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サッ、サッ……擦る音が一つ起こる度、霞の如く拡散していた『私』が形成されていく。そして―――カタン。キャンパス越しに絵筆が置かれたと同時に、完全に実体を得た。
齢十歳前後の画家は我が異母弟、烏の幼少期と瓜二つ。但し成人後欠けた筈の片耳を、何故か幼子も既に失っていた。
彼の足元に左右から擦り寄るのは、姿形が鏡映しの黒猫達だ。唯一異なる緋と天の瞳をくるくると動かし、時折前脚で以って片割れにちょっかいを出している。そんな悪戯好きな姉妹をあしらいつつ、椅子から立ち上がった彼がこちらへ腕を伸ばす。
―――あんたは大人だ。だからこれ以上、この都に居てはいけない。
宣告と同時に繋がれた温かな手の感触に、無意識に肌が粟立った。生前より敏感な皮膚。まるで生まれたての赤子にでもなった気分だ。
ここは五龍城の屋上か?鉄製の手摺り越しに見下ろす景色には覚えがあったが、どうにも違和感が拭えない。人家の光が皆無なだけでなく、風景全体が何処か書き割りめいているような、
(私はあの時、兄長達と共に滅んだ筈……ならばこの都は宛ら、彼岸と此岸の狭間と言う訳か)
意外と冷静に下せた分析に、己自身驚く。生前より常に死に近しかったせいか、この不可解な状況もすんなりと腑に落ちた。
連れられるまま場を後にしかけ、待て、そう頼んで一度だけ振り返る。
キャンバスに立て掛けられた、一冊のスケッチブック。その紙面に描かれていたのは、胸まで黒髪を伸ばす女の肖像画だ。それが他ならぬ己だと認識した瞬間、視界が暗転する。
―――お前は赦されたんだ。だから、もう二度と戻って来るな……達者に暮らせよ、星。
次の瞬間視界が開け、私は黄色に輝く街灯の真下にいた。背後からの別離の言葉に、慌てて上半身を捻って振り返る。が、満月の照らし出す平原に人影は無い。にゃおん、にゃおん。遠ざかり行く猫達の声も聞こえたが、それもすぐに聞こえなくなってしまった。
「ここ、は……?」
触診での違和感は無いが、咽喉は潰れたままのようだ。質問は掠れた吐息と化し、肌寒い夜闇へと溶けていく。
改めて確認してみると、衣服は着慣れた僧のそれではなく、紺に白の百合刺繍のチャイナドレスだった。襲名祝いに実母、先代赤龍から贈られた品だ。毎日着りゃいいのに。普段衣装に無関心な珍しく異母弟がボヤいていたのを思い出し、声無き声で笑う。
どうやら今立っている場所は、高原の只中のようだ。麓には人家の明かりが複数見える。そして数十メートル前方には、ぽつんと建つ平屋のコテージ。所謂避暑地、と言う奴か。生憎空気は初春の盛りのようだが。
血を分けた弟とは言え、彼岸の者と化した烏の意図など知る由も無い。しかし、わざわざこのような場所に顕現させたのだ。あの別荘が最初の目的地、そう考えて差し支え無いだろう。
(どの道このような状態では、脚が生えた所で何処へも行けぬわ)ブルッ!(説明は苦手だが、せめて軒先と毛布位は貸してもらわんとな)
脆弱になった我が身を疎ましく思いつつ、窓から漏れる明かりを頼りに歩を進める。そして無事玄関先へ到着し、インターホンに手を掛けた。