婚約解消〈アルフレート〉
※王子視点
***
「婚約を解消することになった」
アルフレートが真っ直ぐ見据えて伝えると、向かいに座っていたナディアの顔がみるみるうちに青ざめていった。
「待って……アル……さっき、赦してくれるって……。わたくし……わたくし、そういうつもりではなかったの」
(そういうつもりでなかったのなら、一体どういうつもりだったのだろう)
鮮やかな青いドレスは、染みひとつない白い肌を際立たせていた。
真珠の髪留めで纏めている髪は、艶やかな金髪。
長い睫に彩られた瞳は、碧玉。
首や手足は華奢だったが、胸元が開いたドレスからは豊かな谷間が見えた。
十人の男がいたとする。
それぞれの好みはあれど、みな、この女性の美しさは否定はしないだろう。ナディアはそういう種類の女性だった。
アルフレートは彼女の言葉を促すように、軽く首を傾げ、微笑んでみせた。
「わたくし……寂しかったの。あなた、王都から離れてばかりだし、帰ってきても、構ってくれないし。寂しくて……だから……」
――だからフロビア侯爵と関係を持ったのか?
そう訊ねかけたがやめた。
もう終わったことだ。
彼女を問い詰めたところで、何の意味もない。
「結婚しても僕が多忙なのは変わらない……父の後を継げば、王都から離れることは少なくなるだろう。けれど、今以上に忙しくなるのは間違いない。君に構えないのは一緒だよ」
「わたくし……耐えるわ。我慢する」
放置していたと責められてはいるが、アルフレートは週に一度は手紙を書き、月に一度は彼女の屋敷を訪ねていた。
国外にいて会えないときは、必ず侘びの品を贈った。
それがアルフレートが彼女のためにできる精一杯のことだった。それでも足りないと、寂しかったと。我慢をすると言う彼女と、この先、上手くやっていける気がしない。
そして今更……。
心が狭いのかもしれないが、一度間違いを起こした人間を、生涯の伴侶として信用することは難しかった。
「我慢をしてまで僕といる必要はない。それに、婚約を白紙にすることは、すでにヘンゲル公爵との話し合いで決まったことなんだ」
ヘンゲル公爵はナディアの父親である。
彼は娘の失態を、アルフレートに平謝りしていた。
当初、ナディアは王家と公爵家の面目を守るため、修道院に送られるはずだった。それを止めたのはアルフレートだ。
十七年間……いや生まれる前からだから、もっとだ……婚約者だった女性である。自分を裏切ったからといって、戒律の厳しい修道院で、彼女が一生を終えるのは哀れに思えた。
婚約解消の件も、ヘンゲル公爵がナディアに話すと言っていたのだが、アルフレートが止めた。
婚約者ときちんと向き合い、別れを口にしたかった。
そのほうが『しこり』を残さず、次の未来へ進める気がした。だが――。
「嫌です。わたくし……あなたのお嫁さんになることが、幼い頃からの夢でしたのよ。いまさら、あなたを他の令嬢に奪われるなんて……そんなの悲しすぎます。アル……お父さまを説得して下さい」
(……ヘンゲル公爵に任せたほうが良かったのかもしれない……)
涙を流し懇願するナディアを見ているうちに、アルフレートはだんだんと後悔してきた。
アルフレートは正直なところ、彼女がここまでゴネるとは思っていなかったのだ。
半年くらい前だったろうか。
友人でもある副官が、ナディアとフロビア侯爵の関係を調べたほうがよい、と助言してきた。
フロビア侯爵は父親の後を継いだばかりの二十七歳。資産もある色男だった。
遊び人という噂もあったが、実際に会うと、それほど悪い人間には見えなかった。
ナディアの件を問うと、あっさりと口を割り、彼女を愛していると言った。アルフレートの婚約者に手を出す。そのことの重みに気づいていない風でもなかった。
元々、アルフレートとナディアは政略のための婚約だった。根源に愛情があるわけではない。
ならば、こういうこともあるだろう。
アルフレートは想い合っている恋人達を裂くつもりはなかった。
彼女の不義と二人の関係を許せば、綺麗に別れられる。そう思っていたのだ。
「アル……お願いよ。あなたとずっと一緒にいたいの……」
大きな碧玉の双眸が瞬く。透明の雫が白い頬に伝い落ちた。
「愛してるの……」
彼女が腰を上げ、身を乗り出すようにして、膝の上に置いていたアルフレートの手に触れようとした。
アルフレートはナディアの手をやんわりと取り、彼女の元に返す。
期待の色を滲ませた瞳が、失望に変わる。
アルフレートは小さく溜め息を吐き、口を開いた。
「ナディア。婚約の継続は、僕だけの気持ちでどうにかできる問題ではないんだ。すでに君とフロビア侯爵の仲は、王宮では周知の事実になってしまっている。僕の婚約者、妻になるということは、いずれは王妃になるということだ。国母になる者は、何より貞淑であらねばならない。王の子ではないのかもしれない、と疑いを持たれるようなことがあってはならないからだ」
ナディアは眉を寄せ、首をふる。
「子どもなんて、できていないわ!」
