ポイ捨て令嬢になるまで2
リーゼはディータの件を、妹に話すよりも前に、父に相談することにした。
バッヘム家の当主が、王の側近を務めていたのは遠い過去の話だ。
現当主である父は、王都ロゼの国立図書館に勤めている、しがない学者であった。
夕方になり父が帰宅した。
食事を終えたあと、リーゼは父の書斎へ行き、今日の出来事を話した。
父はリーゼを心配し、声を荒げ、怒っていた。しかし、話しているうちに、だんだんと弱腰になっていく。
メルクル家との縁談が消えてなくなるのが惜しかったのだろう。
それはリーゼも同じであった。
リーゼにだって、ちっぽけだけれど矜持はある。ディータのことは腹立たしい。
けれど――やはり、彼以上に好条件な相手との縁談など、そうありはしないのも事実だった。
「……実は……メルクル家に、お金を貸してもらっていてね……」
おどおどと視線を揺らしながら告げた父に、リーゼは目を丸くした。
「お金を貸して、もらっているの!」
「たくさんではないよ。ほんの少しだ。給料……三か月……四か月分くらいだ」
父は借りたお金で、希少な古文書を買ったらしい。
「……お父様……」
「すぐに返すつもりだったし……まさか、こんなことになるなんて、思わないだろう……?」
父の散財先は書物である。
歴史的に貴重な物なので、学者として収集したくなる気持ちはわからなくもない。
しかしお金を借りてまで、というのはいただけない。
「向こうも是非にって言うから……つい」
メルクル家は王都でいくつかの事業を展開していたが、主な事業は『金貸し』だ。
ディータの祖父と夜会で顔を合わせたとき、父は欲しい高価な書物があることを軽い気持ちで口にした。
酒の席での口車に乗せられて――というと、ディータの祖父が悪者のようだが、近いうち縁戚になるということで、金利をかなり下げてもらっていた。貸してくれたのは、騙すというより厚意からであろう。
気楽に話に乗った父が悪い。
「……ラウラに、婚約する気があるのか確かめないと」
「いいのかい……?」
「よくはないけれど……仕方がないもの」
ディータに対し思うことはある。しかしお金を借りている負い目もある。
それに何より――もしかしたらであるが、ラウラとすでに想いが通じ合っている可能性もあった。
リーゼは、ディータを招いたとき、無邪気に挨拶する妹の姿を思い返した。
見かけがよく、人当たりのよいディータに、幼い妹が淡い恋心を抱いていてもおかしくはない。
ディータを責め続ければ、『姉の婚約者を略奪した令嬢』と、ラウラに噂が立つ可能性もあった。
デビュタント前の妹に、悪い噂が広がるのだけは避けたい。
リーゼが複雑な気持ちに蓋をし、身を引きさえすれば、丸くおさまるのだ。
「仕方がないもの」
リーゼが心を決め、もう一度、同じ言葉を繰り返すと、父は涙目になった。
「私が、きっと! あの男以上の、男の中の男を、君に紹介する!」
「別にいらないわ。それより、お父様。今度大きなお買い物をされるときは、絶対、私に相談してください。そして借金はダメです! 今度、私に黙ってお金を借りたりしたら、親子の縁を切りますから」
リーゼが睨みつけると、父は肩を落とし、わかりました、と頭を下げた。
***
父の帰りを待ち、話し合っていると夜遅くなってしまった。
翌日の朝。
リーゼはディータのことを話すため、妹の部屋を訪れた。
「お姉様! おはようございます」
リーゼがドアを開けると、ラウラが朗らかに、朝の挨拶をした。
十三歳になったばかりの妹は、寝間着から普段着に着替え、鏡の前で髪を梳かしていた。
鏡台前の椅子から立ち上がると、金色の長い髪がさらりと揺れる。
ラウラはゆっくりと振り返り、サクランボのようなぷっくりした唇で微笑んだ。
エメラルドの双眸が、窓から差し込む朝陽を浴び、きらめいていた。
妹は母親似。リーゼは父親似。
残酷な神による姉妹格差を嘆きたくなるときもあった。しかし、たまにである。
他人が哀れむほどには、リーゼはこの現実を重く受け止めてもいないし、嘆いてもいない。
自身の珍しいけれど、一度も褒められたことのない赤毛も、ありふれた茶色い瞳も。すげ替えたいほど嫌ってはいなかった。顔立ちだって、妹と並べば落ちるものの、そこまで酷くはないはずだ。たぶん。
とにかく、ラウラは美人だった母の面影を強く受け継いでいて、顔のつくりが華奢、というか、妖精が実在していたらこんな風だったのだろう、というくらい愛らしかった。
(ディータが妹に心変わりするのも……わからなくはないのよね)
今はまだ、妹のことは社交界で話題にはなっていない。
しかし社交界デビューすれば、きっと多くの紳士達がメロメロになるに違いない、とリーゼは確信していた。
「わあ、綺麗! お花、どうしたの?」
