続・美吉野歌合
午後一時二十分、千本口発のケーブルカーに、怜は乗り込んだ。
観桜期の時刻表であることを示すように、ケーブルカーの中は人で混雑している。
けれど怜はすぐに、目当ての人物を見つけ出すことが出来た。
長く艶やかな黒髪、うりざね顔の、記憶よりまた少し大人びた面差しとなった桃木鎮矢を。
彼女とは共通する学術的課題が縁で、冬の吉野山で知り合い短くも印象深い日数を過ごした。桜の頃にまた逢おうという約束を交わし、その約束通りに今、再会を果たしたのだ。
冬にはまだ卒論と院試の準備という重圧を抱えていた怜だったが、その二つの難関を無事にクリアーした今、怜の心は軽く、また、鎮矢に逢えるということで浮き立ってもいた。
院生になったらなったで更なる論文の執筆や資料、史料の読み込み等の生活が待っている訳だが、社会人よりは時間の融通が利く。お蔭で怜もこうして吉野くんだりまで出来る訳である。
「お久し振りです」
二人同時に言って、それから笑み交わす。
「江藤さん、それ」
鎮矢が指差したのは、怜の巻いているストールだ。鎮矢から貰った。
指摘した鎮矢もまた、怜から貰った茜色のバレッタで髪の上部を留めていた。
「使ってくださってるんですね。ありがとう」
「桃木さんも」
短いロープウェイの運行時間、怜と鎮矢は再会の喜びを互いに確認し合った。
四月の吉野は、やはり人が多かった。澄んだ山の空気と桜目当てに来た観光客たちの猥雑な熱気が入り混じっている。
それでも中千本から見渡せる桜は丁度見頃で、人界にいながらにして魂が魅入られてしまいそうな景色である。天候にも恵まれ、淡白く霞がかった山々を見ながら怜が言う。
「吉野山の桜はほとんどがシロヤマザクラ(山桜)だそうですね」
「え、染井吉野じゃないんですか」
「俺もつい最近までそう思ってました」
「外来種?」
「いえ、日本古来からの野生種です」
歩きながら鎮矢がふふ、と笑う。
「江藤さん、相変わらず博識ですね」
「桃木さんに会う前には、このくらいの勉強をしておかないと」
相手は才媛なのだ。
恥をかかない程度には抜かりなく吉野に関する知識を前以上に準備してきた。
二人は人混みの中をどんどん歩いて、奥千本まで来た。
二人共スプリングコートを着ているので、背中が軽く汗ばんでいる。
ここまで来ればやはり、人が少ない。皆、桜満開の中千本に集中しているからだろう。
早咲きのシロヤマザクラがちらほらと見えて、これはこれで風情がある。
本当は桜の眺めさえ楽しめれば種類などどうでも良いのだ。怜は自分の小ささを僅かに恥じた。
そんなこととは知らない鎮矢は少ない桜の風情に見入っている。
「ねがはくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃」
「早速ですね。西行ですか」
鎮矢に時々、知る歌を詠む癖があるのを怜は知っている。
そんなところを好ましいとも思っている。
「何だか急に思い出しちゃって。気持ちが解るなあ、なんて」
「ああ。世俗を離れたような場所ですしね、ここは」
「西行が亡くなったのは、吉野ではなく河内の国(大阪府)弘川寺でしたけど、二月十六日、つまり釈迦の命日のあとを追うように逝ったんですよね」
「願った通りに亡くなったので、藤原定家や慈円など、当時の文化人が感銘を受けた」
「さすが江藤さん」
西行の歌は怜も好んで歌集・『山家集』なども持っていて、鎮矢の話についていくことが出来た。偶然の賜物である。
「お互い、研究テーマ以外にも共通して好む分野があるって良いですね」
そう言った鎮矢ははにかんだように笑った。
怜は偶然の賜物に感謝した。
今日は前もって予約しておいた旅館に、怜と鎮矢はチェックインの頃合いを見計らって入った。二泊の予定なのに、相変わらず大きな鎮矢のボストンバッグに怜は微苦笑してしまう。
