、会釈をしてくれた。

「そんなに良かったのか?」

「ああ、もう最高だよ」

「どんな笑顔だよ」

「うーん、ちょっと言葉じゃな・・・・」

「それで?」

「それでって?」

「その後の事を聞かせろよ」

「その後?」

「ついて行ったんだろ、当然。彼女の会社なり学校なり、目的地まで」

「いや・・・」

「最悪だな。男として最低だよ。ついて行くだろ普通。俺だったら絶対そうするけどな」

「・・・・」

「どうせ、お前のことだから、会社に遅刻したらまずいなとか考えたんだろ」

「そういうわけじゃねえよ」

「じゃあなんでだよ」

「信号がな」

「信号が」

「黄色に変わったから・・・・」

「それで、お前は止まって、彼女の車を見失ったと」

「ああ」

僕がうなずくと、上野は、まるで自分のことのようにがっくりとうなだれた。

そして、おもむろに頭を上げ説教を始めた。

「だから、お前は駄目なんだよ」

「なにがだよ」

「そんなんだから、いつまでたっても彼女ができないんだよ」

「どう関係があるんだよ」

「大有りだよ。恋も車の運転も、時には強引さが必要なんだよ」

「恋はわかるけど、運転は・・・・」

それからも、しばらくの間、上野の説教は続いた。

しかし、所詮上野も人の子で、やがて力尽き、コーヒーでのどを潤すこととなった。

「そんなに良かったのか?その笑顔」

一息ついた上野は、思い出したように僕に問いかけた。

「ああ」

「見てみたいなあ、俺もその笑顔」

「見せてやりたいよ、俺も」

「どんなんだったんだよ、その笑顔」

「だから、そういわれてもな、本当に、口じゃ説明しずらいんだよ・・・・」

そう言いながら、何気なく窓の外に向けた僕の目に映し出されていたのは、そのうわさの渦中の人物だった。

彼女は、同じ年恰好の女性とそろいの制服を着て、道路の向こう側の歩道を、楽しそうにしゃべりながら歩いていた。

「あ!」

僕は思わず、周りの人間が振り返るほどの声を発していた。

「どうしたんだよ?」

上野は、人として当然の質問をし、必死に、僕の視線の先に存在するものが何なのかを、つきとめようとしていた。

「あの子だよ」

と言って指差した僕の人差し指は、10cm足らずしかなく、彼女を直接この指で突くなどということは、到底不可能なわけで、この時僕は、人間としての限界を痛感せずにはいられなかった。

「どの子だよ」

「ほら、あの、グレイの制服着た二人組みの」

「え?」

「今、タバコ屋の前通った」

「ああ・・・でも、遠くてよく見えないな・・・・って、こんなことしてる場合かよ」

上野は、我に返ったように、勢いよく立ち上がった。

「え?」

「行くぞ」

そう言うと上野は、パンとテーブルを鳴らして、すばやく右手で伝票をつかんだかと思うと、左手では僕の腕をわしづかみにして、ぐいぐいと僕を引っ張りながら歩き出した。

「どうするんだよ」

「決まってるだろ。あの子を追いかけるんだよ」

「追いかけるって。もし追いついたら何て言うんだよ。向こうは俺のことなんて知らないんだぞ」

「別に話さなくてもいいんだよ。勤め先さえわかれば」

「あ、そうか」

そして、レジに着き、僕が財布に手を伸ばしかけると、上野がそれを制した。

「俺が払っといてやるから、お前は早く行けよ」

「でも」

突然の出来事にまだ対応し切れてない僕に、上野はいらだったように言った。

「このチャンス逃したら、もう二度と会えないかもしれないんだぞ」

上野のその言葉に背中を押され、僕は小走りに店の扉を開けた。

そして、彼女の後姿を見つけた僕は、いつしか全速力で走り出していた。

僕の足を突き動かしていた原動力は、上野の言葉から、もう一度彼女の笑顔を見たいという一心へと変わっていた。

まもなく、彼女は交差点にたどり着き、無情にも、そのまま右折して、ビルの陰へ姿を消した。

僕は、片側二車線の道路を横切りたい衝動に駆られ試みようとはしたものの、交通量の多さがそれを許さなかった。

車たちはまるで、ちゃんと道路交通法に従え、とでも言いたげに、僕の前を、びゅんびゅんと通り過ぎていった。

仕方なく僕は、はやる気持ちを抑えながら、交差点に向け、また走り出した。

しかし、車社会の申し子のような僕の心臓は、もうすでに音を上げかけていた。

そう、あの点滅する歩行者用信号機のように。

えっ!

おい、ちょっと待てよ、そりゃないだろ。

あと、もう少し。

あと、もう少し。

急ぎたい気持ちはあるのだが、脚の方が付いてこない。

そんな僕をあざ笑うかのように、歩行者用信号機は、冷徹に赤へと変わっていった。

それに遅れをとってなるものかと、車道の信号も、黄色から右折専用の赤に変わろうとしていた。

そして、交差点内には、それを、今か今かと待ち構えている右折車の列がずらり。

やっと交差点までたどり着いてはみたものの、そんな光景を目の当たりにしては、戦意を喪失し、立ち止まらざるを得なかった。

その時だった。

悪魔のささやきが聞こえてきたのは。

「行けー」

見ると、後を追いかけて来た上野が、遠くのほうで、人目もはばからず叫んでいた。

「同じ過ちを繰り返すな」

その言葉が、僕のなえかけていた気持ちに、再び火を点けた。

そして、自分でも気付かないうちに、交差点に足を踏み出していた。

キキーッ!

ドン!



