気づく間違い
夜会当日。
父が欠席すると知ったアルフレートは、挨拶をするために、予定より早くバッヘム家を訪れた。
アルフレートを前にして、父は由緒ある伯爵家の当主とは到底思えないほど動揺していた。
顔は青ざめているのに、汗をだらだらと滴らしていて、風邪は仮病だったのだが、アルフレートは父のことをとても心配していた。
体調が悪いのに申し訳なかったです、と謝罪され、こちらのほうが恐縮してしまった。
「リーゼさん……いえ、リーゼと呼んでもよいですか?」
「ええ。もちろんです」
「僕のことも呼び捨ててもらって大丈夫ですよ」
「いえ……それは流石に無理です」
父と面会したあと、夜会会場へ向かう馬車の中で、リーゼはアルフレートと今夜の段取りを話し合っていた。
ちなみにラウラは、ダミアンとともにハイトマン子爵家の馬車で、先に会場へと向かっている。
屋敷で顔を合わせたのだが、二人に対しても、アルフレートは丁寧に挨拶をしていた。
探るような視線を向けてはいたが、ラウラも淑女らしく礼を取っていた。
(ラウラを見て、本当の婚約関係を結びたいと言われたら……いろいろもっと、今以上に大変なことになるかも……心配もしていたのだけれど……)
アルフレートはラウラの姿を見ても、特に動揺したり浮かれたりする様子はなく、にこやかに応対していた。
彼の笑みが消えたのは――バッヘム家に到着し、迎えに現れたリーゼを見たときだ。
朗らかな笑顔がすっと消え、眉が一瞬だけ険しく寄った。
理由はアルフレートの贈ったドレスを、リーゼが着ていなかったかららしい。
「ドレスは届きませんでしたか?」と低い声で訊ねられた。
リーゼが「偽装なのに高価なドレスをいただくわけには……袖を通していないので、後日お返しします」と言うと、「わかりました」と頷いてくれた。
しかし納得はしていないのか、表情は曇ったままだった。
殿方の、それも婚約者からの贈り物を拒むのは淑女して、マナー違反だ。
けれど、アルフレートとの婚約はあくまで『偽装』である。
アルフレートも本当は、出会ったばかりのリーゼに、ドレスなど本当は贈りたくなかったはずだ。偽装のため仕方なく用意したに違いない。
そう思い、受け取らずにいようと思ったのだけれど。
(……不愉快に感じたのだろう……)
ディータと婚約をしていた頃。
自分には明らかに似合いそうにない……というか、赤い髪が悪目立ちしそうな、派手な緑色の帽子を貰ったことがあった。
感謝は言ったものの、被る勇気がなくて使わずにいると、「帽子はどうした!」といって、すごく怒らせてしまった。
ディータは本当の婚約者だったし、状況は違う。
しかしせっかく、偽装の婚約者に気を遣って贈ってやったのに、と。
厚意を無下にした失礼な女だと。そう思われてしまったのかもしれない。
アルフレートに謝罪しなければと思い悩んでいたが、父に面会した時には、彼の表情に曇りはなくなっていた。
馬車の中でも、朗らかに笑みを浮かべ、リーゼに話しかけてくる。
「父と母は気さくな性格なので……もしかしたら馴れ馴れしいと感じるかもしれませんが、適当に話を合わせてください。叔父のクリュガー公爵は、僕の副官でもあるので、あなたと接触する機会も多くなると思います。基本、失礼な物言いの人なんで、あまり気にしないで軽く受け流してくださいね」
「……もしかして、先日の夜会のとき……木から落ちたときに、いた人ですか?」
アルフレートを心配し、リーゼのことを『痴女』呼ばわりしていた男性のことを思い出す。
「ええ。言動から頭が悪そうに見えるかもしれませんが、察しがよいので。偽装婚約だとバレないように気をつけてください」
「はい」
「それから……」
と、アルフレートは言葉を切り、言ってよいものか迷うように視線を揺らしたあと、口を開いた。
「……ドレスのことなのですけど」
穏やかな態度に戻っていたので、不愉快に感じたのは一瞬だけだったのだろうかと安堵していたが、やはりまだ内心では腹を立てていたらしい。
「申し訳ありません。せっかく贈っていただいたのに」
「いえ……僕も、きちんと言っておくべきでした。……それに、遅れてしまっても、着替えて貰ったほうがよいか、迷ってしまって……。そのドレスも、とても品のよいものに見えますし、あなたに似合っているし……綺麗な色ですね」
「ええ。貸衣装屋で見て、一目惚れしてしまいました」
「……貸衣装なのですか?」
「あ……はい」
伯爵家の令嬢なのに『貸衣装』だと、呆れられたかもしれない。
バッヘム家が落ちぶれていて、貧乏伯爵家なのは有名な話だ。アルフレートも知っているだろうが、少し恥ずかしい。
「貸衣装でも、特別に仕立てたものなのでしょうか」
「いえ、安かったので、そういう特別なものではないと思います」
見栄を張ればよいのだけれど、正直にリーゼは答えてしまう。
「……ドレスを見て、貸衣装か、わかったりしますか?」
アルフレートは僅かに眉を顰め、訊ねてくる。
「貸衣装なのは……わかったりはしないと思いますが……。いえ、店頭に飾られていたのを、見た方がいるなら……わかるかもしれません」
「そうか……やはり、着替えて貰ったほうがよかったかもしれません」
「殿下……あの」
話の流れで、何となく嫌な予感……いや、リーゼは今更ながら、自身の浅はかさに気づいた。
かなうことなら、今からでも戻って着替えたい。
後悔するが、もう遅い。
馬車がゆっくりと速度を落とし、止まった。
「リーゼ。僕はドレスにそこまで詳しくありません。けれど、そのドレスは色合いも綺麗ですし、あなたの雰囲気にとても合っている。素敵なドレスだと思います。だから、その……堂々と……していてください」
「ですが……」
馬車の扉が開く。
すでに多くの者たちが集まっているのだろう。賑やかな声が聞こえてくる。
「……すみません、殿下」
自分が愚かだったせいで、彼にも迷惑がかかるのだ。
リーゼは青ざめ、声を震わせ謝罪した。
「まだ謝るのは早いです。夜会が終わった時、失敗していたなら……一緒に反省会をしましょう」
アルフレートは軽い口調でそう言って、リーゼに手を差し出した。