眺めの良い一室だった。部屋から桜の賑わいが見渡せる。
床の間にも桜の絵が描かれた掛け軸が下がっている。
桜の花びらに入った線の一本一本まで丁寧に描き込まれた絵だ。
部屋に用意されていたのも桜茶で、何も彼もが桜尽くしだ。
それでも咲く花、掛け軸の花、そして茶器の湯船に浸かる花、とそれぞれの妙味があって飽きない。
そして何より、怜の目前に座る花がいる。
昨冬に鎮矢と出逢った折、彼女は男性不信になっていた。詳しくは聴いていないが何か傷つくことがあったようだった。
それでも二人で言葉を交わし、同じテーマを語らいながら旅をする内に、鎮矢は怜に打ち解けてくれた。二人は心を通わせ、再会の約束をするまでに至ったのだ。
ほんのりとした塩気と桜の香りがする桜茶が、胃の腑を温めてくれる。
「銀の猫をあげちゃったんですよね」
「え?」
鎮矢の唐突な言葉に、今度はついていけなかった。
鎮矢はミントグリーンのクルーネックセーターに焦げ茶のロングスカートを穿き、端然と座っている。相変わらず姿勢が良い。耳にはトパーズのように黄色に煌めく花型のイヤリング。
「銀の猫って?」
「晩年、高名になった西行を、源頼朝が館に招き、銀製の猫を下賜したんです。けど西行はその猫を、館の外で遊んでいた子供たちにあげちゃったんですって」
「それは大胆と言うか無欲と言うか」
「でしょう?権力者への反骨精神だったのかしら」
「ああ、それは有り得るかも…」
もう一口、桜茶を啜る。
西行は桜を愛した歌人だったことでも有名だ。
鎮矢が先程、詠んだ歌の他にも数多くの桜の歌が残っている。
吉野山 くもをはかりに 尋ねいりて 心にかけし 花をみるかな
おもひやる 心や花に ゆかざらん 霞こめたる み吉野の山
西行が吉野にいたと思われる間、詠まれた歌だ。二首目の意味は、思い遣る心が花にまで届かないのか、吉野山には霞が立ち込めていて、花を眺める術もない、というものだ。
霞を嘆いているようで、しっかりと桜を詠んでいる。
「西行は北面の武士というエリートコースを捨てた人ですしね…、」
怜が話を続けようとすると、鎮矢が不自然に沈黙した。
笑顔が強張り、よく見れば肩が微かに震えている。
「桃木さん?」
怜のその呼びかけをきっかけに鎮矢の顔が歪み、それを隠すように鎮矢は両手で顔を覆った。
「江藤さん。私、院をやめるかもしれません―――――――」
両手で覆っても、はらはらと落ちる雫が鎮矢のロングスカートを打つ。
細い肩が震えている。
去年の冬にはあんなに研究テーマについて活き活きと語っていた彼女が、一体どうしてしまったのか。
「…桃木さん。ゆっくりで良いです。落ち着いたら何があったのか、話してくれませんか?」
鎮矢は顔を覆ったまま、頷いた。
外を見れば空の青。眼下には淡い桜色。
怜はその景色を眺めながら鎮矢が落ち着くのを待った。
「………私、大学院で苛めに遭ってるんです」
「苛め?」
やがて多少、落ち着いた鎮矢が口にしたのは意外な言葉だった。
「はい。最初は、教授の派閥争いの余波かと思ってたんですけど。私が師事してる教授に頼まれた資料を探しておいたら無くなっていたり。それまで仲良く喋っていた子たちから急に無視されるようになったり…。さすがにおかしいと思っていたら、他学部の友人から、私が色仕掛けで教授に取り入ったと噂になっている、と聴いて……。もちろん誤解なんですけど、誰がそんな出鱈目な噂を流したのか」
酷い話だ、と怜は思った。大学は象牙の塔だ。狭い世界で人間同士のコミュニケーションが凝縮している。その中で鎮矢は村八分的な扱いを受けているのだ。
鎮矢の誇り高さを知るだけに、怜は歯痒い思いだった。
