99 反省。
白瀬さんとの話し合いが終わったらすっきりすると思っていた。なのにこんなに気分が重い。
のろのろと職場に戻ると、蒼井さんが仕事をしていた。古森さんと係長も残っている。
「あれ? もう帰ったのかと思ってた。今日は残らないって言ってたよね?」
「急いで出て行ったから、用事があるのかと思ってました。」
古森さんと蒼井さんの声に迎えられて、導かれるように自分の席に向かった。ここがこんなにほっとする場所だとは思わなかった。
「もう用事は済みました……。」
疲れ切って席に座り、そのまま脱力して頭を机に乗せる。
「そうなんですか? 早く終わって良かったですねぇ。」
蒼井さんの明るい声。見るからに元気のない俺の気持ちを引き立てようとしてくれているのだ。その心遣いが嬉しい。
「それにしちゃあ暗いなあ。首尾が思惑と違ったってところかな。あはは。」
古森さんも軽い口調でなぐさめてくれているらしい。二人のやさしさに心の中の壁がぼろりと崩れた。
「まさか泣いちゃうとは思わなかったので……。」
「え?」
「ふえええええええ?!」
蒼井さんがあんまり驚いたので、その姿勢のまま目を開けて隣を見た。彼女は両手を口にあてて、きょろきょろと周囲を見回している。申し訳なくなって体を起こすと、今度は驚愕の表情のまま俺を見つめた。
「なにそれ? 泣いちゃったって、女の子?」
身を乗り出した古森さんが小声で聞いてきた。こちらは興味津々といった様子。もう最悪の部分は言ってしまったので、開き直って「そうです」と答えた。蒼井さんがおろおろと、古森さんと俺を交互にながめる。
「それはその……暴力とかじゃなよね?」
「まさか。違いますよ。」
「じゃあ……、恋愛的な?」
「ええ、まあ。」
「ふえ。」
蒼井さんがまた変な声で反応した。
「ほらほら二人とも。」
田巻係長がやってきて半分笑いながら言った。
「そんな話は蒼井さんには少し刺激が強いみたいだよ。」
「あ、す、すみません。」
確かにこんな話を目の前でされたら困るに決まってる。俺は職場の雰囲気に甘えていようだ。
「宇喜多さんは残業無いんでしょう? 軽く一杯行こうか。」
突然誘われて驚いた。係長はいつもどおりの穏やかな笑顔。でも、もしかしたら店で怒られるのかも。自分は勤務中じゃないとは言え、職場でこんな話……。
「宇喜多さんとはまだ行ったことなかったよねえ? 安い店だけど、僕が出すから。」
「あ、はい、ありがとうございます。あ、いえ、あの、割り勘でも――」
「係長、係長、ねえ、いつもの店?」
古森さんが期待を込めて尋ねている。「いつもの店」ということは、古森さんとはときどき行っているらしい。
「そうだけど、古森さんは仕事があるんでしょう?」
「すぐ終わる。いや、終わらせるから。一時間で。ねえ、蒼ちゃんも行こうよ。」
どうしても参加したいらしい古森さんが蒼井さんにも話を振った。
「大丈夫、蕎麦屋だから食べるものもあるし。天ぷらが美味いんだよ、揚げたてでさあ。がっつり食べたかったら丼もあるし。」
「あはは、そうだね。蒼ちゃんもおいで。たまにはいいでしょう?」
「……そうですか? じゃあ……、古森さんと一緒に行きます。」
ほっとした。これなら怒られるにしても一時間で終わりそうだ。
係長が案内してくれたのは、駅の反対側にある蕎麦屋だった。入ってすぐがテーブル席、厨房の横を通って奥に座敷がある。まだ比較的早い時間帯のせいか、金曜日でも混んではいなかった。
さっきのことで注意を受けると思っていたのだけれど、係長はそれには触れず、夏季休暇の取得についてや若いころの旅行の思い出などをゆるゆると話してくれた。
「新人さんだから取りにくいかも知れないけど、夏季休暇は使い切ってね。必ず取らせなくちゃいけないものなんだよ。課長からも総務課からも、何度も言われてるんだ。」
これが未だに夏季休暇取得ゼロの俺に対する唯一の注意のようなものだった。
古森さんの話のとおり、天ぷらが美味しい店だった。おごると言われてもどういう頼み方をすればよいのかよくわからない俺に気を遣ってか、係長はどんどんお酒を頼み、俺に薦めながら杯を重ねた。
「さっきの話だけど、宇喜多さんが女の子をふったってことでいいのかな?」
そんな質問が出たのは、そろそろ一時間が経つころだった。
「あ、はい、そうです。」
とうとう来たかと居住まいを正した。もしかしたら係長は、この話題を出すタイミングを計っていたのかも知れない。言い出せなくて、この時間になってしまったのかも。
「あの時間ってことは、相手はうちの職員?」
「ええ……、はい。」
よく考えたら、それも褒められたことじゃない。
「それは気まずいね。」
「はい……。」
もしかしたら、ウワサになるかも知れない。あれを見ていた誰かの口から。あるいは白瀬さん本人から……。
(ああ……。)
また気が重くなった。
