優しい人
◆
「は? 何だと?」
リーゼ・バッヘムと婚約することにした。
アルフレートがそう告げると、ローレンツは眉を顰めた。
「リーゼ・バッヘム嬢。彼女と婚約する。宰相にはもう伝えたから」
「さっき、お前を襲っていた痴女だな……弱みでも握られ、脅されているのか?」
「襲われてもいないし、弱みも握られていない。脅されてもいないよ。バッヘム家に政治的な力はないけれど、後ろ盾が欲しいわけでもないし。波風を立てないためには、ちょうどよい家柄だと思う」
バッヘム伯爵家は、建国時から続く由緒正しい家だ。
父や宰相が用意した婚約者候補に比べれば、見劣りするものの、家柄の格的には何ら問題はない。
ナディアとの婚約を解消したことにより、彼女の父親であるヘンゲル公爵の発言権が弱くなった。同時に、彼に取って変わろうと、野心を抱く貴族たちが多くいた。
しかしアルフレートは、ナディアの件とは別にヘンゲル公爵の仕事ぶりを評価していた。
これからも変わらず取り立てていくつもりであったが、新たな婚約者となった令嬢の背後にいる者たちは、多かれ少なかれ、そのことに反発するだろう。
そう考えると、何の力も持たず、派閥にも属していないバッヘム家は、アルフレートにとって都合がよい。
だからこそ、彼女の素性を知り、アルフレートは偽装婚約を持ちかけたのだが――ローレンツは不満なのか、眉を顰めたままだった。
「家柄について文句を言っているわけではない。バッヘム伯爵も、少々頼りないところもあるが……勤勉な学者だと耳にしたことがある」
ローレンツは渋い顔のまま、続けた。
「しかし娘は別だ。バッヘム家の長女はポイ捨て令嬢と呼ばれている」
「彼女が次々と男を捨てているなら問題だけれど、捨てられた側だ。社交界で、おもしろおかしく呼び名をつけられることなんて、珍しくはないよ」
「ポイ捨て令嬢だぞ! ポイ捨て! ふざけたふたつ名の女は、王太子妃に相応しくない」
「……ローレンツ。君、自分が社交界でなんて呼ばれているのか知ってて言ってるの?」
「六股公爵だが。あれは別に悪い意味で言われているわけではない。俺が同時に付き合ったことがある最大人数は三人までだ。とある女性が六股……六人目の恋人でいいから俺と付き合ってみたいと言った。それの言葉が広まり、呼ばれているだけだ」
「僕からしてみれば、ポイ捨て令嬢より、六股公爵のほうが、印象が悪いけれど」
「三股男爵や二股子爵もいるんだぞ。その中で、俺は六股だ!」
ローレンツが胸を張り、言う。
どうやら『六股公爵』という二つ名に、誇りを感じているらしい。
ローレンツの感性がアルフレートには理解できない。
「バッヘム家の令嬢なら、次女のほうにすればいい。デビュタントの中に、ひとり際立った美少女がいたと言ったろ? どうやらバッヘム家の娘らしい。金髪碧眼の可憐な美少女だそうだ」
「へえ」
容貌は知らなかったが、リーゼから彼女の妹については少し聞いていた。
自分に求婚してきたと思ったのだが、実は間違っていた。妹のほうが本命だった。
勘違いとはいえ、失礼な話だ。
しかし事情を話すリーゼの口調は淡々としていて、妹への悪意が全く感じられなかった。
それどころか――。
『妹は……心優しい子なので、私が聞いていたと知ったら、私以上に傷つき、気にしてしまいそうで』
困った風に言う彼女からは、妹への愛情が感じられた。
彼女の妹に会ったことはないので、どれだけ心優しい女性なのかは知らない。
しかしアルフレートの目には、妹を思いやるリーゼもまた心優しい女性に映った。
「バッヘム家がちょうどよい家柄だとは言ったけれど、バッヘム家の令嬢なら誰でもよいわけではないよ。彼女とならば、上手くやっていけそうな気がしたんだ」
「……まあ、美人過ぎたらナディアの二の舞になっちまう可能性もあるからな」
リーゼは目を引くほどの美人ではなかったが、顔立ちは品よく整っていて、茶色い眼差しは穏やかだった。
話し方や、所作は朗らかで、アルフレートは出会ったばかりの彼女に好感を抱いた。
