1. 葡萄畑にて
あの日、全ては始まった。
あの日、私は廃却されし古の神々に誓ったのだ。
……奴らを、殺し尽くすまで、戦い続ける、と……
澄み切った青空の下、赤茶けた大地の上をどこまでも続く広大な葡萄農園。
2人の少女が手をつなぎ、葡萄畑を縦横に走る未舗装の道を歩いていた。
今年8歳となった少女サーラが、先日5歳になったばかりの小さな妹ナシカの手を引く。
2人とも輝くような美しい褐色の肌に淡い緋色の瞳をしている。
爽やかな風が、少女たちの黒髪を靡かせる。
その広大な葡萄畑のあちこちでは、同じ褐色肌で作業着姿の男女が葡萄の収穫作業や畑の手入れに追われていた。
姉妹は、互助会に所属する老婆たちが手作りした白のシャツと紺色のズボンを身に付けている。
農園作業用の子供服だ。そこに洒落っ気は一切無い。
生地は粗末な量産品で全体的に貧相な感は否めないが、丁寧に洗濯と手入れがされており、2人が周囲の「同胞の」大人たちから愛されていることが伺い知れた。
姉のサーラは、同年代の少女よりも頭一つ分だけ高い身長に堀の深い端整な顔立ちをしているが、その表情はどこか暗かった。
一方、小柄な妹のナシカは年相応の可愛らしい無邪気な笑顔を、一歩前を行く最愛の姉に向けていた。
「おねえちゃん。おとうさん、このへんかな?」
ナシカが大好きなお姉ちゃんに問いかける。
「うん。多分、この辺りで作業してるはず……いた!」
サーラは、農作業に従事する30代の男を見つけ指差した。
ナシカは姉から手を離し、父親であるゲイル・ベルカセムの元へ駆け出した。
2人の美少女を生み出した遺伝子の元となる男の顔は精悍そのもので、肉体労働で鍛え上げられた体は力強く引き締まっている。作業着は二の腕のところまで捲り上げられ、逞しい両腕が露わになっていた。
その緋色の瞳には確固たる知性が宿っており、どこかカリスマ性を帯びている。
「おとうさん!」
ゲイルは声のした方向へ顔を向ける。
「ナシカ!サーラ!どうしてここに?学校はどうしたんだい?」
ナシカは、身を屈めて娘を待ち構えていた父親の胸に飛び込むように抱き付いた。
「えっとね。あのね、“かんとく”のおじさんがね。『おまえたちも、はたらけ!』っていってね。それで、えっと、“がっこう”おわっちゃったの!」
笑顔で答えるナシカ。ゲイルはそんな愛おしい小さな娘の頭を優しく撫でる。
5歳児のたどたどしい説明は、何とか事情を伝えようとする一生懸命さは感じるが、どこか要領を得ない。
「互助会の学校なら無理矢理終了させられたわ。
『学校ごっこなんかやめて、生産量がノルマに達してないからお前たちも収穫作業をやれ』って。
“監督”が先生や私たちを鞭と銃で脅してきたから、みんな教室から叩き出されたの。」
サーラが妹に代わって、改めて事の次第を説明した。
それを聞いたゲイルの顔が暗くなる。
「すまない。父さんたちが不甲斐ないばかりに、お前たちまで駆り出されてしまって……」
「そんなことない!父さんも母さんも、毎日夜遅くまで頑張ってるもの!
……悪いのは無計画に農園を広げて人手不足にさせた“アイツら”よ。
……“アイツら”全員、居なくなってしまえばいいのに……」
「……サーラ、そんなことを外で言ってはいけない、絶対に!……いいね?」
「……はい、父さん。ごめんなさい。」
ゲイルは、俯き素直に謝罪したサーラの頭を優しく撫でた。
サーラはとても賢い娘だ。
賢いが故に、自分たちの置かれた境遇に納得できないのだ。
「さぁ。お前たち2人が来てくれたから、父さんたちも大助かりだ!