前回とは異なる傷心を抱いた鎮矢は、怜に助けを求めるような心持ちでここまで来たのだろう。しかし現在のところ、怜に出来ることは思い浮かばない。最善なのは噂の出所を突き止めることだが、それは現状、難しい話だし、一度流布した噂は消えるまでに時間がかかる。
(いや、待てよ。もしかしたら…)
ふと、ある可能性に思い当たった怜に、鎮矢が声をかけた。
「すみません、私、先にお風呂頂いてきますね」
泣いたあとの顔を恥じるように照れ笑いしながら立ち上がる。
怜はそれに微笑を返し、自分のすべきことをする為、スマートフォンを取り出した。
やがて風呂から戻った鎮矢と入れ違いに、怜は風呂に向かった。
外はそろそろ空も桜色に染まりつつある。もうしばらくすると茜に、朱に染まるのだろう。前回に泊まった宿と同じくらい見晴らしの良い男湯に浸かりながら、先程スマホで連絡を取った相手が、首尾よく怜の求める情報を入手してくれることを祈る。
思えば怜と会う時の鎮矢は、いつも何等かの問題を抱えている気がする。
そして怜はいつも、自分がそれを解決したいと望むのだ。ともすれば一人で無理をしそうな鎮矢だから猶更に。
悠久の空を雲が動いている。
人の世もかくあれば良いのに、と怜は思う。
詰まる所西行法師が求めたのも、そんな境地だったのではないだろうか。
夕食は山菜の天婦羅、刺身に牛鍋、柿の葉すしといった、吉野名物の味覚の盛り合わせだった。
鎮矢は今ではもう何でもないような顔で、箸を動かしている。
取り繕うのが上手いのだ。自分と同じで。
良いことじゃない、と怜は思う。取り繕うことが上手ければ吐き出すべき本音を吐き出しにくくなる。人は機械ではないのだ。
辛いなら辛い、苦しいなら苦しい。
感情を無理に切り替えるのではなく、吐露してしまったほうが良い。
「西行法師…俗名・佐藤教清は二十三歳の若さで出家したんですよね」
「出家の動機は色々言われていますね。身分違いの恋をした、とか」
鎮矢が今は平静を装いたいのなら、それに合わせようと思い、怜も話を合わせる。
「それを最初に挙げるあたり、江藤さん、ロマンチストなんですね」
ふふ、と鎮矢が笑う。
「蹴鞠や流鏑馬が得意で和歌にも秀で容姿端麗、出世の花形だった北面の武士を辞めるなんて余程のことでしょう」
「余程のことが失恋ですか?」
「十分な動機になるでしょう」
「江藤さんでも?」
「俺は…どうかな」
「だって、文武両道な美男子なんて、江藤さんみたいじゃないですか」
怜は困ったように笑う。
食前酒一杯で紅顔となった鎮矢は色香が漂い艶やかだ。褒められて悪い気はしないが、余り無邪気に、無防備になられるのも問題だ。二人で同じ部屋に泊まるのは前回のようなトラブルのせいではなく、予め両者合意の上だ。けれど弱っている上に酔った鎮矢と一夜を共にすることには後ろめたさがある。
怜は、せめて自分は自制心を保とうと食前酒の他は酒を飲まなかった。
夕食が済むと仲居がやってきて、手早く二人分の布団を敷く。
この部屋には前回のように衝立が無い。
鎮矢との境とする物が無い。
しかし心には隔てが、境があるように怜には感じられた。
怜のスマホが鳴り、怜が求めた情報を通話相手が教えてくれる。やはりそうだったか、と思うが、自分の推測が当たったからと言って別段、怜は嬉しくなかった。
「江藤さん?」
「はい」
スマホを置いて鎮矢を見ると、鎮矢がどこか寂しげな瞳で怜を見ている。いつもは凛とした風情の似合う女性の、こうしたふとした拍子に見せる弱さは男心をぐらつかせる。
「お布団、ひっつけたままで寝て良いですか?」
仲居は怜たちをカップルか夫婦と思ったのだろう、二組の布団はぴったりくっついて敷かれていた。
