0. 泡沫の夢、蘇る記憶
豊かな恵みをもたらす「祝福の大地」に暮らす褐色肌の人々はその日、大いなる喜びに包まれていた。
老若男女を問わず、皆その精悍な顔に満面の笑みを浮かべ、「その時」が来るのを盛大に祝っている。
彼らの「首都」と定められた巨大な港湾都市が「歓喜の熱狂」の震源地だ。
そんな港街の中心部。市庁舎バルコニーを望む街のメインストリートは、「祖国の旗」を打ち震わせる無数の人々で完全に埋め尽くされている。
誰もがバルコニーの演台に「彼女」が現れるのを、今か今かと待ち望んでいた。
その市庁舎内の廊下を、褐色肌の美しい女性が力強い足取りで歩く。
バルコニーに向かう彼女を、行く先を指し示すかのように立ち並んだ大勢の同胞が万雷の拍手を持って見送る。
緑色の戦闘服姿。
艶やかな長い黒髪を靡かせ、緋色の瞳は決意に満ち溢れていた。
廊下の先にある両開きのアンティーク調ガラス戸を、左右に侍る兵士が恭しく開く。
バルコニーには大勢の側近や兵士たちが待っていた。
皆、あらん限りの笑顔と拍手で「彼女」を歓迎する。
若い褐色娘は、自身を出迎えてくれた仲間たちに頷きを返しながら真っ直ぐ演台へと歩み寄る。
「彼女」が演台に姿を現すと、眼下の群衆は割れんばかりの大歓声を上げた。
その模様をリアルタイムで放送するテレビやラジオにも、大勢の人々が齧り付く。
「その時」は来た。
やがて歓声は落ち着き、誰もが「彼女」の発する言葉を待つ。
憎むべき支配者連中に嵌められた奴隷の鎖を断ち切り、自分たちの「祖国誕生」を告げるその言葉を。
演台のマイクに向けて「彼女」が口を開いた、まさにその時……
モーニングコールを告げる電話の音が鳴る。
もうそこに、歓喜に沸く大勢の「同胞たち」の姿は無かった。
数コールの後、白いシーツに覆われたベッドから褐色の腕が伸びる。
枕元の小型机に置かれた電話の受話器を取る。
「……私だ。」
寝起きの気怠さを感じさせる若い女の声。
電話の向こうの若い男が、女に「起床時間」が到来したことを告げる。
『おはようございます、同志。
そろそろお時間です。ご準備願います。』
「……わかった。」
ベッドのシーツを払い除け、女は起床した。
年齢は20代半ば。
輝くような褐色の肌に緋色の瞳。堀の深い精悍な顔は、凡百の女優が嫉妬を覚える程の美しさであった。
黒いスポーツブラに短パンと言ったラフな出で立ち。
露出した腹部は見事に引き締まり、身体全体を逞しい筋肉が覆う。
そこに醜い贅肉や余分な筋肉は一切無く、あたかも古代の「剣闘士」のような気品さすら漂っている。
首回りで切り揃えたショートボブの黒髪は、ロクに手入れをしていないにもかかわらず、艶やかさと潤いを保っていた。
女は軽くシャワーを浴びた後、手早く「普段の服装」に着替える。
緑色の戦闘服上下。
その上に弾帯ベルトを装着してコンバットブーツを履く。
この「軍人の姿」こそ、彼女が今までの人生の大半を過ごしたファッションだ。
ここは「彼女」の為に用意されたホテルの一室。
軍服姿となった褐色娘は、日光を遮るカーテンを開けて小さなベランダへと続くガラス引き戸を開放する。
異国の熱気を帯びた空気が肌と黒髪を撫でる。
早朝にもかかわらず、ホテルから望む街は行き交う人々の喧騒に包まれていた。
そして耳を澄ませば、遠くから機関銃の銃声や爆発音が織り成す「戦闘騒音」が聞こえてくる。
「故郷」から遠く離れたこの場所は、致命的な情勢不安を抱えた典型的な「失敗国家」。
彼女の「今の」戦場である。
褐色女はベランダの転落防止柵に両手を添えると、軽く瞳を閉じた。
毎朝「出勤前」に行うルーティンである。
瞳を閉じれば、「あの日」の光景が昨日のことのように浮かんでくる。
激烈な「憎悪」と「殺意」が赤黒いオーラとなって全身を包む。
「……今日も天国のあなたに沢山届けてあげるわ……
“奴等”の死体を。」
女はポツリと呟き、その意識は急速に「あの日」へと戻った。