戦犬
「これは…なんという…」
目の前に広がる光景に日雀は言葉を失った。
小さな集落だったはずのその場所には、無残にも崩された家や、燃え尽きた後であろう黒く燻った木材、踏まれて泥まみれの衣服、無数の足跡、血痕、逃げ惑い折り重なるように息絶えた人。集落の入り口から見える範囲の情景だけで、中がどれほど悲惨な状況なのか想像がついた。
集落の中から立ち上る黒煙は辺りを日中とは思えない仄暗さへと変えている。
「一体、何が起きたというのか…」
ゆっくり集落の中へと足を踏み入れながら、ぼそりと呟く。目を見開いたまま絶命している老人の顔に手をやり、そっと瞼を閉じさせてから日雀は手を合わせた。
様々なものが焼け焦げたそのあまりの異臭に思わず左の袖で鼻を隠す。まだ、この状況を作り上げた者が残っているかもしれない。右手は腰の短刀に置き、注意深く進んでいく。ふと目にした荒れた地面には人の足跡に混ざり、動物のものが見える。日雀はその足跡の主を思い出し、愕然とした。
「これは、まさか戦犬のものか。しかし、どうして…」
戦犬は鳥飼国で使われる戦いに特化した訓練犬だ。
訓練された戦犬は群れで行動し、犬使いの犬笛で操られる。一度襲いかかるよう指示された戦犬は、どんなに傷を負おうとも退くことはない。
素早い身のこなし、人の体などたやすく引きちぎってしまう強靭な顎、そして退くことない鉄の意志。悪魔。
指示に使う犬笛は鳥飼国の犬使いにのみ代々伝えられており、国外に持ち出すことはできない。仮に笛だけが持ちだされたとしても、その音の操作も不可能だろう。もちろん隣国も戦犬を扱えるよう様々な施作を行ってはきたがいまだ実現には至っておらず、結果、抑止力としての効果も絶大だった。
日雀は一度だけじいさまと遠出をした際に、訓練中の戦犬を見たことがあったのだ。その統率の取れた行動は鮮烈に記憶している。
しかし、その戦犬が何故自国の集落を襲うなどということを…。しゃがみこみ土に刻まれた戦犬の足跡を指で触れながらこの状況について思い巡らせていた。
(鳥飼国以外でも戦犬が実用化されたということか…。いや、それにしてもこのような集落を襲う理由もないだろうに。ならば…)
「…ん…ええ……ん…」
どこからか聞こえて来る泣き声に日雀は思わず顔を上げた。矢庭に立ち上がり辺りを見回す。まだ生きている者がいるということへの期待に日雀の心は高まった。
(こっち、か)
日雀は弱々しく聞こえる鳴き声の方へゆっくりと歩き始めた。この声の主以外にも生きている者がいないか、周囲に気を配りながら。
「誰か!誰かいませんか!もしいたら、なんでもいいです、音を立ててください!」
日雀は何度も問いかけ続ける。何度も、何度も。
「誰か!誰かいませんか!」
燻り、黒煙を上げている箇所をすり抜ける。倒れて息絶えている人を仰向けに寝かせ、目を閉じさせる。
「誰か!誰か!!」
なんなんだ、これは。一体何故このようなことが。この一方的な虐殺への怒りが、間欠泉の如く湧き上がってくるのだった。
*
あの泣き声は一軒の崩れかけた家の中から聞こえてきているようだ。扉は破壊され開け放たれていて、中からは生き物の気配はしない。
日雀は一度深く深呼吸をし、ゆっくりと家の中へと進んでいった。
家の中は荒れ果てていた。床には食事時だったのであろう、割れた皿や砕けた食材が雑然と転がっている。獣の足跡がそこらについており、家の中にまで激しく駆け込んだことが容易に想像できる。この状況で果たして生き残れることができるのだろうか…。
声は更に奥の方から聞こえてくる。日雀はそのまま進んだ。
そこはあったのは炊事場だった。床には男性と女性が折り重なるように倒れている。この二人は夫婦だろうか。しかし何故このような状態で。
泣き声がこの部屋の中から聞こえてきているのは間違いない。しかし、日雀は部屋の中を見回すが、人が逃げ込めるような場所が見当たらない。
(いったい、何処に…)
再度あの男女が目に入った。
(一体何故このような格好で…。もしかして)
「ちょっとごめんなさい」
日雀がふたりの体を優しく抱き上げ床が見える位置へと移動させると、ふたりの下からは小さな戸が現れた。声はその中から聞こえてきている。
(なるほど、ここを守った、ということですか)
日雀がゆっくりとその戸を開けると、床下には泣きじゃくる女の子が膝を抱えて座っていた。
突然差し込んだ光に女の子は目を大きく見開いて顔を上げた。泣きはらした真っ赤な目。後ろで結わえた長い黒い髪。顔は見るからに憔悴しきっているが、とても愛らしい子だ。
「もう、大丈夫ですよ」
日雀はにっこりと笑い、女の子に手を伸ばした。
(あのふたりは、この子を守ったんだ。この子を床下へと押し込み、ふたりでその上に覆い被さって)
女の子は伸ばした手を震えながら力いっぱい掴んだ。日雀は優しく床下から引き上げ、覆い被さっていたふたりを見せないように強く抱きしめた。
「もう、大丈夫」
再び泣き始めた子が泣き疲れて眠るまで日雀は抱きしめたままだった。