早く収穫を済ませて家に帰ろう!」
「おとうさん!ナシカ、がんばるよ!」
ナシカは満面の笑みで父に応じる。
ゲイルもサーラも、その笑顔を見て表情が明るくなる。
今は、目の前の仕事に専念しよう。
いつの日か、この子たちが「心から笑える日」が来ることを信じて――
そう心に思いを秘め、ゲイルは愛する娘2人と共に、持ち場の葡萄畑の収穫作業を再開した。
……
サーラやナシカ、ゲイルたちは「ダニーク人」と呼ばれる自分の国を持たない民族だ。
そして、先程少女たちの言った「監督」とは、ゲイルが働くこの「リョーデック葡萄農園」を管理する人物で、彼らダニーク人を支配する白人種「スタント―ル人」の中年男である。
温暖な気候と肥沃な土地、それに膨大な地下資源を産出するダニーク人たちが古の時代より暮らすこの大地――ファーンデディア――は、既に1500年の長きに渡り、海の向こうからやってきた「スタント―ル人」によって支配されている。
ノルトスタントール連合王国。
それが、サーラたちダニーク人を支配する国家の正式名称である。
その工業力と経済力は世界第二位の規模を誇り、強大な「王国軍」を有する彼らは、ダニーク人たちの僅かな権利拡大さえ許さず、極めて抑圧的な政策を取っている。特にここ最近、何度となく発生したダニーク人たちの非暴力的なデモやストライキは、彼らスタントール人の武装警察や軍によって暴力的に粉砕されている。
国際社会からの度重なる非難も、「重大な内政干渉である」として撥ね付け取り合わない。
今や、ダニーク人たちには時として基本的人権さえも保障されていないのが現状だ。
……
「うんしょ、うんしょ……」
小さなナシカは、精一杯背伸びをして葡萄の房を枝から切り離そうと苦戦していた。
それを長身のサーラが妹の身体を抱えて補助する。
「ありがとう!おねえちゃん!」
ナシカの愛らしい笑顔。
「ナシカ、葡萄はお姉ちゃんたちが取るから、あなたは箱に入れるのを手伝って。」
「うん!」
サーラは微笑みを返し、ナシカにお願いする。
妹は素直に応じ、父や姉が収穫した葡萄の房をプラスチック製の黄色い箱の中に詰めていく。
やがて箱がいくつか満杯になり、ゲイルはそれを積み重ねると、やや離れた場所にある集積コンテナへと運ぶ為、娘たちの元を離れた。
収穫作業を継続する褐色の姉妹。
その時。
2人のスタントール人の男が近づいてきた。
「うーん、今日はどの子にしようかな?……おっ!いい感じの幼女がいるじゃないか!!」
「へい、お坊ちゃま。このベルカセムの小娘2人ですかい?」
醜く太った10代後半くらいの「お坊ちゃま」と呼ばれた若い白肌の男と、その男に平身低頭で接する同じく白肌の中年男。
中年男はスリングを付けた散弾銃を右肩に掛け、両手には大きな黒光りする鞭を持っていた。
太った若い男はナシカを指差した。
「ぐふふっ!あいつが良い。あの小さい方。」
「へい、わかりやした……おい、そこのダニークのガキ、こっちへ来い!」
サーラとナシカは声の方向へ顔を向けた。
散弾銃と鞭を持った中年男、この男こそサーラたちの学校を無理矢理終わらせ、子供たちを農園労働に駆り出した「監督」である。
その隣に立ち、ナシカを連れてくるよう「監督」に命令した太った若い男は、「リョーデック葡萄農園」の経営者夫婦の長男ピエル・リョーデックであった。
「監督」がナシカに向かって命令している。
ピエルは下卑た笑みを浮かべていた。
ナシカはキョトンとしている。
一方のサーラは瞬時に状況を理解した。
このピエルは度々、若く綺麗なダニーク人の女性を屋敷に連れ込んでは性的暴行を働いていた。
使用人であり、「所有物」でしかないダニーク人の女性たちはただ泣き寝入りするしかなかった。
そんな醜悪極まる白肌のクソデブ男が、今度はあろうことか私の小さな妹を屋敷に連れ込む気なのだ!
……そんなこと、絶対させない!
