09 朝のひととき
多少混乱しながらも、日々たくさんのことを学んでいる。
蒼井さんと組んでいる決算担当という仕事は、言ってみれば、納められた税金の管理だ。
納められた税金は、日ごとに電算処理で収納される。その管理と確定処理が業務の中心になる。毎日配信されるエラーデータの調査と修正、その他。
一日一日のデータの積み重ねが月ごとの決算につながり、最終的に年度末の決算につながる。これが葉空市全体の歳入予算にもつながるのだから、どんなに小さな金額も見逃せない。もちろん、納められたお金は払った人に課されたものだから、きちんとその人が払った分としての管理もされている。
今まで、頭では税金が市や国の収入源だということはわかっていた。でも、ここでその流れの一端に自分がかかわることになり、それがイメージから現実に変わった。
個人のお金が公のお金になる。それがやがて、教育や福祉、道路などの住環境として個人に還元される。小さくてもその一部を担っているのだと思うと、やる気と責任感がわいてくる。
……と語ったら、原さんに「真面目なのはいいけど、あんまりプレッシャーにならないようにね」と心配された。俺はそんなにメンタルが弱いつもりではないけれど。
仕事以外のこともだんだん様子がわかってきた。
向かい側に座っているのは古森さんと高品さんと東堂さん。原さんの前の東堂さんはきりりとした主任の女性で、静かな声で話すキャリアウーマン風。でも、ときどきぽろっと面白いことを言う。高品さんは一月に育休明けで復帰したというパワフルな女性。一歳の息子さんの面白い話をよくしてくれる。蒼井さんの前の古森さんはのんびりした雰囲気の男性。小学校と幼稚園のお子さんがいて、高品さんと話が合うようだ。
朝は四人で掃除や始業の準備をやっている。俺と宗屋の新人二人、それに蒼井さんと課税係の前下さん。
前下さんは上品な雰囲気の男性職員。俺よりも二歳年上だ。すらりとした体型とやわらかい笑顔と話し方で、同期の女子には前下さんのファンがいる。俺たちにも気安く話しかけてくれる親切なひとだ。窓口でお客様と話している様子も、とても感じが良い。
朝の掃除は、今まで前下さんと蒼井さんの二人でやっていたらしい。それでなのか、蒼井さんには特に親しげに話しかけている。
でも、俺の見たところ、蒼井さんは前下さんのことが苦手なようだ。話しかけられても、なんとなく態度が硬い。だとしたら、俺と宗屋が加わったことは、彼女にとっては良いことに違いない。そんな些細なことでも彼女への恩返しになる気がして嬉しい。
宗屋は見るからに体育会系で威圧感がある男だ。スポーツ刈りに太い眉、そしてドスの効いた低い声で話す。そんな外見だけど、気さくで話し好きだ。フェミニストでもあるらしい。しょっちゅう蒼井さんに「そんなこと俺がやりますから!」と言っては遠慮されている。
この朝のひとときが俺は気に入っている。この時間のおかげで、毎朝の出勤が全然苦にならない。
来客に気兼ねすることなく笑うことができる。仕事以外の話もできる。短い時間だけれど、日々緊張の俺には大きな意味のあるリラックスタイムだ。会話を重ねるうちに連帯感も生まれてきたように思う。
とは言っても、蒼井さんは俺たちに対しても礼儀正しさを失わない。親しげにしていても、やっぱりきちんとしている。そういう点はさすがだと思う。けれど同時に、後輩の俺たちに気を遣ってくれることに恐縮もしてしまう。
そんなことを思いながら、配属から十日ほどたった。
その朝は前下さんがおらず、俺たち三人にはいつもより親密な空気が流れていた。一通りの作業が終わったところで、ふと思いついたように宗屋が蒼井さんと俺の顔を見比べながら言った。
「そう言えば蒼井さんて、宇喜多と同じ高校出身なんですって?」
朝の給湯室前の廊下は、俺たちの定位置になりつつある。
「あ、そうです。県立九重高校。学校では重なっていないんですけど。」
いつもの無邪気な笑顔で蒼井さんが答えた。
「重なってなくても、そういうのって、なんかいいっすね。」
「はい。」
蒼井さんの笑顔を見ながら俺も思わず微笑んだ。彼女が俺との共通点を喜んでくれていることが、ありがたくてほっとする。それに混じって、温かくてやわらかい気持ちが湧いてくる。
「よし、決めた。」
宗屋が俺にニヤッと笑う。
「これから宇喜多のことは『先輩』って呼ぶぞ。」
「なんだよ、それ?」
「あだ名だよ、宇喜多の。」
当然のように返してくる宗屋。
「俺は宗屋の先輩なわけじゃないよ。」
「いいんだよ、あだ名なんだから。蒼井さんもそう呼びましょうよ?」
