Ⅰ.アマテルとカスガマル
46億年前、火星―――
嘗て、火星には水が存在した。生命も存在し、太陽が地球と較べて遠い為に気温は寒冷であるものの、其等の恩恵に与る土壌としては先ず先ずであり、生命も叉其程やわな神経をしていないのでどの惑星よりも早く、そして長く、この惑星に生命は生存し続けた。
火星は、地球は勿論金星よりも早く生命を宿す惑星となり、固体惑星で最も早く惑星としての生に目覚めた。
金星・地球が原始惑星の衝突に因って形成された一方で、火星は原始惑星単体で生き残り、かつ当時は地球の軌道上に在った。周りで衝突を繰り返す其等を尻目に火星は一足早く土壌を完成させ、その際に水と生命の種を得る。地球が完成するとその重力から外側へと押し出されたが、生命は逞しく進化を続け、地球とは比べ物にならない速さで高等生物へと成り上がっていった。
転機が起きたのは凡そ38億年前。火星も元々は地球と同じ様に青い空・土色の大地・豊かな緑をもつ美しい星であったが、突如としてこの色彩鮮やかな星は凡てが緋色に染まり、痩せた地となり、植物を含めた生物は見る影も無く消えて仕舞う。潤沢だった海は乾上がり、酸化鉄に緋く塗り変えられた岩石は剥き出しになった。
火星が滅びた原因はわからない。併しこの星では末期、頻りに宇宙へロケットを飛ばしていた様で、この星がもうダメだという事は予測がついていたらしい。ロケットに搭載されしは人工知能より遙かに賢い頭脳を持ち、決して朽ちる事の無い丈夫な身体を与えられた―――人造人間だったと云う。併しながら、人造人間は結局彼等の技術では、子孫を生す事も人間を人間たらしめる最も後世に残しておきたい意識・感情といった尊厳を実現する事も間に合わず、単なる“デブリ(モノ)”と成り果てた。だが人造人間でないにしても、彼等の切札として、研究の発端として使われたアダムとイヴとも言える二つの改造人間を夫々(それら)其等と共に打ち上げた。
マーズ=グローバル=サーベイヤーとマーズ=パスファインダー。NASAの探査機にも名づけられる一対の其は、生前天才と謳われた人間の頭脳を持ち、身体を朽ちる事の無いよう加工された火星史上初の実験被験体だ。
その内片方の探査機は地球の、南極大陸に落下した。大気圏への突入の衝撃、永い期間の宇宙の漂流の影響で機体は燃え尽き、肉体も滅んで仕舞ったが、細胞だけは生きていた。アラン・ヒルズ84001と名づけられた隕石に附着していた細菌は、実に1万年の刻を進化に宛がい、人形の娘へと変貌を遂げ、大和の春日丸の前へと姿を現した。
―――其が、火星人マーズ=パスファインダーが地球の天照大御神へ到る成長秘話と、珍布峠での天児屋命との出逢いに通じる経緯である。
奈良県高市郡明日香村―――
『春日丸!』
天照は気安く天児屋の諱を呼んだ。名を呼ばれる事に慣れなくて、毎回かれは照れくさそうに抗議する。
『・・・そんなに大きな声で云わないで呉れ』
『あら、如何して?あなたが名乗ったのでしょう。いい名だから、皆に知って貰いたいの!』
快活にくるくる回り乍ら云う少女に、かれは眼を見開いて閉口する。・・・よくもまぁ、恥かしい事をぬけぬけと。
併し、誰にも呼ばれた事の無いこの名は彼女が紡ぎ出すだけで、やけにきらきら輝いている様に感じる。彼女にのみ呼ばれるこの名前は、何か特別な響きを含んでいる様に想えた。
『其より、今日はあなたのおうちを案内してくれるのよね。早く見たいわ』
天照がかれの手を引っ張り矢鱈と急かす。かれは萌えつつある感情への対処も追い着かぬ侭、女童の調子に押して遣られる。
『一度だけだからね』
釘をさす様に応えてはみるものの、次にせがまれた時に断れる気はしなかった。己はそんなにこの女童に心開いていたものかと物心つかぬも戸惑ったが、イエを見て貰いたい気は無きにしも非ずだった。上手く作れたし“おうちの見せ合いっこ”という“ともだち”同士でする遊びに憧憬があったのは確かだ。
魔方陣の如く敷き詰めた石の歩道が、呪文を唱えると淡く燈り周囲は急激に暗闇に包まれた。太陽がいつもより速い速度で沈む。太陽を地球から追い出しているのが紛れも無いこの神子である事に、天照は先ず驚嘆する。
『之が・・・・・・地球を守護する神子の力・・・・・・・・・』
春日丸は彼女が何を云っているのかよく解らなかったが、別に悪い気はしなかった。寧ろ益益やる気が出る。驚かれて許いたからかは知らないが、元来この神子は驚かす事が好きなのだ。月の姿さえ無い虚無の空。其さえも、春日丸がツクに御退席願った。陰陽を操る霊妙な力は、その初めこの神子の元に存在したのだ。
朱く魂の如くヒガンバナがイエを囲む様に浮いている。幻想的な光の回廊の登場に、天照は興奮してはしゃいだ。
『すごーーい!!』
『―――之が僕のイエ。・・・いや、宮かな』
『ミヤ?イエではないの?』
『神のイエだよ。神が住まう処を宮と呼ぶ』
春日丸は浮かぶヒガンバナの内一輪を愛おしそうに頬に摩り寄せる。驚くべき事に、其は紙で出来ていた。
『之は只の花じゃない。式と云う。僕の宮に不浄なものが侵入するのを防いで呉れる大切な友だ。住いは式より上空に在る。この回廊を踏み締めて』
天照が手を添えられて回廊に立つと、ふわっと心臓の浮いた感覚が突如襲ってくる。まさに昇降機だった。
『きゃ!』
久久に体感する上下運動に、天照はつい片足を上げる。弾みで彼女の履いていた鞋が脱げ、見上げてくる式より更に下の回廊へぽとりと落ちていった。
『・・・・・・ふふっ』
春日丸が可笑しそうに哂う。天照はちらと上目遣いで春日丸を軽く睨んだが、かれが余りに愉しそうだったので一緒に笑った。
『・・・うふふ。あはっ』
『・・・・・・比賣君』
春日丸が涙を拭き乍ら、絹の様に白い天照の細足を掬い取る。そして自らの唇を彼女の其に近づけると、その爪先に接吻をした。
『――――・・・!?』
―――天照のおみ足を、立派な皮の鞋が覆う。
『ようこそ、我が春日宮へ。歓迎の証として、新しい鞋を進呈する』
数数の手品めいた出迎えに混乱を示していた天照の顔がときめきに変る。天照は春日丸の“贈物”を甚く気に入り、空中であるにも拘らず何度も飛び跳ねて皮鞋の踏みしめる感覚を喜んでいた。




