94 ◇ なんだか嫌だな… ◇
スクーリングが終わり、翌週から仕事に戻った。
出勤の電車でネクタイ姿の宇喜多さんに会ったとき、久しぶりのような気がして、少し恥ずかしくなってしまった。土曜日には会ったし、その前も毎日、電話で話していたのに。
職場の先輩たちは、みんな笑顔で迎えてくれた。仕事は溜まっているものの、一週間まるごと休んで勉強だけに取り組んだので、すっきりと新たな気持ちで仕事に向き合うことができた。これは意外な発見だった。
花火を見に行った土曜日以来、結婚についての宗屋さんの話を思い出しては考えている。家族が反対しても、本人が幸せになれるのなら結婚した方が良いのか。
そういう結婚をしているひともたくさんいるというのはわかる。宗屋さんのご両親はそうだったし、「駆け落ち」なんていう言葉だってある。小説やドラマにも描かれていたりする。
わたしはどうだろう?
相手にとって、家族の反対を押し切って結婚する価値が、わたしにあるのだろうか。わたしと結婚して幸せになれるだろうか。
わたしは自分よりも、相手に幸せでいてほしい。そのひとがいつまでもわたしを好きでいてくれて、一緒にいることを幸せだと思ってくれたらいいなと思う。でも、わたしのせいでそのひとが自分の家族と上手く行かなくなってしまったら?
……いくら考えてもよく分からない。
わたしだって、好きなひとと結婚できたら嬉しい。
だけど……。
わたしなんかが幸せになりたいと思っても良いのかな……。
水曜日の帰りは宗屋さんと一緒になった。おしゃべりしながら階段を下りて行くと、三階で白瀬さんに会った。ちょうど帰るところだったらしい。こんなに暑い日でもショートカットと小さな顔は涼し気で、ほっそりした体にパンツスタイルがとても決まっている。
白瀬さんと顔を合わせたのはまだ二度目だけど、宗屋さんの同期だ。話したいことがあるだろうと思い、宗屋さんの隣を白瀬さんに譲り、わたしは後ろに下がった。
最初は普通にお天気の話などをしていた。それから白瀬さんが「今日は宇喜多さんは一緒じゃないの?」と尋ね、なんとなく宇喜多さんの話題に移った。真面目すぎる宇喜多さんの面白い勘違いを、宗屋さんが楽しく披露する。白瀬さんも楽しそうで、今日はわたしの話はしなくて済みそうでほっとした。
「宇喜多さんって本当に真面目だよね。」
白瀬さんが言った。整った顔にさわやかな笑顔を浮かべて。
「あたしの悩みにもね、すごく親身になって相談に乗ってくれたの。」
「あ、そうなんですか。」
わざわざ振り向いて言われたから、なんとなく返事をした。でも、相談って……。
「一緒に考えてくれて、真剣にアドバイスまでくれてね。」
「良かったですね。」
「うん。すごくやさしいんだよね。」
「そうですね。」
笑顔いっぱいの白瀬さんにあいづちをうつくらいのことしかできない。それにしても、いつの間に宇喜多さんとそんなに仲良くなったんだろう。じっくり相談に乗るからには、それなりに時間がかかったと思うけど……。
白瀬さんが今度はわたしに並んだ。宗屋さんはそのまま前を歩いて行く。
「宇喜多さんにもらったアドバイスで気持ちが前向きになってね、本当に助かったの。」
「良かったですね。」
「うん。実は外見も褒めてくれたの。宇喜多さんの好みに合ったのかなあ?」
宇喜多さんが褒めたんだ……。
「ええ、白瀬さんはきれいですよ。わたしも最初からそう思ってました。」
「わあ、そう? ありがとう。でね、宇喜多さんに何かお礼をしようと思ってるんだ。」
「そうなんですか。」
また居心地の悪さを感じる。苦手意識のせい?
赤信号で立ち止まった宗屋さんが振り向いたので、助けを求めるような気分で隣に並ぶ。
「宇喜多さんのお誕生日が来月でしょう? だからバースデープレゼントも兼ねて、何かって思ってるの。」
(お誕生日?!)
驚きを隠し切れなかった。
「あれ? 知らなかった? あたしには教えてくれたけど。」
「あ……、いえ、わたしは知らないです。」
「ふうん、そうなんだ?」
お腹のあたりがむずむずする。なんだか嫌な感じに。
思ったことはあったけど訊けなかった。図々しいと思ったから。でも、白瀬さんには教えたんだ。
「でも、教えられないな。個人情報だものね?」
「え、ええ、もちろんです。べつにわたしは……そんなつもりは。」
笑顔でいなくちゃ。ただの世間話なんだから。それに、わたしだってお礼の予定がある。月末にお弁当を作るんだから。
「宇喜多さん、蒼井さんのこと、未成年だから気に掛けてあげてるって言ってたよ。」
信号が変わり、歩き出しながら白瀬さんが言った。
「ああ……、ええ、そうなんです。」
(もちろん分かってる。わたしが未成年だから。)
そして家が近いから。高校の後輩だから。
「親切なだけじゃなくて、責任感も強いのよね。」
「ええ――」
「責任感だけじゃねえよ。」
(宗屋さん。)
思わず見上げると、宗屋さんは笑っていなかった。
「姫はあいつにとって大事な存在なんだ。責任感なんて言葉だけじゃ言い表せないんだよ。」
予想外に強い口調。わたしのために言ってくれたの? だけど……。
(大事な存在?)