「あはははは」

病室に入ってくるなり、上野は、ベットに横たわる僕を指差し笑い出した。

「笑い事じゃねえよ」

幸い怪我はたいしたことはなく、右足首の捻挫と軽い打撲だけで済んでいた。

あの車が交差点で止まっていて、まだそんなにスピードが出ていなかったから良かったようなものの・・・・。

「そんなに怒るなよ。いいネタ仕入れてきたんだから」

「何だよ、いいネタって」

「彼女の勤め先がわかったんだよ」

「本当か!?」

「ああ」

「どこだよ」

「産業道路沿いに、Aストアってスーパーがあるだろ」

「ああ」

「あそこだよ」

「本当か。めちゃめちゃ近いじゃないか、俺たちの会社と」

「そうなんだよ」

「そうか。お前もいい所あるな。わざわざ調べてくれたのか」

「調べた?」

「ああ、俺のためにあちこち探し回ってくれたんだろ」

「探し回った?」

「ああ・・・・」

「調べたというか、探し回ったというか・・・・知ってたというか・・・・」

「知ってた?」

「いや、知ってたっていうのはちょっと語弊があるな」

「知ってたのかお前。知っててお前、俺に・・・」

「いや、だから、知ってたっていうんじゃなくて」

「計画殺人か! 保険金目当てか!」

「落ち着けよ。保険金なんかかけてないだろ」

「じゃあ、なんだよ」

「一回だけ、会社の帰りに寄ったことがあるんだよ、あのスーパーに。タバコがないのに気付いて」

「じゃあ、何であの時に言わないんだよ」

「だから、そのときにチラッと見ただけだから」

「・・・・」

「どっかで見たことある制服だなあとは思ったんだけど、すぐには思い出せなかったし、自信もなかったし」

「そうか、Aストアか」

少し冷静になった僕は、もう、すでに、上野の持参したいいネタに酔い始めていた。



怪我が完治すると、僕は早速、会社帰りに上野を伴って、Aストアへと足を運んでいた。

「どうだ、いたか?」

店内に入り、レジを見渡す僕に、上野が問いかけてきた。

「いたかって、確認したんじゃないのか?彼女がこの店に居ること」

「できるわけないだろ、遠くてよく顔見えなかったんだから。制服だけだよ、確認したのは」

「ああ、そうか」

「で、どうだ、いたか?」

「うーん・・・いないな」

「そうか・・・とりあえず一周してみるか」

「え?」

「店内の他のところに居るかもしれないだろ。休憩中かもしれないし」

「そうだな」



「どうだ、いたか?」

「いないな」

店中くまなく探してみたが、彼女の姿はどこにもなかった。

「休みかもしれないな、今日は」

「そうだな」

「もう一回、レジ見に行ってみるか。休憩から戻ってるかもしれなし」

「ああ」



レジに着き、一応眺めては見たものの、やはり彼女は居なかった。

「どうだ」

僕の様子を見て、十分に察知することができたのだろう。

上野の語尾に、もはや?マークの存在はなかった。

「いないな」

「明日また来るか」

「ああ」

と力なくうなづき、レジの横を素通りしようとした僕の目に、衝撃的シーンが飛び込んできた。

今まさに、休憩を終え、パートのおばさんらしき人物と、レジを交代しようとしている彼女の姿が。

僕は、しばらくの間、その場に立ち尽くし動けずにいた。

「どうしたんだよ」

僕の異変にやっと気付いた上野が、背後から声をかけてきた。

そして、僕の視線の後を追い、事の重大さを認識した。

「あの子か」

「ああ」

僕は答えるより早く、売り場へと戻り、適当に二三の商品を見繕って、彼女の居るレジに向かった。

そして、遅れてきた上野と共に、客の列の最後尾に着いた。

そこで僕は、初めてまじかで見る彼女を、初めて聞く彼女の声を、十分に堪能し始めた。

「かわいいな、性格も良さそうだし」

という、上野の彼女への賛辞を、BGM代わりにしながら。

彼女はてきぱきと仕事をこなしていき、僕と彼女の距離は、みるみるうちに縮まっていった。

そして、ついに僕の番になった。

「いらっしいませ」

彼女はあの日と同じ笑顔で、僕を迎えてくれた。

思わず握り締めたくなる様な、小さくてかわいらしい手。

後ろで束ねられ、背中まで伸びた黒い髪。

うつむき加減にレジを打つ横顔。

それらすべてに、うっとりとしながら見とれていた僕のひじを、上野は、モールツ信号並みにつついてきた。

それを解読してみると、

(早く声をかけろ)

という内容だった。

これより先しばらくの間は、すべてお互いの目と目でのやり取りとなる。

(そんなこといったって、何て声かけりゃいいんだよ)

(知るかよそんなこと。自分で考えろ)

(そんなこというんなら、お前が声かけろよ)

(何で俺なんだよ。お前が好きになったんだろ。お前が声かけるのが当然だろ)