「わたしは……『宇喜多さん』で良さそうです。仕事中に呼んじゃったら困るし。」
蒼井さんは半分笑って答えた。
「そうですか? じゃあ、俺だけ。おい、先輩。」
そう言って、宗屋が俺の肩に手をかける。
「なんだよ、それ。全然、先輩に話しかける態度じゃないだろ。」
「いいじゃないか、同期なんだから。」
「だったら名前で呼べよ。」
「いいんだよ、面白いから。」
のらりくらりと話を交わす宗屋に呆れてしまう。そんな俺たちのやりとりを、蒼井さんは笑顔で見ている。
「で、蒼井さんは……」
宗屋はターゲットを変えたらしい。じっと見られた蒼井さんは目をぱちくりして、「わたしはいいです」と慌てた。けれど。
「『姫』にしましょう。」
「え?」
「いやあ、なんか、いかにも『姫』って感じですよねー。」
唐突なネーミングに蒼井さんと俺が言葉を失う。
「日本と西洋と、どっちがいいですか?」
俺たちの反応を無視して、宗屋が蒼井さんに尋ねる。
「え、え、あ、じゃあ……日本で。」
戸惑いながら蒼井さんが答えた。
「日本ね」と、宗屋はちょっと考えた。そして。
「蒼井さんは貴族のお姫様で、俺は蒼井さんの乳母の息子。つまり、俺と蒼井さんは乳兄妹。」
「は、はあ。」
どうやら平安時代を舞台にしているらしい。突然現れた宗屋の世界に入り込めないまま、蒼井さんがあやふやにうなずく。
「で、宇喜多、じゃなくて先輩が門番。」
「門番……?」
俺の顔をちらっと見た宗屋が小さく「フッ」と笑った。どうでもいい設定なのに、思わず不満が顔に出てしまったらしい。不機嫌な気持ちは表わさない習慣だった俺が。いや、それよりも、わざわざ名前を言い直したことに何か言うべきなのか……?
気付いたら、蒼井さんと一緒に首をかしげていた。
「しょうがないな。門番じゃ役不足だって言うなら幼馴染みにしてやるよ。父親の親友の息子な。姫と同じくらいの身分なんだから有り難く思えよ。」
「うん……、ああ……。」
(だから何なんだろう?)
宗屋のごっこ遊びに付き合って、俺も蒼井さんを「姫」と呼べということなのか。
「いいですか、姫。」
おかしな成り行きに困惑している蒼井さんに、宗屋が真剣な表情を向ける。
「困ったことがあったら何でも言ってくださいよ? 俺とこいつはいつでも姫の役に立ちますからね?」
「あ、はい。ありがとうございます……。」
(もしかしたら。)
姫なのに、俺たちに深々と頭を下げて礼を言う蒼井さんを見ながら思った。宗屋のこれは、ただのごっこ遊びではないかも知れないと。
宗屋もたぶん、蒼井さんが前下さんを苦手に思っていることに気付いていたのだ。だから前下さんがいない今日、こんな話を持ち出したに違いない。
――でも、それだけではなかったようだ。
「あの子はもっとふざけてもいいんだよ。」
昼食で外出したときに宗屋がじれったそうに言った。
「真面目すぎるよ。俺たちにも気を遣い過ぎだ。」
頑張っている年下の女の子をいたわってあげたいと思っていたらしい。
(言われてみると、そうかも……。)
確かに大学の1、2年生よりもずっとしっかりしている。仕事に対しては、すでにプロ意識とでもいうものを身に付けているし、同僚への気の遣い方もわきまえている。そういうところは、一年先輩なのだから当然だと思っていた。そして俺は彼女の仕事ぶりを手本にしている。でも。
(まだ十九歳なんだもんなあ……。)
宗屋の「あの子」という言葉がまだ違和感なくあてはまる蒼井さん。無邪気な笑顔は見せるけれど、言葉遣いも態度も、誰にでも礼儀正しい。今は仕事が忙しいせいもあるけれど、遊んでいる様子も無い。
(そうか。)
ふとしたときに表れる子どもっぽい雰囲気。それを見るとふわりと心が和む。俺に対してはいつもそういう態度で接してくれていいのに、と思う。宗屋の言うのはそれと同じことだろう。
(そうなるといいなあ。)
高校のつながりと宗屋のごっこ遊びが彼女の気持ちをほぐしてあげられたら嬉しい。
「そういうことに気が付かないお前も真面目すぎるんだよ。」
隣でカツ丼を食べながら宗屋がため息をつく。
そう言われると面目ない気がする。でも、俺は仕事を覚えるので精一杯だったし……。
(ん?)
「蒼井さんのことを気遣うなんて、宗屋は余裕なのか、仕事?」
「まさか! そんなはず無いだろ!?」
大きく否定された。
「余裕が無いからこそ、あの子がオアシスなんじゃないか。あ〜、姫、かわいいよ〜。」
「そ、そうか。」
まあ、宗屋は危険そうには見えないから大丈夫かも知れないけど……。
(ちょっと様子を見ておいた方がいいかな。)
彼女は後輩だし、仕事のパートナーでもあるのだから。