初恋
空気の歪むような炎天下、足下の照り返しを眺めながらゆっくりと歩いていく。
アスファルトの上に履き古したシューズの左右が規則正しく出入りし、白黒に縫われたボールを交互に跳ね上げる。鈍色の中に丸い影が動きながら、徐々に前へと進んでいった。
蝉の声に埋め尽くされた郊外の路地、時折遠くをエンジンの音が走り去る。新しい民家の並びにはこの平日の昼、人の気配は見えない。
ボールを蹴上げながら公道を歩くのは少々マナーが悪いだろうが、この閑散具合だ。見咎める者もいないだろう。
シューズの上にむき出しの日に焼けた脛、左の膝の下にクリーム色に変色した手術跡が目立つ。これのせいでしばらく蹴れなかったボールも、ようやく普通に歩くのと変わらないくらいに足へと馴染んでくれている。
やがて突き当たりに上背くらいに繁った椿の垣が見えてくる。道はそのまま直角に曲がって続くが、それを横目にそのまま真っ直ぐ、垣根の脇へと足を踏み入れた。
その先はちょっとした木陰で、うねるような根っこが所々地面に浮き出て足場が悪いが、それでもさほど苦労なくボールに土をつけないまま、更に前方にあるフェンスまで辿り着いた。
一つ大きくボールを蹴り上げる。木の葉に散らされた青空に白球が静止し、その刹那に陽光を丸く縁取る。ほどなく落ちてきたそれを腕に収めてフェンスの中を見た。
テニスコート半面分に乾いて荒れた地面が広がり、ひび割れから雑草がまばらに顔を出している。三方はフェンス、そして前方の一面には重厚な緑色の壁が設えられている。そこには腰くらいの高さに白帯が引かれていた。
周囲に人の気配は一切ない。木々に反響するように蝉が一層鳴く中を、金網を切り取るように据えられた扉から足を踏み入れた。
中心あたりに壁と正対して立ち、まずはごつごつした地面にボールをぶつける。ややイレギュラーに跳ねたがそれほどコンディションは悪くない。定期整備など特になされないここは、天候や他の者の使用によってもっとボロボロになることがある。
再びボールを両の足で、地につけることなく交互に跳ね上げる。少し逆回転をかけながらリズミカルに、爪先まで温まって神経が目覚め、足を動かすのが思考ではなく反射に変わるまで。そして頃合いに、また大きく蹴り上げ、落ちてきたそれを足の甲で横方向にとらえた。
小気味良い感触とともに弾丸が唸って飛び、壁にぶつかって鈍い音を立てる。やや上気味に跳ね返り、放物線を描いて足元に落ちてくる。それを足裏でぴたりと止めた。
今一度足先で宙に上げ、右、左、今度は頭を経由して、また蹴り込む。跳ね返りを受け止め、そしてまた。破裂するような打音が何度も夏空に響き、吸い付くようなゴムの感触とシューズに籠り始める熱に懐かしさが湧いてくる。
二十年近く、ほとんど毎日これを蹴ってきた。無心に足を振りながら、最近初めて大きく間が空いた日々を思い出す。
入院、手術、思うに動けず退屈な毎日。リハビリにしても冷房の効いた病院ではさしたる負荷には感じなかった。しかしこうして、ようやく戻ってきた。
想像の中で緑の壁に細かな四角の切れ目が入り、向こう側の観客席を透かしてふわりと軟化した。そこにボールを突き刺すと揺らぐネット、笛の音、歓喜の声。あの高揚が目の前に迫っている。
気が付けば汗は滝のようにしたたり、濡れたシャツの沸く湿気が切れる息に拍車をかけている。髪の毛が焼けているように頭が熱く、陽炎のように少し視界がくらくらした。
止めたボールを拾い上げ、フェンスの扉を再度くぐって外に出た。
垣の外に出て公道を見回すと、すぐ近くに飲み物の自販機がギラギラの陽に輝きながら佇んでいた。前まで歩き、ウェストポーチから小銭を出してスポーツドリンクを買う。
喉を潤しながら、未だ少し体になまりが残るのを感じていた。目標としていた大学リーグまでには調子を元に戻せそうだが、いまは無理せず休憩を挟んだ方がいいだろう。