鎮矢の問いは、今晩は怜と何もせずに済ませたいという意思の表れであり、けれど傍近くにあって欲しいという願望の表れだった。
怜に複雑な思いが全くない訳ではない。
だが、私欲を堪えて怜は頷く。
「はい、もちろん」
今の自分たちにはその距離が丁度良いのかもしれないと思う。
人と人の、距離感は大事だ。
傷心の鎮矢に、踏み込み過ぎは厳禁だろう。怜はこの誇り高い女性を大切にしたかった。
隣に彼女の呼気を感じながら寝るだけで、今は十分だ。
翌朝の吉野は雨がぱらついていて、けれど花を散らす程の雨ではなく、桜の花々にしっとりとした趣を加えていた。
「待つにより 散らぬ心を 山櫻 さきなば花の 思ひ知らなん」
「花の咲くのを一心に待っているので、他に逸れない心を、山桜が咲いたなら花に思い知って欲しい。そういう解釈ですよね、確か」
怜が口ずさんだ西行の和歌の大意を、隣を歩く鎮矢がすらすらと述べる。二人共、宿に借りた傘を差している。雨のぱらぱら、と歌う音が聴こえる。
二人は上千本にある竹林院を目指していた。竹林院は聖徳太子が創建した椿山寺跡と言われ、本堂には太子像が祀られている。立派な謂れを表わすかのように、威容ある山門が訪れる客を迎え入れる。大和三庭園の一つ、群芳園は、豊臣秀吉が千利休に作らせた池泉回遊式庭園だ。吉野山を借景にして、桜の群生の眺望は見事だ。春雨も眺望を引き立てて、潤う水分を含むしっとりした匂いが鼻腔に広がる。群芳園の池は緑の水面で、その表面にぽつぽつと雨の水紋が生まれては消える。
「利休は西行と違って世俗に深く関わったけれど、気骨の人ではありましたよね」
怜の隣に端座した鎮矢が、その見事な眺望を見ながら言う。
「そうですね。最後は秀吉の勘気を蒙り切腹した」
「一度、人の反感を買ったら取り戻せる術はもうないのかしら」
独りごちるように言う鎮矢が、何を考えているかは怜にも察しがつく。
「状況によりけりでしょう。場合によっては、改善出来ることもある」
「そうね。場合によっては…」
二人はその後、二十分程歩いて後醍醐天皇の御陵がある如意輪寺に着いた。
今回の旅では、前回は行かなかった寺社を巡ろう、と怜と鎮矢は話し合っていたのだ。
南北朝動乱期、自らの手による王朝再建を夢見た悲運の天皇が眠る寺は、灰色の瓦葺で、緑がこんもりと茂っている。
怜と鎮矢は宝物殿なども見て回り、それぞれの感想、思ったところなどを学術的視点も交えて語り合った。
その後、二人は『一休庵』に入り、刺身や炊き合わせなどを盛り込んだ、懐石風の「太閤花見弁当」に舌鼓を打った。瓢箪型のお重も洒落ていて、胡麻豆腐も食べ応えがあった。
鎮矢の食欲はそれなりにあるようで、その点については怜も安心した。
「このあとはどうされます?宿に戻りますか?」
「そうですね。余り強行軍でも何ですし、戻ってまた風呂に浸かってから西行談義とでも参りますか?」
鎮矢の問いかけに、怜はあえて軽く答えた。鎮矢もまた、怜に昨晩より気遣われているのが解っているようで、少し目を伏せて頷いた。
吉野では孔雀を飼っている寺院や旅館をよく見かけるが、この宿では飼っていないらしい。その代わり、大きな池に錦鯉が泳ぎ、吹き込んできた桜の花びらが小さな花筏を作っていた。その花筏の上にも春雨はやわやわと降りかかり、花びらの群れを揺らしている。
風呂から上がった怜と鎮矢は早々に浴衣になって部屋で寛いだ。
平静を装ってはいるが、和風美人の典型のような鎮矢の浴衣姿は、未だに怜の胸をときめかせる。昨今の若い女性には見られない、はんなりとした趣を鎮矢は備えているのだ。丁度この、美吉野のように。
「西行は生まれも恵まれているんですよね」
「藤原秀郷の子孫でしたっけ」
「遡れば藤原鎌足まで行き着くとか」
「へえ」
どうやら色々と予習をした怜より鎮矢のほうが西行に詳しいようだ。