僕たちが、そんな激論バトルを繰り広げている間に、もう、すでに、彼女との別れの時は訪れていた。

「ちょうど千円になります」

彼女の言葉で我に返った僕は、言われるままに財布を取り出し、千円札を渡した。

「ありがとうございました」

こうして、お金のやり取りを最短時間で済ませた僕たちは、後ろにずらりと並ぶ、買い物至上主義のおばさんパワーに押し出されるようにして、彼女のもとを立ち去った。



「いい子だなあ」

「だろ」

僕たちは、彼女の余韻に浸りながら、薄暗くなった駐車場を歩いていた。

「お前、気付いたか?」

「なにを?」

僕の唐突な質問に、上野は少し戸惑っていた。

「気付いてないだろうな」

「だから、なにがだよ」

「ありがとうございましただよ」

「ありがとうございました?」

「ああ、彼女言っただろ、俺に。ありがとうございましたって」

「そりゃ言うだろ、客なんだから」

「それが違うんだよな」

「なにが」

「他の客に対するありがとうございましたと、俺に対するありがとうございましたは」

「一緒だろ」

「違うんだよ、微妙に、ニュアンスが」

「・・・・」

上野はこの時点で、まったく僕の話についてこれていなかった。

そんな上野にはお構いなしに、僕は突っ走った。

「あれは、本日はどうも、当店の商品をお買い上げくださって、ありがとうございましたっていうだけじゃなく」

「だけじゃなく?」

「この間はどうも、渋滞の列に私の車を入れていただき、ありがとうございましたっていう意味が含まれた、ありがとうございましたなんだよ」

上野はやっと意味が理解できたらしく、僕の肩に手を置き言った。

「気が済んだか?」



数日後、僕は会社に着くなり、隣の席の上野に、昨日の出来事を話し出した。

「やったぞ、おい」

「どうしたんだよ」

「手と手が触れたんだよ」

「誰と誰の?」

「決まってるだろ。俺と彼女のだよ」

「え?デートしたのか」

上野は思わず、身を乗り出してきた。

「違うよ、つり銭もらう時にだよ」

「つり銭?」

「ああ、俺、昨日も買い物に行ったんだよ。で、つり銭もらう時に、こう、彼女の手と俺の手が・・・・」

ゼスチャーつきで熱弁する僕とは対照的に、身を乗り出していた上野の背中は、あっという間に、椅子の背もたれに吸い寄せられていった。

「この間は千円ちょうどで、つり銭もらえなかっただろ。だから、昨日はちゃんと、つり銭もらえるように計算して・・・・」

この時やっと、僕は、上野の豹変ぶりに気付いた。

上野はあきれた様子で脚を組み、タバコをふかしていた。

「何かご不満?」

「お前なあ・・・・」

上野は、組んでいた脚を戻し、臨戦態勢に入った。

「何歳になるんだよ」

「28」

「だろ。今まで、女と付き合ったことないわけじゃないよな」

「ああ」

「手握ったことないわけじゃないよな」

「ああ」

「それ以上のこともしてるよな」

「ああ」

「だったら喜ぶなよ、そんなことくらいで。今時、中学生でも喜ばないぞ」

上野は僕の両肩に手を置き、諭すように言った。

「馬鹿。彼女は特別なんだよ」

「そりゃまあ、確かに、いい子だとは思うけど」

「それに・・・・」

「それに?」

「いつまでも、少年の心を持った男なんだよ、俺は」

僕は、優しく上野の両手をはずしながら言った。

「捨てろよ、そんなもん。持ち過ぎだよ」

「そんな寂しいこと言うなよ。どうだ、今晩、軽く缶けりでも」

僕は、飲みにでも誘うように、上野の肩に手を置き、缶をけるふりをした。



それから数日後。

その日も僕は彼女に会うため、会社帰りに、スーパーの駐車場に車を止めた。

そして、常連になりつつある店内へと、足を踏み入れようとしたとき、手持ちの金がなかったことを思い出した。

辺りを見回すと、道路を挟んだ向かい側に、いつも利用している銀行の支店があった。

好きなものは最初に食べる主義の僕としては、主義には反するものの、この歳になって、ましてや彼女の目の前で、万引きでつかまるわけにもいかず、仕方なく、銀行へと方向転換をした。



銀行で目的を達し外に出てみると、あたりはだいぶ暗くなりかけていた。

この時期は、日が暮れるのが早い。

道行く車は、ライトを点け始めていた。

僕の心はすでに、大切に取っておいたメインディッシュの待つ、スーパーへと飛んでいた。

そんな僕にブレーキをかけたいのか、目の前の歩行者用信号機が赤に変わった。

車用の信号を見ると、まだ、若干余裕はあったが、僕は、どうひいき目に見ても歩行者なので、ここは、過去の教訓を生かし立ち止まった。

そして、のんびりと信号待ちをしながら、何気なく、視線をスーパーの駐車場に移したとき、僕はそれに気付いた。

僕の車の傍にたたずむ人影に。

しばらく見ていたが、人影に動き出す気配はなく、僕の車の周りに他の車はない。

明らかに、人影の目的は僕の車だと思われた。

人影の正体が気になったが、距離と暗さのせいで、ここからでは性別さえもはっきりとしない。

のんびりムードから一転、イライラしながら待っていると、やっと信号が変色した。

僕の好奇心は急げと言い、恐怖心はゆっくり行けと言う。

双方の意見を取り入れた結果、僕はごく普通に歩き出していた。



近づくにつれ、人影の正体が、だんだんはっきりとしてきた。

性別は女。

小柄で、長く伸ばした髪を後ろで束ねている。

服装は、どこかの制服のように見える。

ん・・・

え?

まさか!?

もしかして!

一歩一歩人影に近づくたびに、僕の感情は、このような推移で変化していった。

そして、それが、ピークの確信に達したとき、僕は思い切って、背後から人影に声をかけていた。

「あの・・・」

僕の声に振り返ったのは、やはり、憧れの彼女だった。

でも、彼女がなぜ・・・・。

僕は、動揺を隠しきれなかった。

だが、突然降って沸いた絶好のチャンスを逃してなるものかと、必死になって言葉を探した。

「僕の車に何か?」

「あ、すいません・・・・つい懐かしくって」

彼女は、申し訳なさそうに言った。

「懐かしい?」

「ええ、私、前にこの車に乗ってたんで」

僕は、思いもかけない彼女の返答に戸惑っていた。

「前に?」

「ええ」

「この車に?」

「ええ」

「乗ってた?」

「・・・ええ」

僕がこの現実を受け入れるには、しばしの時が必要とされた。

その結果。

「えー!!!」

自分でも驚くほどの大声を出していた。

そして、彼女も負けじと驚いた。

自分で驚く位なのだから、彼女には驚く権利があり、それは、自然の摂理に反してはいない。

「ごめん、大きな声出して」

「・・・・いえ」

「でも、本当に?」

「え?」

「本当に、前この車に乗ってたの?」

「ええ、おととしの三月まで」

「へー」

僕は、ただただ感心するしかなかった。

確かに、僕の車は中古車で、中古車には当然、前のオーナーがいるわけで、そのオーナーが、僕が今あこがれている彼女・・・・。

「休憩に行くときに、なんとなく外見たら、この車が止まってて、で、ナンバー見たら、私が前に乗ってた車だったんで、つい懐かしくなって・・・・すいません、勝手なことして」