本当にそうだろうか。本当に?
「どっちにしても、」
白瀬さんの声で我に返った。駅の階段を注意深く上る。
「親切な人が近くにいて良かったよね。最近、純粋に親切心で何かしてくれるひとってなかなかいないでしょう?」
「はい。有り難いと思ってます。」
(そんなに何度も親切親切って言わなくても、ちゃんとわかってるのに。)
理由を付けて離れてしまおうかと思った。けれど、決心がつかないまま仕方なく一緒に改札口を抜ける。宗屋さんは反対方向だから、ここからは二人だけで横崎駅まで一緒に行かなくちゃならない。気が重い中、ほとんど待たずに電車が来たことだけは幸運だった。
「友だちがね、この前、失恋したっていうから、集まって慰める会をしたの。」
女性二人になった気安さなのか親し気に身を寄せられて、思わず身構えてしまった。やっぱり白瀬さんは苦手だ。笑顔でもなんとなく怖い。
「でもね、その子、失恋したってしょうがないんだ。だって、相手はT大出の外務省勤務だったんだもの。ランクが違い過ぎるでしょう?」
「え、と、ランクって……?」
「ほら、学歴とか生活レベルとか。その子、英語はしっかりできるけど、単なる専門学校出だもの、やっぱりT大卒に合わせるのは無理よね。」
「ああ、そう…ですよね……。」
(学歴か……。)
またこういう話だ。わざとなのかな? それにしても、お友だちのことも「単なる専門学校出」なんて言うんだ……。
「白瀬さんはちゃんと大学出ているから安心ですよね?」
少し皮肉っぽくなっちゃったかも。
「そんなこと無いよ。大卒って言ったって、大学のランクがあるし。」
「あ、そうなんですか……。」
「あたしのC大なんて下の方だもの、自信持てないよ。」
「そんなこと……。」
白瀬さん、C大なんだ。そこだって偏差値高いのに。だったら、高卒のわたしは……。
「やっぱり一流大学の人とは知識の質とか幅が違うのよね。話について行けないこともあるし、考え方自体が違うこともあって。きっと相手はつまらないだろうなーと思うと、申し訳ない気分になっちゃって。」
「そうですか……。」
「学歴が違うと価値観も違ったりするしね。こっちも無理をしてたら長続きしないじゃない? だからやっぱり、学歴は釣り合う相手じゃないとって思ったわ。」
「ああ、そうですね……。」
もうこれ以上は嫌だ、と思った。そこで懸命な思いで話題を最近の注目スイーツに移し、横崎駅までの残りの時間を乗り切った。
でも、乗り換え通路で思い出すのは白瀬さんの言葉ばかり。
(価値観か……。)
もしかしたら、結婚で一番大事なのはそれかも知れない。何をどう見るか、何を重要とするか。それがすれ違っていたら、一緒に暮らすのはとても大変だ。
そして、白瀬さんは価値観は学歴によって違うと言ったけれど。
(育った家庭の影響の方が大きいんじゃないかな……。)
だとしたら、わたしの価値観は貧しい家庭の価値観だ。就職した今だって生活には余裕が無いし。きっと、裕福な、いえ、一般家庭の価値観とは違ってる。
(そうだよね……。)
もしもわたしが結婚するとしたら、相手は高卒で貧しい家庭で育ったひと……ってこと? まあ、それなら確かに釣り合うし……。
もちろん、そのひとが尊敬できて大好きなら構わない。お金のことよりもそこが重要だ。だけど……。
尊敬できて大好きでも、あきらめなくちゃならない相手もいる。
(まあ、でも!)
宇喜多さんのことはそもそも希望を持っても仕方がないってわかっているから。
葵先輩のことを想い続けているし、わたしのことは子どもだと思っている。だからわたしは今までどおり、宇喜多さんとは仲良しでいられればいい。結婚の心配をする必要など無い。
(白瀬さん、大丈夫かなあ。)
あの様子だと、宇喜多さんのこと、かなり気に入ってるんだね。お誕生日にプレゼントあげるつもりだなんて。葵先輩のことは知らないからなあ。
(お誕生日か……。)
わたしも何かしてあげたい。でも、なんだか今さら訊きにくいし、言いたくないって断られたらショックだし。
(でも……。)
白瀬さんには教えたんだね……。
じっくり相談に乗ったってことは、宇喜多さんも白瀬さんを気に入ってるのかな? 葵先輩のことは気持ちの整理がついたのかな? だから白瀬さんってこと?
(確かに白瀬さんはきれいだけど……。)
葵先輩とは全然違うのにな。
もしも、宇喜多さんが白瀬さんとお付き合いするなんてことになったら……。
宇喜多さんの女性を見る目に幻滅しちゃうかも。