リーゼは薔薇の花を活けた花瓶を手にしていた。昨日、ディータから妹に、と預かっていたものだ。
花瓶を出窓の前に置き、もうひとつのもの――手紙をラウラに渡した。
「お手紙?」
「ディータから。あなたに手紙を預かったの」
「……お姉様の婚約者がわたしに? どうして?」
ラウラが首を愛らしく傾けている。
その表情には後ろめたさは微塵もなく、疑問しか浮かんでいない。
想いが通じ合っているかも、と疑っていたが、完全にディータの片思いのようだった。
(けれど……それはそれで……大丈夫かしら……)
少し、不安になってくる。
「あのね、ラウラ。私、ディータと婚約を取りやめようと思うの。だから、その代わりにあなたが彼の婚約者になってくれないかな、と思って」
「……どうして、取りやめるの?」
「気が合わないというか、いろいろ、あるの」
ラウラはエメラルドの双眸で、じっとリーゼを見つめた。
そして手に持っていた手紙に視線を落とし、険しい顔をして封を切った。
手紙に書かれた字をエメラルドの瞳が追う。
次第に眉が寄っていき、わなわなと、手紙を持つ手が震えはじめた。
そして、読み終わった妹は、ぐしゃりと手紙を握り潰した。
「……ラ、ラウラ?」
「わたしは、いや。お姉様、わたしは、この男とだけは、結婚したくありません」
姉の婚約者を横取りするような気持ちになっているのだろうか。
ラウラは無邪気だけれど、幼い頃から物分かりのよい子でもあった。
リーゼのお古を渡しても、嫌がることは一度もなかった。むしろ『お姉様のお古!』と喜んで袖を通していた。
だから、ディータを『お古』という意味で、拒否しているわけではないだろう。
ラウラは確かに美少女だ。彼女を妻にと望む者もいるに違いない。
けれどメルクル家より裕福な貴族はそういないし、格上の貴族の子息は、すでに婚約者がいる者ばかりだ。
それに裕福なだけでなく、ディータは見栄えもよくて、年の頃もちょうどよかった。
「あのね、ラウラ」
複雑なのはリーゼも同じだったが、説得するため彼女の肩に手を置いた。
ラウラは首を振る。
「うちが貧乏なのは知ってるわ。お金持ちに嫁がないとダメなのも知ってる。けど、この男だけはいや。年齢がお父様より上でも、お腹が出てても、ハゲでもいいです。でも、でも、でも……この男だけはいや……」
ラウラは声を震わせ言った。
確かにうちは貧乏だが、どうしてもお金持ちに嫁がないと駄目なわけではない。
ディータが結婚相手として最適だと思っているだけだ。
説得、いや説明をしようとしたリーゼは、妹のエメラルドの双眸からボロボロと大粒の涙がこぼれ始め、ぎょっとした。
「お姉様をこんなに、これほどまでに……悪く言う……この男だけは、いやっ……」
(そ、そんなに……っ?)
妹が泣いてしまうほど、ディータは自分の悪口を手紙に書いていたのか。
てっきり、妹への恋心を綴っているのだと。書いていたとしても、言い訳としてリーゼの欠点をちょろりと書いているくらいだと思っていた。
(何が書いてあるのだろう……)
気になったリーゼは、ラウラが握りしめている手紙に手を伸ばす。
「……ひっ!」
ラウラがおかしな声をあげ、目を見開く。そして――。
「ちょっ……ラウラっ!」
ラウラはいきなり、ディータからの手紙を丸めて、自身の口の中に入れた。
「何やってるのっ……出しなさいったら!」
「うううう」
リーゼはラウラの口に指をこじいれて、吐き出させた。
口の中からぽろりと落ちると、すさまじい素早さででラウラは、それを握った。そして、唾液混じりの丸くなった手紙を、両方の手のひらの中で、まるで宝物のように包み込んだ。
「こんなもの……読まなくていい! こんなの……こんな……ひどい……」
ラウラが泣きじゃくりながら、言う。
(そ、そんなに……っ?)
姉に読ませないため、口に入れて呑み込みたいと思うくらい、酷い悪口が書いてあったのか。
はあ、とリーゼは溜め息を吐いた。
「わかったわ。読まないし……婚約の件も、断りましょう」
「お姉様。お姉様っ」
ラウラがリーゼにしがみついてくる。
妹の華奢な背中を、優しく撫でた。
頭髪が薄く、太った中年男より、姉の悪口を手紙に書く男の方が嫌だという。可愛い妹の気持ちを尊重したい。
流されやすいし、頼りないけれど、娘達への愛だけはちゃんとあるから、父もわかってくれるに違いない。
借金の利息のことや、ディータにどう説明すればよいかを考えると気が重かったが、リーゼはたった一人の大事な妹に無理強いさせるつもりはなかった。
ラウラが見たくないというので、薔薇の花は自分の部屋に飾る。
真っ赤な薔薇の花は美しく、書棚ばかりの自室が、一瞬で華やかになる。
ディータが喜ばせたかったのは妹なのに、と思うと少しだけ胸が痛んだ。
けれど……それでも薔薇は美しかった。