「いいよ別に。気が済むまで見てくれれば」

「でも・・・」

彼女はチラッと腕時計を見た。

「そろそろ休憩時間終わるんで、今日はこれで・・・」

と言って頭を下げ、僕に背を向けた。

そして、一歩、また一歩と、彼女は着実に、僕から遠ざかって行った。

そのたびに、僕は自問自答を繰り返す。

これでいいのか、このまま彼女帰して。

しょうがないだろ、時間なんだから。

せっかく降って沸いた絶好のチャンスだぞ。

じゃあ、どうしろっていうんだよ。

考えろ、何かあるだろ。

「あの!」

「え?」

僕は、振り向いた彼女に対し、自問自答の末に出した答えを口にした。

「良かったら、乗ってみない?」

「え?」

「この車に」

「・・・・」

「懐かしいんでしょ」

「ええ、でも・・・・」

彼女はまた、チラッと腕時計を見た。

「仕事は何時に終わるの?それまで待っててもいいし」

「今日は遅番なんで、十時過ぎになると思いますけど」

現在、時刻は六時過ぎ。

付き合いだして間もない恋人同士ならともかく、今日初めて、彼女に認知された僕が、「じゃあ、仕事が終わるまで待つよ」などとは言える訳がない。

もし言ったところで、逆効果になるのは目に見えている。

頭がおかしい奴、というレッテルを貼られることだけは避けたかった。

「じゃあ、また、いつか。都合のいい日に」

僕には、恥ずかしさを笑顔でごまかしながら、それだけ言うのがやっとだった。

彼女は、もう一度頭を下げ、行ってしまった。

僕は、少し後悔していた。

早まったかな。

変な印象与えなかっただろうか。

そんなことを考えながら、僕は、ポケットから車の鍵を取り出した。

彼女に会うという目的は達したのだから、店には、もう用はない。

僕は、鍵穴に鍵を差し込もうとした。

しかし、暗くてなかなかうまくいかない。

しばらく格闘した後、少し本腰を入れかけたとき、足音が、小走りに近づいてくるのがわかった。

けれど、僕は無視して、今抱えている問題に真剣に取り組んでいた。

そして、やっと収まるべきところに収まり、カチャットいう音とともに鍵は開いた。

それと時を同じくして、足音も、僕の隣でピタッと止まった。

「あの」

「え?」

見ると、彼女が、少し息を弾ませながら立っていた。

「今度の土曜日って、休みですか?」

「え?・・・うん」

「私も休みなんで、もし良かったら・・・・」

「・・・・」

「乗せてもらえません?」

「え?」

「この車に」

「・・・うん」

思わずうなづいてはみたものの、彼女の言葉は、僕の耳で止まったままでいた。

僕はそれを、必死で脳まで送り届け、何とか理解することに成功した。

そして、気付いた。

彼女のあまりにも唐突な申し出に、僕は、このような無残な対応しかできなかったことに。

日本語には50音もあるというのに、そのうちの数パーセントしか使いこなせていない。

生粋の日本人として、そして男として、まことに嘆かわしい限りだった。

何とか主導権を握らないと。

「じゃあ、時間は・・・・」

「10時でどう?」

「はい」

「待ち合わせ場所は・・・・メルティーって喫茶店知ってる? 国道沿いにあるんだけど」

僕は、通勤時に毎日前を通る店の名前を言った。

そこなら、彼女も知っているだろうと思ったからだ。

徐々に落ち着きを取り戻しつつある僕は、やっと、そんなことにも頭が回るようになっていた。

「はい、知ってます」

「じゃあ、そこで・・・・土曜日、だったよね」

「はい」

「休めるんだね。忙しいんじゃないの?土曜日って」

「それほどでもないですよ。ローテーションの関係もあるんで・・・・。毎週っていうわけじゃないんですけど」

「そう・・・・じゃあ、土曜日に」

「はい、それじゃあ」

そう言うと彼女は、恥ずかしそうに、足早に立ち去って行った。



「本当かよ!?」

翌日の会社で僕の話を聞いた、上野の第一声がそれだった。

僕の話とは当然、昨日の彼女との出来事だった。

「本当に、彼女の方から誘ってきたのか?」

「ああ、まあ、最初は俺の方から誘ったんだけどな。で、いったんは断られたんだけど、彼女がまた戻ってきて」

「本当に?」

「ああ」

「本当?」

「本当だって」

「本当なのか?」

「本当だって言ってんだろ。しつこいな」

その後も上野は、技巧派投手ばりに、七色の「本当」を使いこなし、僕を攻め立てた。

まあ、それも無理のない話しで、当の本人も、いまだに信じられないでいるのだから。

上野は攻め疲れたのか、タバコに火をつけ、しばらくの間物思いにふけっていた。

そして、僕の恐れていた結論を導き出した。

「まあ、お前の話が本当だとして・・・・」

「・・・・」

「彼女が興味あるのは、車だけだな」

「そりゃまあ、そうだろうけど。だけってことはないだろ」

「いや、だけだよ」

「何で言い切れるんだよ。誘ってきたのは彼女の方だぞ。何の興味も持たない男を誘うか?」

「そりゃ、お前が、好感度だけは高いからだろ」

「だから、だけってことはないだろ」

「だけだよ。大体お前、一目ぼれされるようなタイプじゃないだろ。ずっと前からの知り合いならともかく」

「知り合いだよ」

「客として、何回か会っただけだろ。そんな奴のこと、いちいち覚えてると思うか?」

「その前にも」

「余計覚えてねえよ、そんなもん」

「まあ、それならそれでいいよ。とりあえず、悪い印象は与えなかったんだし、これが、付き合うきっかけになれば」



確かに不安はあった。

僕はデートのつもりで誘ったのだが、彼女の方は上野の言うように、単なる、懐かしい車の試乗会程度にしか、捕らえていなかったんじゃないか。

もし、デートと認識して誘いに乗ったのなら、それはそれで問題だった。

実際に会ったのは初めてではないが、認知したのは多分始めてであろう男の誘いに、簡単に乗るような軽い女なんじゃないか。

しかし、そんな不安も、彼女が、時間通りに待ち合わせ場所に現れたことで。

そして、今こうして、僕の運転する車の助手席に座っていることで、どこかに忘れ去られていた。

彼女は、懐かしそうに車内を見回していた。

彼女?

