出会い
地面に叩きつけられはしなかった。
リーゼの体の下には、温かな感触がある。
(今……うわあぁって……)
男性の叫び声だった。
リーゼは木から落ちてしまい、木の下には人がいた。
そして、その人の上に落ちてしまったのだ。
状況を理解したリーゼは慌てて体を起こし、下敷きにしている人に声をかける。
「大丈夫ですかっ? ごめんなさい。生きています? 本当に、申し訳ありません、あの……生きてますよねっ」
「っ……生きています」
「怪我、怪我とかしていません?」
「……た、たぶん」
「ごめんなさい、本当に、すみません」
二階からだ。落ちていても死にはしなかっただろうが、地面に落ちていたら無傷ではすまなかった。
下敷きになってくれた男性のおかげである。
けれどリーゼのほうは怪我も痛みもなかったが、彼は災難でしかない。
リーゼは平謝りした。
「本当に大丈夫だから」
何度も謝罪を口にしていると、穏やかな声が返ってくる。声音からして若い男性だろう。
月明かりがぼんやりと人影を浮かび上がらせているが、顔まではわからない。
聞き覚えのない声なので、知り合いではないと思うけれど……。
再び謝罪を口にしようとすると、先ほどの悲鳴を聞きつけたのか、騎士たちが駆けつけてきた。
「どうかされましたか」
「ああ、っ……」
リーゼは慌てて、人影の口を手で塞いだ。
木から落ちてきた。
夜会の最中、木登りする『奇行の令嬢』として悪評がたつのはまあいい。
木から落ちたことがラウラに伝われば、なぜ姉がそんな真似を……とあやしみ、落ちたら場所から、盗み聞きしていたことに気づいてしまう。
「わたくし、リーゼ・バッヘムと申します。久しぶりに夜会に参加したのもあって、人に酔い具合が悪くなり倒れてしまい! 偶然通りがかったとても親切な殿方に、手を貸してもらっていたところなのです!」
リーゼは早口で嘘の説明をする。
「……そのような体勢で?」
「しかし、今の悲鳴は……」
無理のある説明に、疑問の声があがった。
「手を貸してもらい、起こしていただいたのですが、わたくし、思いっきり転んでしまいましたの! それで思わず悲鳴を……お騒がせしてしまい、申し訳ありません」
リーゼは言い募った。
「アルフレート……痴女に襲われていたのか?」
ポイ捨て令嬢という蔑称を知っているのだろうか。
背の高い人影が失礼なことを言う。
男を夜な夜な襲う令嬢という、ひどい醜聞が広がってしまいそうだ。
(けれど……ひどい醜聞を理由に、私の独り身が確定しそう。そうしたら、ラウラに跡継ぎをという話にならないかしら……)
ラウラとダミアンの縁組みは、あっさり決まるかもしれない。
などと悲しいことを思っていたリーゼは、ふとアルフレートという名に聞き覚えがあることに気づいた。
(アルフレートって……)
アルフレートと呼ばれている男性は、リーゼの手首をやんわりと掴んだ。
そして塞ぐように当てていたリーゼの手を退かし、喋り始めた。
「違うよ。……彼女の言ったとおり。具合を悪くしたのか蹲っているのを偶然見つけて。助けようと手を貸したのだけれど、躓いてしまい、盛大に転んでしまった。……こちらこそ申し訳ない。大丈夫ですか?」
彼は全く悪くないのに。
リーゼの嘘に合わせてくれただけでなく、優しい口調で問われて、リーゼは心の底から申し訳ない気持ちになった。
「本当にすみません」
深く頭を下げようとしたリーゼは、次に続いた騎士の言葉に固まった。
「ご令嬢は私が休憩室に付き添いましょう。殿下にお怪我はないのですね」
(……殿下……殿下? アルフレート……)
思い当たるのと同時に、男性の体を下敷きにしたままだったことにも気づく。
リーゼは顔をひきつらせ彼の体の上から降りようとしたのだが――ふわりと体が浮いた。
「いいよ。僕が運ぶ」
「ですが、殿下」
「おい、アルフレート」
「お、降ろしてください」
制止の声がそれぞれからかかるが、アルフレートは抱き上げたリーゼを降ろそうとはせず、そのまま歩き始めた。
いわゆるお姫様抱っこの状態である。
こんな真似、今までされたことがない。……幼女の頃、父にされたかもしれないが覚えていない。
「歩けますから、降ろしてください」
王太子殿下にお姫様抱っこなど、恐れ多すぎである。
怪我をしているのならまだしも、リーゼは無傷なのだ。
「暴れると落としてしまいますから、動かないでください」
穏やかな口調であったが、有無を言わせない響きがある。
王族特有の技能なのだろうか。
それに、なぜかよい匂いがする。
仕立てのよさそうな夜会服に顔を埋め、無性に匂いを嗅ぎたくなった。
リーゼは細身であるが、身長はそこそこある。抱き上げて歩くのは容易ではないはずだ。
けれど王太子はリーゼをお姫様抱っこしたまま、スタスタと軽やかな歩調で大広間のある建物へと向かっていく。
広間から出てきた淑女や紳士たちが、リーゼたちを見て、目を丸くしていた。
ディータに絡まれていた時は興味津々といった感じでチラチラと見られていたが、今は信じられないものでも見るように凝視されている。
リーゼは身を縮まらせ俯く。
衆目を浴びてしまった羞恥よりも、ただただ申し訳なかった。
一階にある休憩室に入る。
ディータといた部屋よりも広かったが、作りは同じだ。ソファとローテーブルが置いてあるだけの簡素な部屋である。
リーゼはソファの上に降ろされた。
「その……すみませんでした……王太子殿下とも知らずご無礼をしてしまい……」
リーゼは頭を深く下げてから、顔をあげた。
ソファの傍に膝をつき、黒髪の青年がリーゼを見つめていた。
月の光の下でははっきりとは見えなかった容貌が、部屋に備えつけられた洋灯の光で露わになっていた。
清潔に整えられた黒髪に、染みひとつない肌。
通った鼻梁に、滑らかな輪郭。かたちのよい唇は、柔らかに笑んでいた。
理知的な双眸は、吸い込まれそうなほど美しい深い海色で――。
美形の青年を前に、リーゼはぽかんと口を開いたまま見蕩れてしまい、しばらく閉じることができなかった。