プロローグ
――僕と婚約……いえ、偽装婚約してくれませんか?
リーゼは初めて彼、アルフレートと会ったときのことを思い出した。
整えられた艶やかな黒髪に、染みひとつない肌。
通った鼻梁に、滑らかな輪郭。かたちのよい唇は、柔らかに笑んでいて。
海色の双眸は吸い込まれそうなほどに美しかった。
「婚約を……本当にするつもりはありませんか?」
初めて出会ったあの日、偽装婚約を持ちかけたときと同じように、アルフレートは穏やかに問いかけてくる。
威圧感などまるでない口調だ。
リーゼが断っても、決して怒ったり苛立ったりはしないだろう。
偽装とはいえ、アルフレートの婚約者として一年間を過ごしてきた。
彼は王太子という身分で、公務も多く、ひと月近く会わないときもあった。けれど、彼の人となりは知れるには充分な時間だった。
(でも……何も知らなかった……。知った気になっていたけれど、私はこの方のことを何も知らなかったのだ……)
物腰は柔らかく、端正な容姿そのままに誠実で。
頭脳明晰、騎士顔負けの剣術の持ち主で……そのうえ王子様。
リーゼはアルフレートのことを、何ひとつ欠点のない男性だと、そう思っていた。
――ほんの少し前までは。
「……本当に婚約をしないとならないような問題でも起きたのでしょうか?」
この婚約が偽装だと、誰かに知られてしまったのか。
リーゼが問い返すとアルフレートは首を横に振る。
「そうではありません……無理強いするつもありません。だから、そんな顔をしないでください」
そんな顔。いったいどんな顔だというのか。
「偽装婚約を持ちかけたのは僕のほうだというのに。虫がよいと思われても仕方ありません。ただ、もしあなたが少しでも僕とのことを考えてくださるというのなら……リーゼ……ど、どうしたのです」
虫がいい。虫がよかった。
アルフレートが、驚いた顔をして心配げに覗き込んでくる。
滑らかな手がリーゼの肩に触れそうになり……リーゼは一歩下がり、彼から距離を置いた。
「……リーゼ?」
彼に触れられたくなかった。
そう思ってしまう自分に腹が立つけれど、アルフレートに触れられるのが怖くて仕方がないのだ。
「すみません……殿下」
戸惑いの表情を浮かべるアルフレートを見ることはできなかった。
きっと――彼の目には失望の色が浮かんでいるだろうから。