そこで、初めて気付いた。

人にはそれぞれ固有名詞があり、僕は、彼女のそれを知らないことに。

そういえば、彼女はスーパーで働いているのだから、当然名札くらいはつけていたはずなのだが、舞い上がっていて、どうもそれどころではなかったらしい。

「名前は、なんていうの?」

「山名 文です。山に、名前の名に、文章の文」

「俺は、三山 茂。三に、山に、草が茂るの茂」

自己紹介が終わり、また、しばらくの間、車内を見回していたかと思うと、彼女は、おもむろに口を開いた。

「この間は、ありがとうございました」

「この間?」

僕にはぴんと来なかった。

「そうですよね。覚えてないですよね、いちいち」

「何のこと?」

「三週間くらい前なんですけど、朝、国道で、渋滞の列に入れてもらったことがあるんですよ。三山さんに」

「・・・・」

あまりの事に、僕は言葉を失った。

覚えてるよ。

覚えてるに決まってるだろ。

すぐにでも同調したい気持ちで一杯だったが、あえてやめにした。

このまま、もう少し、彼女の話を聞いてみたかったからだ。

「よく覚えてるね、そんなこと」

「ええ、すごく印象的だったんで」

「ああ、そうか。自分が前乗ってた車だもんね」

「いえ、その時は、ぜんぜん気付かなかったんですよ。同じ車種だなとは思ったんですけど」

「じゃあ、なにがそんなに?・・・・」

「笑顔が」

「笑顔?」

「ええ」

「へー、で、誰の?」

「三山さんのですよ、もちろん」

「俺の!?」

「ええ、素敵な笑顔だなあって思って」

「ちょっと待って」

「え?」

「俺が笑ってたの?」

「ええ」

「本当に?」

「ええ。とっても素敵な笑顔でしたよ」

「・・・・」

僕には、あの時、笑った記憶など一切ない。

しかし、彼女がうそを言ってるとも思えない。

だとすると、多分それは、彼女の笑顔につられての事だろう。

あまりにも魅力的な彼女の笑顔につられ、自分でも気付かないうちに、自然と笑顔がこぼれていたのだろう。

そうとしか考えようがなかった。

「じゃあ、最初から気付いてたの?」

「え?」

「俺、あの日の前にも、何回かスーパーに買い物に行って、君にレジ打ってもらったことあるんだけど」

「いえ、その時は、まだ気付いてなかったんですよ。どこかで見たことある人だな、とは思ったんですけど」

「じゃあ、いつ?」

「笑顔を見たときに」

「笑顔?」

またしても『笑顔』のご登場だ。

今や『笑顔』は、キーワードとしての、確固たる地位を築きつつあった。

僕は、必死に記憶のページをめくっていき、角を折っているページにたどり着いた。

あの時だ。

駐車場での、彼女との別れ際。

勇気を振り絞って、彼女をデートに誘ってみたものの、あっさりと断られ、その恥ずかしさをごまかすために出した、苦肉の策の『笑顔』。

出会いのときの無意識の笑顔に、苦肉の策の笑顔。

そんな笑顔が、僕に、こんな好結果をもたらしてくれるとは。

僕の不安は、彼女によって見事に一掃された。

彼女の興味は車だけではなかったし、初めて会う男の誘いに簡単に乗るような、軽い女でもなかった。

僕は一人、そんな感慨にふけっていた。

すると、不意に彼女が言った。

「お腹すきません?」

「え?」

時計を見ると、午後一時を回っていた。

「本当だ。気付かなかった」

その時、ちょうど、ファミリーレストランの看板が目に入った。

僕は、彼女の同意を得て、左のウインカーを出した。



昼食を済ませた僕たちは、駐車場にとめてある僕の車へと向かい、当然のように、僕は運転席側、彼女は助手席側へと別れて行った。

そして、鍵を開け、車に乗り込もうとしたとき、僕は思いついた。

「運転してみる?」

早速、彼女にそれを提案してみた。

「え?」

「車」

「私が?」

「うん」

運転に自信がないのか、彼女は、しばらくの間迷っていた。

そして、思い出したように言った。

「また、今度にします」

「今度?」

「ええ、今日コンタクト忘れちゃったんで。私目が悪いんで、コンタクトがないと運転できないんですよ」

「そう・・・・じゃあ今日は、歩いて来たの? 喫茶店まで」

「ええ、近いんで」

「・・・・じゃあ、また今度」

「はい」

僕たちは、中断していた行為を再開した。

そして、車に乗りドアを閉めた瞬間、僕は重大なことに気付き、思わず声を発していた。

「今度! じゃあ、また会ってくれるってこと?」

「・・・・え、ええ」

彼女は、僕の声に驚きながらも、しっかりとうなづいた。



僕は、週明けの月曜日が待ちきれず、翌日の日曜日に、上野のアパートを訪れていた。

そして、誰かに話したくてしょうがなかった、昨日の出来事の一部始終を、上野に話して聞かせた。

「へー」

そう言ったきり、上野は、これぞ半信半疑といった顔で、僕のにやけた顔を見つめていた。

そして、僕のあごを持ち、上下左右あらゆる角度から、たっぷりと観察した後つぶやいた。

「素敵ねえ?」

次に上野は、国語辞典を持ってきて、何かを引き始めた。

そして、目当ての言葉を探し当て、朗読しだした。

「素敵・・・・すばらしい様子。特に優れている様子」