ナディアとは印象が全く違う。けれどリーゼにはリーゼの魅力がある。
ローレンツの言いように反発しかけたが――アルフレートは「そうだね」とだけ相づちを返した。
この婚約はあくまで偽装婚約だ。
ローレンツには偽装であることを話しておいたほうがよい気もしたが、ナディアの件を引きずっていると思われるのも困る。
心の中にある迷いをあかしてもよいが――彼からしてみれば、ささいなことだ。笑い飛ばされそうな気もした。
偽装であることを黙っているならば、気づかれないためにも、余計なことは言わないほうがよいだろう。
「お前が決めたなら、反対はしない」
ローレンツは渋々といった感じで頷いた。
***
「え? アルフレート殿下と? 婚約?」
帰りの馬車の中で、アルフレートと婚約することになったと告げると、リーゼの隣に座るラウラがエメラルドの瞳をまん丸にさせた。
「ええ……少し体調が悪くて。庭で休んでいた時に、助けて貰って。それで……意気投合して、婚約者になって欲しいと。……だから、そういうわけで、申し訳ないのだけれど……ダミアン。あなたとの婚約の話、お断りすることになります」
向かい側に座るダミアンに、リーゼは頭を下げる。
「そうなんですか! それは仕方がないですね!」
妙に弾んだ、浮かれた声でダミアンが言う。
悪い人ではないのだろうが……正直過ぎていろいろ心配になる。
「体調が悪いって……お姉様、大丈夫なの?」
ラウラはアルフレートと婚約したことや、ダミアンとの婚約を断ったことよりも、まず姉の体調が気になったようで、心配げに顔を覗き込んできた。
「大丈夫よ。久しぶりの夜会で、人に酔っただけだから」
「あの男に会ったと聞いたわ。何か不快なことでも言われたの?」
一瞬、あの男が誰なのかわからなかった。
リーゼのことや、アルフレートとの出会いがあり、すっかり忘れていたがディータとも会っていたことを思い出す。
「違うわ。ディータとは会ったけれど、たいした話はしていないわ。本当に、人に酔っただけで、今はなんともないから」
諦めないとは言っていたが――アルフレートのおかげで、こちらの件も解決しそうだ。
王太子の婚約者になるのだ。
婚約が解消されるまでは、ディータや彼の家にどのような思惑があろうとも、何もできやしない。
「それならいいけれど……。 本当に、王太子殿下と? 婚約をしたの?」
「明日、王家から使いが来るらしいわ。それで正式に婚約をしたことになるみたい。公表はそのあとね」
「お姉様が殿下と一緒にいたというのは、みなが噂していたから知っているわ。でも本当に? 婚約をするの?」
よほど信じられないのだろう。
ラウラが何度も問いかけてくる。
「私が王太子殿下に見初められ、婚約者になるのは、信じられない?」
「私の自慢のお姉様よ! 王様だろうが王子様だろうが、獣だろうが、神だろうが魔物だろうが! お姉様のことをよく知ったら、みんなお姉様に夢中になるに決まっているわ!」
冗談っぽく訊ねたのだが、真顔で熱弁される。
大げさすぎて、恥ずかしくなった。
「……王太子殿下がどのような方か知らないから、喜んでいいのかわからないだけ」
熱弁したあと、溜め息を吐き、ラウラが呟くように言った。
出会ったばかりだ。
おそろしく美形な王子様。
アルフレートのことで、はっきりとわかっているのは、それくらいだ。
いきなり偽装婚約を持ちかけてくるような人だし、婚約者が心変わりしたのも、もしかしたら彼のほうに理由があるのかもしれない。
ディータのことも悪い人ではないとずっと思っていたから、自分に人を見る目などないのかもしれないけれど――。
「アルフレート殿下は、優しい方よ」
信頼できると思ったから、リーゼは偽装婚約の話を受けたのだ。
「……なら、いいのだけれど」
ラウラの疑いの眼差しが強くなる。
もし偽装婚約だということがバレたら、ラウラとの仲が拗れそうである。
最後まで隠し通し、解消するときも円満に解消しよう、とリーゼは心の中で誓った。