怜は講義を拝聴する学生気分になる。怜相手にそうした思いを抱かせる女性こそ、稀有だった。
「初めは公卿・徳大寺実能の随身となって。十六歳頃だったかしら。それから鳥羽上皇の北面の武士として兵衛尉にまでなった。彼は歌会に出れば高い評価を得、流鏑馬や蹴鞠の名手でもあった。つまり、宮廷人としても武人としても秀でていたんです」
「成る程。西行は有職故実にも通じていたんですよね」
鎮矢が頷く。
「ええ。加えて北面の武士だから見目も良い。家柄にも才能にも容姿にも、それこそ非の打ちどころなく恵まれた人だったんです。それが何を思ったのか、保延六(1140)年、二十三歳の若さで出家してしまった…」
西行の出家の理由は今もって謎のままだ。
有力説としては友人を亡くしたから、政争への失望、叶わぬ恋をした為、などがある。
「恵まれ過ぎた人って、鋭敏な感性を持っているのかもしれませんね。それが西行にとって、仇となったのかも」
「鋭敏な感性の人間が、子供を蹴飛ばすでしょうかね」
西行は出家に際して、裾に取り縋いて泣く四歳の我が子を蹴った、という逸話がある。
鎮矢の眉がきりり、と勇ましくなる。
「私、その話が本当なら西行は嫌いです。DVなんて、最低だわ」
「俗世と縁を絶つにしろ、ちょっと理解し辛い行動ですよね」
宥める口調で怜が同意する。
そう、理解し辛い行動―――――――。
「桃木さんの出鱈目な噂の出所が解りました」
「え?」
鎮矢が目を見張る。
「明日、花矢倉まで行きましょう。詳細はそこでお話します」
「……私に悪意を持つ人の仕業だったんですか」
怜はそこでちょっと困ったように小首を傾げる。
「いいえ。寧ろ過剰な好意を持つゆえの仕業でしょう」
「意味が解らないわ」
「全ては明日」
「…解らないわ」
鎮矢が繰り返す。
「何がですか?」
「江藤さんが、私が困っている時に現れて、助けてくれる、必然性が」
それは学問を語るよりも難しい。
「俺は博愛主義者じゃありません。桃木さんが困難に陥っている時に、助けになれることは嬉しく思います。――――――あなたのことが、好きだから」
鎮矢は先程よりも尚、大きく目を見張ると恥らうように下を向き、右手で口元を覆った。
その晩も二人は、別々の布団で寝た。
美吉野の旅行も一日を残すのみとなった。
吉野旅行の三日目は、春雨の名残を留めて淡い春霞に煙ったように、水分を含む空気がまだ滞留して、肌や髪に吸いつくようだった。
中千本の坂の途中にある花矢倉は、吉野一の絶景で知られている。吉野のみならず一帯の連山も眺めることが出来、人形浄瑠璃や歌舞伎の演目である『義経千本桜』の舞台としても知られている。歌舞伎の粗筋の内、「道行初音旅」は静御前が登場し、舞台が桜が満開の吉野山であることから「吉野山」とも呼ばれる。
怜と鎮矢はまだ人も少ない早朝、この花矢倉に来た。
絶景を満喫する為でもあり、もう一つの目的の為でもあった。
簡素な小屋のような建物の向こうには、確かに吉野一と豪語出来るだけの眺めが広がっている。濃い緑が上になり下になり、淡い桜色がそのあちこちの余白を埋めている。
怜はその眺めを満喫するより前に足を止めると、後ろを振り向き、声をかけた。
「さあ、もう良いでしょう、中國さん」
「え?」
驚く鎮矢の前に一人の男が歩み出る。
彼は鎮矢が小野桐峰と大太刀・丹生の絵巻物を調査した、絵巻物を所持していた大分の神社の息子であった。体格が良く、育ちも良さそうな顔。如何にも温室育ちに見える。
実は前回も怜と鎮矢の跡をつけていたのだが、怜の脅しでその後は鎮矢への執着を捨てたと思っていた。だが――――――――。
「桃木さんの出鱈目な噂の出所は、あなたですね。SNSで、桃木さんに関するあることないことを言い触らした」