と言って、僕の顔と照らし合わせ首をかしげた。

「何か、ご不満?」

「彼女、バイリンガルか?」

「違うよ」

「日本語の使い方がどうも・・・・」

「いいんだよ、人それぞれ見解の相違なんだから」

僕のその言葉で、上野はやっと、『僕の笑顔素敵疑惑』に対する追及の手を緩め、話題を変えた。

「でも、まんざらうそでもなかったんだな」

「何が?」

「初めて俺たちが、彼女に会いに行った日の帰り、ほざいてただろ、お前」

「何を?」

「彼女の言ったありがとうございましたは、客に対してのものだけじゃないって」

「ああ・・・・そうなんだよ。まさかな」

「で、いつなんだよ?」

「何が?」

「今度って」

「来週の水曜日。早く来ないかな」



待ちに待った、今度がやってきた。

この間の約束どおり、今日は、彼女が運転していた。

彼女は、とても楽しそうだった。

しかし、急に真顔になり、口を開いた。

「私、謝らなきゃいけないことがあるんです」

「え、何?」

「この間、うそついちゃって」

「この間?」

「ええ、三山さんに運転勧められたとき、断ったじゃないですか。コンタクト忘れたからって」

「うん」

「でも、あの時本当は、コンタクト忘れてなかったんです」

「じゃあ、何で忘れたなんて」

「また会えるかなと思って」

「・・・・」

「コンタクト忘れたことにして運転しないでおけば、また、三山さんに会う口実ができるかなと思って」

「俺に!?」

「ええ」

「俺に、また会いたいと思ったの?」

「ええ」

「なんで?」

「え?」

「どこが良かったの?俺の」

本当に素直に、その疑問が、口から飛び出していた。

あまりに素直すぎて、自分でも少し情けないくらいだった。

もう少し、自分に自信を持ってもよさそうなものだが、今までの人生経験がそれを許さなかった。

「すごく落ち着けたんです。助手席に乗ってて」

「落ち着けた?」

「ええ、理想的な運転だったんで」

「どういう風に?」

「車間距離はちゃんと取ってて、車の流れにも乗ってるし、無駄な車線変更もしないし」

「理想的だった?」

「ええ、よくいるじゃないですか。ちょっとでも隙間があったらすぐに、ウインカーも出さずに車線変更して、車の間を縫うように走っていく人」

「うん」

「ああいうのって嫌いなんですよ。落ち着かなくて」

「乗ったことあるんだ、そういう車に」

「前に付き合ってた人がそうだったんで」

「それが原因で別れたの?」

「それだけってわけでもないんですけど。でも、車の運転って、人柄が表れるじゃないですか。普段は隠してるような部分でも」

「そうだね」

「最初は、やさしくていい人だなって思ってたんですよ。だから、そんな運転にも我慢してたんですけど。だんだん、普段の生活でも、嫌な面が見えてきて」

「偶然だね」

「え?」

「俺の前の彼女も、そうだったんだよ」

「そうなんですか」

「うん、たまに自分で運転するときはそんな感じだし、助手席にいてもうるさくて」

「それが原因で別れたんですか?」

「それだけってわけでもないんだけどね」

信号が赤になり、車は止まった。

そして、何気なく視線を動かしていると、ある物が目に留まった。

「あ」

その瞬間、僕は、短く声を発していた。

しかし、この『あ』は、僕だけの物じゃなく、彼女との共有物だった。

彼女は、僕にかぶせるように、この『あ』を口にしていた。

ほぼ同時刻に、この世に生を受けたこの二つの『あ』。

僕たちは、しばし見つめ合っていた。

そして、まずは彼女が、僕の『あ』から解決しにかかった。

「どうしたんですか?」

「あの車の助手席に座ってるの、さっき話した、前の彼女なんだ」

僕は、反対車線の先頭で、信号待ちをしている車に目を向けながら言った。

彼女も僕の視線を追う。

そして、次は、彼女の『あ』。

「どうしたの?」

「その隣の運転席にいるの、さっき話した前の彼氏なんです」

僕たちは見つめ合い、同時に噴き出した。

「ベストカップルだね」

「そうですね」



僕たちの仲は、順調に進んでいった。

しかし、付き合いだして半年が過ぎようとしていた頃、ちょっとしたことが原因で、その流れは変わった。

その日は金曜日で、僕たちはデートをしていた。

翌日、僕は仕事が休み。

お互いの休みの前日には、相手の部屋に泊まりに行くのが、二ヶ月くらい前からの恒例となっていた。

そして、泊まりに行く前には、コンビニに立ち寄ることも。

その日も、いつもと同じように、なじみの看板を目にした僕は、ほとんど条件反射で左のウインカーを出していた。

しかし、いつもと違うところが一つだけあった。

いざ、コンビニの駐車場に入ろうとしたところ、あいにくいっぱいで、車を止めることができなかった。

仕方なく、僕は、法治国家の日本に少しだけ反逆して、路上駐車をした。

これがいけなかった。

「どうしたの? あそこに駐車場あるよ」

すかさず、彼女が言った。

そう、確かに、50m位先に有料の駐車場がある。

それは、僕も知っていた。

いつもの僕なら、当然そこに止めていただろう。

しかし、その日はそうしなかった。

(まあ、いいか)