「そういうことを言ってるんじゃない。少しでも疑いを持たれる女性は相応しくないと」
「彼にっ! 無理矢理、彼にっ、フロビア侯爵に襲われたの! 抵抗したわ。けれど……っ! わたくしが愛しているのはいつだって、あなただけよ! 信じて、アル」
ついさっき、『寂しくて』と言ったのは何だったのだろう。
アルフレートは呆れるが、表情には出さない。
「僕も……配偶者に求めるのは貞淑さだ。申し訳ないけれど、ナディア。君と結婚することはできない。僕との婚約が解消されたといって、君の未来にはさほどの支障はないだろう。侯爵も君との結婚を望んでいたし、僕も君たちを祝福する」
少しだけ口早に言って、立ち上がる。
「さようなら、ナディア。君の幸せを願っている」
そう告げて、部屋を出た。
背後から、呼び止める声と嗚咽が聞こえたが――アルフレートは聞こえないふりをした。
***
「相手の幸せを願うのはまあ、わかる。だけど、申し訳ない? なあ~んで、お前が謝ってるんだか」
幼い頃からの友人であり、アルフレート付きの騎士であり副官。
そして年齢は二つ年上だが母の弟、つまり叔父であるローレンツ・クリュガーが心底呆れています、といった口調で言った。
平気だと言ったのだが、念のためにとローレンツは隣室で控え、二人の会話を盗み聞きしていた。
「僕の方から婚約を解消するんだ。謝罪は礼儀だ」
「あっちが浮気をして、お前の顔を潰したわけだが」
「……彼女には彼女なりの理由があった。責めたところで事実は変わらないよ」
「事情、ねえ……修道院に送るのも止めちゃうし、お優しいこって」
皮肉げにローレンツが言う。
彼からすれば、自分はひどく甘い人間に見えるのであろう。
アルフレートが何も言い返せずにいると、ローレンツは肩を落とし、大きく溜め息を吐いた。
「……まあ、何にせよ、問題を起こしたのが結婚前でよかったよ。王太子妃になってからじゃあ王家の醜聞になっちまう」
「そうだね」
アルフレートは素っ気なく答えた。
ファラリズ王国は広大な土地と、豊かな地下資源を持つ大国である。
神話の時代、女神の子である英雄アバートが建国したとされ、その歴史もおそろしく長い。
百年くらい前までは近隣諸国との諍いもあったが、今は他国との関係も良好だ。
時折起こる自然災害に悩まされてはいたが、いたって平和であった。
国を治めるのは英雄アバートの血を脈々と受け継いだラスター王家。
アルフレート・マリーア・ラスターはファラリズ現国王の嫡子であり、ラスター王家の後継者である。
十七歳のアルフレートと、同じく十七歳のヘンゲル公爵家の長女ナディアは、生まれる前から婚約を結んでいた――もちろん、異性であったならば、ではあるが。
アルフレートがナディアに初めて会ったのは六歳の時。
母親から、あなたの妻になる方です、と紹介された。
アルフレートはその時から、彼女を婚約者として扱い、いずれ妻になる女性だと尊重してきた……つもりだ。
ナディアの父親であるヘンゲル公爵は優秀な人だし、母親も思慮深い人だと聞いている。
ナディアは幼い頃から己の立場を自覚し、アルフレートの妻、王太子妃、そしていずれは王妃になるのだと、そうなるべく、育てられてきたのだと思っていた。
アルフレートが一国の王になるべく、生きてきたように……。
アルフレートは、世の男性を魅了するかのごとく美しい淑女になったナディアを思い浮かべる。
豪奢なドレス、洗練された立ち振舞いを思い出し、おそらく彼女……もしくはヘンゲル家は、外見を磨くことを第一にしたのではないかと疑った。
もちろん王妃が華やかならば、それに越したことはない。
しかし王妃の条件として、一番に求められることでは決してなかった。
王妃に必要なのは、跡継ぎを産む健康な体。
そして謙虚であり、賢明であれば素晴らしい。外見の美しさなどそれらに比べれば、重要ではない。
不義を犯したのはナディアだ。しかし婚約の解消は彼女だけの責任でもない。
彼女の質を見極められなかった、アルフレートの責任でもあった。
アルフレートは美しい婚約者を好ましく思っていたし、それなりに情も抱いていた。彼女となら両親のように、良い夫婦関係を続けられるだろうとも期待していた。
十七年間、ナディアとの関係は良好だと思っていたのだ……。
(……長年の婚約を解消したからといって、感傷に浸ってる暇はない)
王宮ではすでに、新しい婚約者候補の名がいくつかあがっていた。
アルフレートには弟が二人いたが、まだ成人していないし、王太子という立場にありながら結婚はしません、子どもも作りません、など許されない。
ナディアに裏切られ、彼女を信じきっていた自分の愚かさを恥じてもいた。
そして、新しい婚約者を決めるとしても、王太子妃に相応しいのか。王妃の器があるのか。見極められる自信を完全に失っていた。
かといって臣下の勧める令嬢を、何も考えず受け入れることもできない。
アルフレートは婚約者選びのことを思うと、気が重くなった。