偽装婚約
美形と耳にしていたが、自国の王太子を悪く言う人はいない。
彼への評価は誇張されたものだと思い込んでいたリーゼは、王太子が本当に美形だったので驚いてしまった。
「失礼なことをされたとは思っていませんよ。それより、あなたこそ。本当に大丈夫ですか?」
優しく訊ねられる。
とにかく麗しくて、きらきらしている。
微笑んだ姿はまた格別だ。リーゼは平伏したくなった。
王太子という立場だけでなく、このような国宝級の美形を踏みつけ、あまつさえ怪我をさせていた可能性もあった。当たり所が悪ければ命の危険もあったであろう。
投獄され処刑されてもおかしくない。己の許されざる行為に気づき、ゾッとした。
「私は無傷です。……殿下こそ、本当にお怪我はないのでしょうか?」
「していません。大丈夫ですよ」
「本当ですか? 本当に……私、なんということを……申し訳ございません……」
「ずっと謝ってますね。僕もあなたも怪我がなかったのだから、謝るのはやめにしましょう」
寛大な王子様である。
海色の瞳と同じく、心もまた海のように広い。
「嘘にまで付き合わせてしまい、すみ……ありがとうございました」
謝罪しかけたリーゼは、言い直して礼を口にする。
するとアルフレートはちらりと入り口の方を見、おもむろに立ち上がった。そして、開け放たれていたままになっていたドアを閉める。
若い男女が密室で大丈夫だろうかと不安になるが、ディータとは違い王太子だ。
意見できる相手ではなかったし、むしろリーゼよりアルフレートのほうが醜聞になりそうだ。
「どうして嘘を……いや、どうして落ちてきたんですか? 身投げ……というわけではなさそうですし」
密室になって平気なのか訊ねようとすると、再びリーゼの傍に膝を付いたアルフレートが、リーゼの顔を覗み込み質問をしてくる。
リーゼの事情を第三者に聞かれないために、ドアを閉めてくれたのだろう。
自国の王太子の優しさにリーゼは感心するが、個人的な事情を話してもよいものか迷う。
そして顔が近いことにも緊張をする。
「言いたくないのなら訊きませんが」
迷っていると、アルフレートが苦笑を浮かべた。
リーゼは決して美形好きというわけではない。
嫌いなわけではないけれど、男性にしろ女性にしろ、顔のつくりより心根のほうが大事だと思う。
それに冴えなくても好感のもてる顔だってあるし、いくら整っていても不愉快に感じる顔もある。
アルフレートは……好感のもてる美形だった。
爽やかそうで凜としていて、優しそうで王子様のようだ。
(いえ……本物の王子様なのだけれど……)
けれども、性格のよさそうな美形であっても、実は軽薄な遊び人ということもある。
長年の婚約者と婚約解消をしたのだって、王家が都合のよい話を広めているだけで、実は王太子のほうに重大な原因があったのかもしれない。
リーゼも何ら悪いことをしていないのに『ポイ捨て令嬢』と呼ばれていた。
人の噂、社交界の噂など信用がならない。
しばらく思案はしたが、リーゼは木から落ちる経緯をアルフレートに話すことにした。
決して苦笑する姿が素敵で目が眩んだから、ではない。
彼の上に落ちてしまった罪悪感と、嘘に合わせてくれた感謝。そして、リーゼに起こったことを知ったからといって、アルフレートが得をしそうなことに思い当たらなかったからである。
笑いの種として言いふらすことはありそうだけれど、そういう性格の人ならば、回りくどいことなどせず、木から落ちたあと、みなが集まった時に話題を提供していただろう。
妹と間違えられて、求婚されていたこと。
婚約するつもりだったのだが、その事実を盗み聞きしてしまったこと。
見つかりそうになり、ついバルコニー近くにあった木に逃げてしまったこと。
戻ろうとしたのだけど足を踏み外したことをアルフレートに話す。
二年前に婚約を破棄されたことや、ラウラとの込み入った事情は話さなかった。
「枝や葉が緩衝材になったのかもしれませんね。お互いに怪我がなくてよかったです」
リーゼが話し終えると、つまらないことだと呆れるでもなく、かといって同情することもなく、アルフレートはさらりと言った。
「本当にすみま……いえ、ありがとうございました。それから、話を合わせてくださり助かりました。妹は……心優しい子なので、私が聞いていたと知ったら、私以上に傷つき、気にしてしまいそうで」
「リーゼさんはこれからどうするのですか? お二人のために身を引かれるのですか?」
なぜ名前を知っているのだろうと疑問に思ったが、そういえば自分から名乗っていた。
「二人のために身を引くというか……婚約は、しないです」
頬に熱があつまり、視線がおどおどと揺れてしまう。
美形に至近距離で名前を呼ばれるとドキドキしてしまうのは、リーゼだけではないはずだ。だから多少挙動不審でも怪しまれないと思うのだが。
なぜか、アルフレートは海色の瞳でリーゼを見つめてくる。
「あ、あの……殿下? なにかっ?」
声を上ずらせ訊ねると、アルフレートは唇を緩めた。
「いえ、少し考え事を……リーゼさん」
「は、はい」
「妹さんと恋仲にある方と婚約をしないのなら、僕と婚約……いえ、偽装婚約してくれませんか?」
「……は?」
言っている意味がわからず見返すと、アルフレートは彼の事情を話し始めた。