怜が静かに断じる。
彼はこのことを、東京にいる兄に頼んで調べてもらったのだ。幸い兄には、こうした調べごとに強い知り合いがいる。
「どうして…中國さん」
呻く鎮矢を、中國が恨めしそうに見る。
「あんたは史料にばかり夢中で、俺がどんなにうちに招いても来てもくれなかったじゃないか!」
「…一日に何十通もメールを貰えば怖くもなります」
そこは怜には初耳だった。中國は正真正銘のストーカーだ。
「あなたは桃木さんのことが好きだったんじゃないんですか?好きな女性を追い詰めるのがあなたの愛情ですか?…静御前は義経恋しさに吉野まで単身、追って行ったと言うけれど、似たようでいて、彼女の純粋な想いとあなたのそれとはまるで違う」
「うるさいうるさいうるさいっ」
中國は怜に掴みかかるが、怜は難なくかわし、まだ濡れた地面に中國は正面から倒れ込む。
「あなたは一回目の俺の警告を無視した。これ以上、まだ桃木さんに迷惑な行為を続けるなら、こちらにも考えがある。今はストーカー規制法も出来ていることだしね。経歴に傷がつくのは、立派な神社の跡取りとしても研究者としても損にこそなれ、得なことは一つもないんじゃないか?」
「何でも持っているあんたなんかに解るものか!俺だってあんたのことを知っているぞっ。央南大学大学院生・江藤怜、難関な院試に一発で合格し、卒論は諸教授の称賛を浴び、研究紀要にも掲載された。加えて顔が良くて女にも不自由しないんだろう。お前なら、桃木さんでなくたって引く手あまたな筈だ」
怜の機先を制して、ここで思いがけず反論したのは鎮矢だった。彼女は怜の背後から出て堂々と中國に正面から言ってのけた。
「―――――江藤さんが何の努力もなしに卒論を書き上げたと思ってるの?院試に受かったとでも?顔が良ければ苦労しないと?ふざけないで。あなたは研究者をも莫迦にしてるわ。研究は孤独で地道な作業の積み重ねよ。江藤さんの出した結果は努力や研鑽によってのものよ。ただ何もせずに降って湧いた訳じゃないわ!」
中國は叱られた犬のような目で鎮矢を見た。
「あなたの気持ちに応えられなくてごめんなさい。私は、江藤さんが好きなんです」
鎮矢は明快に言い切った。
ここまで聴くと中國は、もう何も言わず、花矢倉から駆け去った。
そろそろ花矢倉にも人が集う時間になってきた。あのまま言い合いを続けていれば要らぬ注目を浴びることになっただろう。怜は内心、ほっとした。
怜が、中國の背が消えるまで見ていた鎮矢を窺うと、鎮矢は振り返って泣き笑いのような顔になった。
「いつもいつも、私が困ってる時にいてくれるんですね、江藤さん」
「最後に彼を追い払ったのは桃木さんですよ。勇敢でした。そう経たない内に、院での苛めも収まるでしょう」
「彼は失恋したからって出家しないでしょうね」
「西行みたいに?」
「そう」
怜と鎮矢は同時に噴き出し、笑った。
二人は人々に混じり改めて、花矢倉からの連山と桜を眼下に、手を繋いで長いことそこに立っていた。長いようにも短いようにも感じた旅がもうすぐ終わる。
図らずも互いの気持ちを確認し合う旅となった。
「散策してから宿に戻りましょうか」
怜の提案に鎮矢が頷く。
「……今日は布団が一組、余るでしょうね」
怜が見返した鎮矢の顔は赤く染まっている。桜の花びらよりも。
怜はゆっくりと微笑した。
その夜、二人は互いの手を取り合い、初めて逢った同士のように顔の輪郭をなぞり、口づけをかわした。相手と自分の熱で燃えるような錯覚を、二人は感じていた。
どこもかしこもの肌が、淡い桜の霞のようだ。
怜も鎮矢も桜に抱かれる心地で眠りに就いた。
おしなべて 花の盛に 成にけり
山のはごとに かゝる白雲
どこまでも果てのない、それは満開の桜であった。