と思ってしまっていた。

なぜだろう。

僕にもわからない。

魔がさしたとしか言いようがなかった。

「いいだろ、たまには」

僕は、彼女の言葉を軽く聞き流し、さっさと車を降りた。

そして、コンビニに向かって歩き出したが、そのうちに聞こえてくるだろうと思っていた、ドアの開閉の音や彼女の足音が、いっこうに聞こえてこない。

僕は立ち止まって、車の方を振り向いた。

しかし、いつまでたっても、彼女が降りてくる気配はない。

仕方なく、僕は、独りで買い物をすることにした。



「何でこなかったんだよ」

買い物を終えた僕は、車に乗るなり、助手席の彼女に言った。

しかし、彼女は、僕の質問に答えるそぶりも見せず、窓の外を眺めながら深くため息をついた。

「はーあ」

「なんだよ、それ」

「そんな人だと思わなかった」

「そんな人?」

「他人の迷惑なんて気にせずに、平気で路上駐車できる人だなんて」

「たかが10分か20分だろ。道は狭いわけじゃないし、車だってそんなに通ってないし」

「そういう問題?この車のせいで、事故が起きる可能性だってあるでしょ」

「しれてるだろ、そんなもん」

「はーあ・・・・がっかりした」

その言葉でムカッとした僕は、無言で車をスタートさせた。

ハンドルを彼女の胸倉に見立て、思いっきり鷲掴みにしながら。

結局、その日は、最悪の雰囲気で彼女を送り届けただけで、そのまま、彼女の部屋には泊まらずに帰った。



「どうしたんだ。元気ないな。彼女とけんかでもしたのか?」

隣席の上野は仕事の手を休め、その言葉どおりのたたずまいの僕に、声をかけてきた。

「よくわかったな」

「当たり前だろ。うわべだけの親友なんだから」

「普通の友達ってことだな」

「で、けんかの原因は何なんだよ」



「そりゃ、彼女のほうが正しいな」

僕の話を聞き終えて、上野が言った。

「そりゃまあ、そうなんだけど。初めてだぞ、路上駐車したのなんて。お前だってするだろ」

「まあな。で、それからずっと会ってないのか?」

「ああ」

「どれくらい」

「・・・・一ヶ月かな」

「一ヶ月!・・・・その成れの果てが、これか」

上野は僕の肩に、ポンと手を置いた。

「会いたいんだろ」

「そりゃまあ・・・・」

「会いに行けばいいだろ」

「でもな・・・・」

「彼女も会いたがってると思うぞ」

「そうかな」

「会って素直に謝っちゃえよ」

「もう怒ってないかな」

「怒ってるわけないだろ、そんなことくらいで。忘れてるよ、とっくに」

「・・・・」

「時は偉大だぞ。いろんなことを忘れさせてくれる」 

「そうだな、確かに」

「きっと、はにかみながら、やさしく笑顔で迎えてくれるよ」



上野の言葉に勇気付けられたのか、そそのかされたのか、自分でもよくわからなかったが、とにかく僕は、早速その日の帰り、彼女の勤めるスーパーへと車を走らせていた。

スーパーに着いた僕は、レジに彼女がいるのを確認してから、適当に商品をかごに入れ、彼女の元へ向かった。

しかし、彼女との距離はなかなか縮まらない。

脳が発した命令に対して、脚が、強烈な拒絶反応を示していた為だ。

そして、手に汗握る壮絶な戦いの末に、最後は下馬評通り、脳が脚を力でねじ伏せ、ようやく彼女の元へたどり着くことができた。

いつものように、やさしく笑顔で、前の客を送り出した彼女は、そこで、やっと、次に控える僕の存在に気づいた。

気付いた・・・・とは思うのだが、まったく反応がない。

上野の言っていたように、はにかんだ笑顔を作るわけでもなく、反対に、怒りをあらわにするわけでもない。

他の客に対するのとまったく同じ態度で、僕を出迎えてくれた。

それは、恐ろしいまでに完璧だった。

今まで半年間、付き合ってきた事実など一切なく、まるで、今日が初対面であるかのような、錯覚を受けるくらいに。

そこまで、彼女の怒りは本物だということか。

そんな錯覚を振り払いたかった僕は、つり銭を受け取るときに、思い切って声をかけてみた。

「まだ、怒ってる?」

その言葉に、初めて彼女が反応して、一瞬、僕をキッとにらみつけた。

しかし、すぐに、いつもの笑顔に戻り、他の客同様、やさしく送り出してくれた。

僕は、うれしかった。

彼女に、にらまれたことが。

それによって、失いかけていた彼女との半年間を、取り戻すことができたような気がしていた。

そして、同時に、闘志も沸いてきた。

彼女が許してくれるまで、何度でも、スーパーに足を運ぼうと、心に決めていた。



次の日も、また次の日も、僕は、会社の帰りにスーパーに立ち寄ったが、彼女の反応は変わらなかった。

そして、一週間目の水曜日。

その日も僕は、会社を出る直前から降り出した雨の中、いつもの様に、スーパーに向け車を走らせていた。

しかし、スーパーが視界に入ってきたとき、それまで順調だった車の流れが、急に止まった。

ラジオに答えを求めたところ、この先で事故があり、現在、片側二車線あるうちの、一車線が通行止めになっているとのことだった。

どうすることもできない僕は、いらいらしながら、渋滞が解消するのを、ただひたすら待っていた。



それから30分後、やっとスーパーの前までたどり着いたとき、左斜め前にある駐車場の入り口兼出口に、一台の見覚えのある車が、左のウインカーを出しながら現れた。

彼女の車だった。

多分、今日は早番だったのだろう。

場所こそ違えど、あの時とまったく同じ状況だった。

彼女と初めて出会った、あの時と。

しかし、彼女の反応は、まったく違っていた。

