旅立
「じいさま、じゃあ行ってきます」
少年はひとり、小さな鞄を背に15年間じいさまと暮らした寺を出た。
寺は閑散として所々朽ちており、裕福とは程遠い外観だ。平屋でその小さな間取りの寺には参拝になど誰も来ていないのだろう。庭には草が生い茂り、もう随分と手入れをしていないこともわかる。
日差しは目眩がするほどに強く、蝉はここぞとばかりに勢いよく鳴いている。もう随分と雨も降っていない。
何もしなくとも、ただ空を見上げるだけで流れてくる汗は、今が夏であることを一瞬たりとも忘れさせてはくれない。
「日雀!ほんとに出て行くんかよ!」
寺の門を出た少年に向かって幼い小僧が大声で叫んだ。両手を握りしめ、あらん限りの声を張り上げた。その悲しい声を聞いた少年、いや、日雀はゆっくりとその小僧の元に近づき、笑顔で小僧の頭をぐしゃぐしゃに撫でながら言った。
「そうです。今日でお別れです」
小僧は零れそうになる涙を堪えながら頭を撫でる手を振り払った。下を向き、少し震えている。
「寺のじいちゃんのことでみんなが…みんなが…」
「違いますよ、ひよ。ひよのお父さんやお母さん、他のみなさんも全く関係ありません」
「うそだ!みんなが寺のじいちゃんに酷いことをしたから!それで…」
「違います。私はこの村の者であり、また別の場所の者でもあります。私は、この場所で一生を終えるのではなく、じいさまから聞いたここではない他の場所も見てみたい。ただ、それだけです」
日雀がもう一度ひよの頭を撫でると、ひよは大声をあげて泣いた。日雀は空を見上げ目を細める。
じいさまが死んだのはひと月前のことだ。
じいさまも日雀ももともとこの村の者ではなく、日雀がまだ赤子の時に移り住んだのだとという。
素性もはっきりしないこの二人を村の者達は冷たくあしらった。ましてや赤子は人間とは別種族である鷹人との間にできた子であったのだ。辺境の片田舎の者たちが温かく向かい入れるはずがない。日雀は幼い頃から大人たちに疎まれ、他の子たちと接することを禁じられた。
そんな中、山でひとり遭難していたひよを日雀が助けたことがきっかけで、ひよとは密かに友人のように接していた。日雀が、というよりも、ひよのほうが一方的に兄のように慕っていたというのが近いのだが。日中、公然と会うことはもちろんできなかったが、寺の壁越しに話をしたり、夜にこっそり抜け出し、山中で会ったりもした。
ひよは日雀にとってじいさま以外で唯一話をすることができる人間だった。
じいさまは誰も住んでいなかったこの村の寺に住職として赴任してきたが、催事ではなく厄介事を押し付ける時だけ村人に呼ばれた。それはじいさまが死ぬ直前まで続いたが、そのことについてじいさまが何か言うことはなかった。
「見返りを求めてはいけない。執着してはいけない。行動の中に自分の痕跡を残してはいけない」
じいさまはいつもそう言っていた。日雀は言葉に込められた意味を理解できているとはいえなかったが、じいさまがそう言うなら、と、納得していた。
ひと月前のある日、じいさまはひよに呼ばれ、村長の元へ出向いた。
険しい崖を結んでいた橋が、老朽化の影響で落ちてしまったのだ。もともとじいさまは他所で騎士だったという噂を聞きつけた村人が、危ないことには慣れておろうと復旧の作業を押し付けた。じいさまは二つ返事で承諾し、橋へと向かった。
体に縄を括りつけ、じいさまは崖を下っていった。残っていた骨組みを手際よく修復し、新しい橋はどんどん完成へと近づいていった。
これは思いの外早く完成するかと思われたその瞬間、じいさまの体に括りつけておいた縄がぷつり切れた。渡された縄が古く、強度が保てていなかったのだろう。
じいさまは一度崖に体を打ち付けたものの、なんとか片手で岩にしがみついたが、額からは血が流れている。
村人たちはその状況にうろたえ、誰か助けに行けよと言い合いだした。お前のほうが体が軽かろう、お前のほうが歳が若く力があるだろう。ひよはそんな大人たちの姿に絶望した。
じいさまはなんとか這い上がろうと周りを見回したが、辺りは窪みすら無く、自力で登るのは困難だった。
結局じいさまの手が離れてしまうその時まで誰一人助けに行く者はいなかったという。
崖下まで落ちたじいさまを、ひよと村人たちは探しに行った。かなりの高さのある崖下には川が流れており、ひよたちは落下場所周辺から川沿いに探索を行った。しかし、遂にじいさまの体が見つかることはなかった。
ひよからその話を伝え聞いた時、日雀は泣くよりも先に心が定まった。行動する前に考えてはいけない。この村から出る、ただそれだけが心に浮かび、その後、泣いた。
日雀は顔を戻し、ひよの頭から手を離した。誰が悪いわけではない。もちろん、ひよも。
「ではまたね」
笑顔で伝え、村に背を向けたが、ひよ以外の人間が日雀を見送ることはなかった。
ひよは日雀が村を出て、その姿が小さく、遥か遠くの木々と見分けがつかなくなるまで、ずっと手を振り続けていた。