自販機の脇にしゃがみ込み、ゆっくりドリンクを飲みながら路地を眺める。相変わらず人通りは少ないが、いま曲がり角の向こうからは自転車を漕ぐ音がわずかに聞こえてきている。段々と近づいてくるのを聞くともなしに聞いていると、音は目の前を通る寸前でやおら停止した。
「たくみくん?」
名を呼ばれて目線を上げると、自転車にまたがっているのは同年代の女。その顔をまじまじと見て、思わず立ち上がった。
「上原……」
呟いたと同時に、高校の頃の思い出が鮮やかに蘇る。
二年の委員会で一緒になって親しくなり、たまに試合を観に来てくれたりしていた。クラスの別れた三年のある日に二人で出掛けたことがあるがそれも一度だけ、そのまま何もなく迎えた卒業式、何か話したい思いはあったがタイミングが掴めず果たせなかった。
「久しぶりだね」
「あ、ああ。元気してた?」
突然過ぎて口が追い付かず、少ししどもどしながら答える。
「うん。たくみくんは、やっぱりサッカー続けてるんだね。良かった」
「上原はいま何やってんの?」
「あっちの方にある工場で事務員やってるんだ。いま事務用品買いに行かされてるところ」
確かに上は作業着だ。下はロングスカート、足元はヒールだった。
「大学行ったんじゃなかったっけ? 頭良かったのにな」
それには答えず、曖昧に笑った。
その笑顔にまた昔の記憶が重なるが、いまは薄化粧が引かれてやや雰囲気が違っている。照れ臭い気持ちを誤魔化すように冗談めかして言う。
「すごいな、社会人かぁ。もしかして、結婚とかは?」
「えぇー、してないよー。彼氏もいないし」
それを聞いて心が動いた。卒業式の日、打ち上げに向かう輪に囲まれ動けずに見送ったブレザーの背中を思い出す。いまなら何か、あの時話せなかったことを話せるかも知れない。
「じゃあさ、お互い酒も飲める歳だし、その……」
食事でもどう? それは続く言葉にかき消された。
「本当は理学療法士になりたいんだけど、家にお金がないから進学出来なくて。だからいま働きながら勉強してるんだ。忙しくてそんなの作る暇なかったよ」
そこで気付いて、きょとんとした顔で首を傾げる。
「あれごめん、いま何か言おうとした?」
「いや、なんでもない」
脳裏に再び、ゴールの揺らぐ光景が現れていた。
ボールが落ちて時間が経てば揺れは止まり、じきに無人となった観客席の向こうからは荒涼とした風がグラウンドを吹き抜ける。その時に、その一点は何の意味を持っているのだろうか。
試合に勝つこともあるだろう。しかし自分の実力は頂点を極め商品になり得る次元ではなく、どこかでは確実に負ける。その時に一体何が残るのだろうか。親の金で通っている大学で。
長い時間黙って見つめ合っていると、彼女が心なしか寂しげな表情になって俯く。それでも何も言えずに、また顔を上げて口を開くまでを過ごした。
「じゃあ、またね」
「うん。仕事、頑張って」
お互いに笑顔で手を振り、少し錆びた音を立てて自転車は動き出す。厳しい夏の昼下がりを、ゆらゆらと作業着の背中が遠ざかっていく。
ただ立ち尽くし、それを見送った。路地の最果てに揺れる陽炎の向こうに霞んだあとも、長く長く見送った。
何か落ち着かない足でボールとともにフェンスの中、壁の前へと戻った。足で浮かせる自信が湧かず、手で放り投げてそれを蹴る。滑るような感触とともに弱々しく玉は飛んで、壁にぶつかりてんてんと前に転がった。
歩き寄って拾い上げ、真ん中へ戻って再び蹴ってみる。今度はまだましに飛んだが、何か空気が抜けたような思いだ。体が固くなっている。
やはり明後日の方向に跳ね返ったボールに駆け寄り、拾おうとして手を止めた。見上げると色の濃い空が燦然と輝いている。いつも通りのような、いつもより遠くにあるような感覚に目を細めた。
今日だけはこのまま帰ろう。そして明日からまた、ボールを蹴ろう。