「ふ。」
笑われた気配がして顔を上げると、確かに田巻係長は半分呆れたように微笑んでいた。
「宇喜多さんは、今は付き合っている女性はいないの?」
「ええ、いません。」
「今までは?」
「あ、いいえ、一度も。」
「あれ、そうなんだ? 告白されたことは?」
「それは何度か。」
「ああ、いつも断っちゃったってことか。で、泣かれたのは初めて? 面倒なことになったことがなかったんだ?」
「……はい。」
「そう。」
肩を落とした俺に、係長が酒を注いでくれた。
「泣かれると後味が悪いよね。」
「はい……。」
そのままふたりとも無言で酒に口を付けた。そのあいだ、あのときの自分の言葉を思い返してみた。
「もしかしたら……、」
「ん?」
「少し……言葉がきつかったかも知れません。」
「そう思うの?」
「ええ。何て言うか、相手が反論できないようなことを言っちゃったので……。」
白瀬さんの学歴についてのプライドを崩したかった。それに成功し、その勢いに乗ってさらに言ったのだ。「一緒にいても楽しくない」と……。
(あそこまで言わなくても良かったかも知れない。)
あんなとどめの一言まで言わなくても、その前に俺の意図は達成されていた気がする。
穏やかに見つめる田巻係長の前にいると、固く絡まりあっていた感情が静かにほどけていく……。
「もともとその人に腹を立てていたんです。なのに、そのことをわかってくれないだけじゃなくて、……友人の悪口みたいなことも言われて。それでますます腹が立って、理詰めで言い負かしたんです。」
「ははは、宇喜多さんは得意そうだねえ、そういうの。」
「ああ、まあ、そう……ですね。」
今まで何度もその方法を使ってきた。勉強でも人間関係でも。理屈でものごとを考えるのは合理的ですっきりするし、仕方ないと納得もできるから。
ただ、理屈だけでは納得できないこともあると、今は知っている。蒼井さんの大学への思いを傍らで見ているとよくわかる。彼女の理屈だけではどうにもならない感情を大切にしてあげたいと思っている。
けれど。
あのとき、俺は白瀬さんの感情を考えていなかった。ただただ蒼井さんを貶めた彼女をやり込めようと思っていた。それに成功し、得意になって言葉を継いだのだ。
「あやまった方が……いいでしょうか?」
「相手の女性に? どうかな。」
係長は穏やかな表情のままだ。
「どうすれば良いかなんて、僕には言えないよ。正しいことって、ただ一つってわけじゃないから。」
「正しいことは一つじゃない……。」
「うん。相手によっても、時期によっても違うと思うよ。遠回りする方法もあるし。」
「そうですね……。」
「ただ、どんな方法を選ぶとしても、その結果を受け入れる覚悟がないとね。」
(覚悟。)
「あやまっても理解してもらえないかも知れない。もっと悪い事態に陥ってしまうかも知れない。そういうことをね。」
そうだ。今回、俺は覚悟をしないまま、勢いだけで最後の一言を口にした。だから白瀬さんの涙を見て動揺してしまったのだ。
「ありがとうございます。心に留めておきます。」
「あはは、そんなに真面目に取らなくても。それほど偉いことは言ってないんだから。」
「あ! いたいた、係長!」
嬉しそうな声と一緒に古森さんが現れた。後ろに蒼井さんもいる。
「大急ぎで終わらせてきたよ〜。」
「すみません、お邪魔します。」
「いいよいいよ、残業お疲れさま。お腹空いたでしょう? 好きなもの頼んで。」
係長が遠慮気味の蒼井さんに笑顔で言った。それを見たら、白瀬さんが職場の先輩たちと上手く行っていないということを思い出した。それはきっと、つまらなくて淋しいことだろう。そんな立場の白瀬さんが、多少なりとも同情を示した俺に頼りたくなった気持ちも今なら想像できる。
(だけど。)
彼女はその方法を誤った。それにやっぱり、蒼井さんの学歴を蔑んだことを俺は許せない。
だとしても。
あれは言い過ぎだった。最後の一言は。
「宇喜多さん、もしかしたらヤケ酒してます?」
「あはは、いいえ、してません。」
(気を付けないと。)
言葉は口に出してしまったら、どんなに否定しても完璧に消すことができないと思う。だから、もっと慎重に扱わなくちゃいけないのだ。調子に乗って、あるいは怒りに任せて何でも口に出していたら、いつかそれが当たり前になって、蒼井さんのことも傷付けてしまうかも知れない。こんなに大事に思っている蒼井さんのことも。
(あ、そうか。)
今回のことでは、すでに蒼井さんに嫌な思いをさせている。俺が白瀬さんの気持ちに気付かなかったために、彼女が蒼井さんに失礼な態度で接したのだから。さっきも驚かせてしまったし。
(俺って全然ダメだなあ……。)
仕事だけじゃなく、人間的にも未熟だし、他人の感情にも鈍感だ。
こんな俺は、いつになったら蒼井さんにふさわしい人間になれるんだろう?