サーラはナシカを庇う様に両手を広げて立ちはだかった。
「待って!ナシカはやめて!連れて行くなら私を連れてって!」
「お前じゃない、そっちの素直そうな小さいのが良いんだ。」
「邪魔すんじゃねえ!ダニークのクソガキが!」
「監督」の鞭がサーラに襲い掛かる。
「うっ!!」
鞭の直撃を右頬に受けたサーラは、反対側の葡萄畑に吹っ飛ばされた。
「ううっ……」
「おねえちゃん!!」
ナシカは倒れた姉の身体に縋る。
その直後、コンテナから戻ってきたゲイルが、遠目から状況を確認するなり、空になった箱を放り捨てて駆け付けた。
「これは一体!?あの、む、娘たちが一体何を……ぐおっ!!」
「監督」の鞭が、今度はゲイルを襲う。
「黙れ!!クソッタレのダニーク亜人が!てめぇ、ガキの躾がなってねぇぞ!」
「も、申し訳ございません。しかし、何があったかだけでも……」
「うるせぇ!!」
更なる鞭の唸りが何度もゲイルを襲う。
サーラは立ち上がり、尚もナシカを庇おうとする。
「お、お願いします……妹は…ナシカは連れて行かないで……」
「だ~か~ら~、お前じゃなくてもっと小さい方が良いの!」
ピエルはうんざりした表情で告げた。
ゲイルを強かに打ち付けた「監督」の暴力が、再度サーラに向かう。
「このクソガキ!貴様は寝てろ!」
サーラの腹に「監督」の男が鋭い蹴りを見舞う。
たまらずサーラは咳き込み、腹を抱えてうずくまった。
「ゲホゲホッ!!う、ううっ……」
今度はナシカが、姉を庇う様に両手を広げて2人の間に分け入った。
「おじさん、やめて!おねえちゃんとおとうさんをぶたないで。ナシカ、ついてくから。」
「おほ~、健気さがさらにそそるね~。」
ピエルが醜悪極まる舌なめずりをする。その口からはよだれが垂れていた。
すると、太った醜い男がナシカの手を掴んで屋敷に向かって歩き出した。
「さぁ、お兄ちゃんと遊ぼうね~。」
「うん、なにしてあそぶの?」
「何しようか~……ぐふっ、ぐふふふっ!!」
下劣な笑い声がサーラの耳に届く。
耳が腐り落ちそうな感覚を覚え、強烈な吐き気が襲う。
「あ、あの、恐れながらお坊ちゃま。む、娘を何処へ……ぐあっ!」
「黙りやがれ!貴様如きが気安く話しかけて良い相手では無いわ!それともなにか?ここでの仕事を失って、家族まとめて農園から追放されたいか?それともコイツで親子共々頭を吹き飛ばしてやろうか?どうなんだ!ああっ!?」
「監督」は、今しがたゲイルの顔面を打ち付けた鞭を腰ベルトに仕舞うと、今度は散弾銃を腰だめに構えて2人に銃口を向けた。
「も、も、申し訳ございません……大変失礼しました……心よりお詫び申し上げます。」
「わかればいい。貴様等惨めなダニーク人は、我々スタントール人によって生かされているということをよく理解しろ。我らが偉大なる建国王が、北辺の蛮族共を蹴散らしてファーンデディアを解放しなければ、貴様等ダニーク人は当の昔に絶滅していたんだからな!!」
「はい、その通りです。」
ゲイルは頭を下げ、「監督」に許しを乞う他なかった。
この「監督」がいつもダニーク人相手に好んで使うフレーズだ。
1500年前、スタントール王国を築き上げた建国王が、ファーンデディアに遠征して蛮族が支配するこの地を平定した、という「歴史」がその根拠である。
銃を仕舞うと、「監督」もピエルとナシカの後を追いかけるように去って行った。
項垂れるゲイルと地面に倒れたサーラがその場に残された。
騒動を聞きつけた労働者仲間のダニーク人たちが、ゲイルやサーラの元に集まってきた。
皆、一様に状況を察した。
男たちはゲイルの肩を優しく叩くも、掛ける言葉が見つからなかった。
普段は温厚なゲイルの顔に、娘を連れて行かれたことへの言いようの無い悔しさが強く滲む。
その両手は固く握り締められ血が滲み、小刻みに震えていた。
サーラには女たちが駆け寄った。彼女を抱きかかえて介抱しようとする。
だが、サーラは地面の土を握り締め、激しい怒りの形相のまま伏していた。
緋色の瞳は燃え盛るような緋を帯びつつ屈辱と自身の非力を嘆いた大粒の涙で溢れていた。
今、サーラが願うことはただ一つ。最愛の妹が無事に家に帰ってくることだけ。
お願い!お願いします!
廃却された私たちダニーク人の神々様!どうか妹を、ナシカを!
無事に家族の元に返してください……お願い……
サーラの緋色の瞳は、葡萄畑の向こう、小高い丘の上に築かれたリョーデック一家の豪邸へと向かって歩く妹の小さくなった背中をいつまでも見つめていた。
ナシカは翌日、変わり果てた姿で発見された。