僕に気付くと、すぐにそっぽを向き、それ以後、一度もこっちを見ることはなかった。



しばらくして、僕の前が少し空いた。

しかし、彼女は入ろうとはしない。

僕に入れてもらうのが嫌なんだろう。

僕も、間を詰めようとはしなかった。

また、しばらくして、前の車との距離は10m以上になっていたが、彼女の車は微動だにしなかった。

それを見て、僕も覚悟を決めた。

こうなったら、意地でも彼女の車を入れてやる。

幸いにも、もう一方の出入り口は、工事中で使えない。

そして、彼女の後ろにも、車がずらりと並んでいる。

身動きの取れない彼女に、残された道は一つしかなかった。

僕は、シフトレバーをニュートラルにし、サイドブレーキを引き、タバコに火をつけ、臨戦態勢に入った。

すると突然、見違えるように、車が流れ出した。

ドライバー達は、今までの鬱憤を晴らすかのように、びゅんびゅんと通り過ぎて行く。

それに取り残されたのは、僕と彼女と、それぞれの後ろに連なる車の運転手たち。

こうなると、今まではおとなしく、二人の意地の張り合いを見守っていた運転手たちも、黙ってはいなかった。

彼らは、絶好の武器であるクラクションを使って、ブーイングの嵐を浴びせかけてきた。

そして、その音が、公害のレベルにまで達したとき、彼女は、やっと重い腰を上げ、僕の前に進み出た。

かと思うと、僕の傍から、一刻も早く離れたかったのか、ものすごいスピードで走り去っていった。

勝利の余韻に浸っていた僕は、慌てて彼女を追いかけた。

なぜ追いかけたのかは、自分でもよくわからない。

別に、追いかけてどうしようという事もなかった。

ただ、彼女に置き去りにされるのが、無性に悔しかった。

多分、意地の張り合いの延長だろう。

彼女は、やたらと車線変更を繰り返し、車の間を縫うように進んでいった。

僕も、必死に彼女に食い下がり、ちょっとしたカーチェイスを展開した。

そして、やっと彼女の後ろにぴたりとくっつくことが出来た時、目の前の信号が黄色になった。

どうするんだ?

僕は一瞬迷った。

しかし、彼女の車は止まりそうにない。

よし、行こう。

そう心に決めて、さらにアクセルを踏み込んだとき、突然、彼女がブレーキを踏んだ。

僕も慌てて、ブレーキを思いっきり踏む。

しかし、運が悪かった。

今も、雨は降り続いている。

そのせいで、くぼみがある路上には、いたる所に水溜りが出来ている。

僕がブレーキを踏んだところは、まさに、その真上だった。

それに加えて、スピードの出しすぎ。

そんな大御所の二枚看板に共演されては、エンディングは目に見えている。

僕の車は、フィギュアスケートの選手ばりに、くるくると回り始めた。

視界の端には、何事もなく交差点を通り抜ける彼女の車が。

やられた。

そこで、僕はやっと気付いた。

彼女は、ブレーキなど踏んでいなかった、という事に。

僕が見たテールランプは、ブレーキを踏んだ為のものじゃなく、ライトを点けた為のものだったんだ。

しかし、今更そんな事に気付いても、もう遅い。

僕は、死を覚悟していた。

なおも回り続ける車の中で、ゆっくりと流れていく景色を見ながら、人は死にかけるとき、その場面がスローモーションになるって言うけど本当だなあ、などと、妙に冷静に考えていると、やっと車は止まった。

奇跡的にも、どこにもぶつからずに済んだのだろう。

特に衝撃もなく、体にも、異常は感じられなかった。

ただ、しばらくの間、放心状態になることだけは避けられなかったが。



それから、どれくらい時間がたったのだろう。

僕は、ある物音で正気に戻った。

ドンドンドン

ドンドンドン

なおも、物音は続いた。

僕は、それに導かれるように、ゆっくりと視線を巡らせていった。

そして、彼女に行き着いた。

彼女は心配げに、運転席の窓から、中を覗き込んでいた。

僕は、パワーウインドーのスイッチを押した。

「大丈夫? ねえ、大丈夫!?」

彼女の声は力強く、わずかな隙間をこじ開け、自力でパワーウインドーを押し下げるくらいの勢いで飛び込んできた。

そして、彼女は、窓が全開になると上半身を滑り込ませ、僕の肩をつかみ揺さぶった。

「ねえ、大丈夫!? ねえ」

そこでやっと、まだ少しぼうっとしていた僕の頭が、活動を再開した。

「・・・・ああ」

「本当? 本当に大丈夫なの?」

「ああ」

「体、なんともない?」

「うん、なんともない」

「よかったー!」

気付くと、安堵の表情を浮かべる彼女の目には涙が。

そして、何度も窓ガラスをたたき続けた右手には、血がにじんでいた。

しかし、その時、同時に、彼女も気付いていた。

というよりも、思い出していた。

僕たちが、喧嘩の真っ最中だったということを。

彼女は恥ずかしそうに、僕の両肩から手を離し、足早に、路肩に止めてあった自分の車に戻っていった。

そして、彼女は、ゆっくりと車をスタートさせた。

僕も、それに続く。

彼女の運転はさっきまでとは違い、今まで以上に、やさしく滑らかなものへと変わっていた。



しばらく走っていると、それは見えてきた。

見覚えのある看板が。

僕と彼女が喧嘩をする原因になった、コンビニの看板が。

僕は、自分でも気付かないうちに、左のウインカーを出していた。

そして、もう一人。

僕の前を走っていた彼女も、僕と全く同時に、左のウインカーを出していた。

このウインカーは、左に曲がりますという合図であると共に、何よりも確かな、二人の仲直りの合図にもなっていた。


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