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俺が真面目だとみんなは言うけれど  作者: 虹色
第六章 失敗からも学びます。
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84 苦しい気持ちを


(はなしたくないよ。)


逆にもっと力を込めたい。もっと強く。もっとギュッと。


きっと幸せな気分になれる。こんなに苦しい気分じゃなくて。あの朝の散歩のときみたいに。いや、それよりももっと。


(だけど……ダメだ。)


どさくさに紛れてそんなことをしたら俺の信用が。蒼井さんが俺に寄せてくれている信頼を裏切ることになる。あんなに簡単に玄関に入れてくれたのに。


(でも。だから。)


せめてもう少し長く。怪しまれない程度に。もう少しだけ。


(ああ……。)


さっきまでは平気だったのに。


想像はしたけれど、我慢して帰れると思った。なのに今は、まるでスイッチが入ったみたいにどうしようもない。


(だって好きなんだ。ものすごく。)


好きで、好きで、好きで……、ずっとこうしていたい。もっと力いっぱい抱きしめたい。


けれど、はなさないと疑われてしまう。力を込めたら俺の気持ちが。


葛藤で胸が苦しい。


(――俺のこと、どう思ってる?)


知りたい。だって。


蒼井さんが同じ気持ちなら。


このままでもいいんだよね? もっと先へでも?


(知りたい。)


訊いてしまおうか。気持ちを。俺の気持ちを伝えて。


(そうだ。そうすれば。)


もっと先に進める。幸せになれる。


(蒼井さん。)


このままじゃ足りない。


もっと強く抱きしめたい。


もっと一緒にいたい。


もっと。


だから。


(そうだよ。)


伝えれば。そうすれば。


(そうすればいいんだ。)


簡単なことだ。


思っていることを言うだけ。


そうだ。今。


「あお」


(あ。)


「い、さん。」


一瞬の迷いでわずかに力が抜けた。その腕の中で、彼女は俺の胸元に手をかけてバランスを取り直し、そっと身を離した。


「す、すみませんでした。」


あやまる彼女から俺の腕はあっけなくはずれてしまう。


「わたし、本当にあわてん坊でダメですね? 毎日使ってる玄関なのにつまずくなんて。」


向けられる笑顔と明るい口調。


「あ……」

「宇喜多さんもびっくりしましたよね? ごめんなさい。あの、支えてくれて、ありがとうございました。あ、それと、さっき間違えて手を握ってしまったことも、すみませんでした。」


よどみなく流れる言葉。まるで俺の思考を中断させようとしているみたいに。


「あ……いや、大丈夫だった?」


そして、その勢いに流されてしまう俺は……意気地なしだ。


「はい。」


無邪気に見上げる瞳。それは俺を何とも思っていないから? それとも俺に勘違いさせないため? 今のはただの<事故>に過ぎないと……。


「そう。転ばなくて良かった。」

「はい。驚かせてしまってすみませんでした。あの、暑いですよね? 今、冷房を強くして来ますから。」

「あ、いや……。」


靴を脱いで上がった彼女を思わず引き留めた。これ以上離れてしまったら、心の距離も離れてしまう気がして。


「あの……」


さっきの名残を空しく求めてしまう。けれど、振り返った彼女の瞳は、ただ素直に続きの言葉を待っているようにしか見えない。


「俺……これで帰るから。」


もう引き延ばせない。帰らなくちゃ。蒼井さんも疲れているし。


(……なんて、こんなの言い訳だ。)


「ゆっくり休んで、明日もちゃんと働かなくちゃね。」

「はい。」


(引き留めてくれないんだ……。)


自分で「帰る」って言ったのに。こんなこと考えるなんて、自分勝手だな、俺は。


結局、盛り上がっていたのは俺だけだったのだ。蒼井さんは何とも……。


「じゃあ……、おやすみ。」

「はい。おやすみなさい。ありがとうございました。」


さびしさを隠して部屋から出た。ドアから顔を出して見送ってくれている蒼井さんに笑顔で手を振る。道路に出たところで、今度は窓から手を振っている蒼井さんに合図して。


くるりと振り返って自宅への道が目に入ったら……、胸と腕がスカスカして、とてもさびしい気分になった。


(あそこで葵のことを思い出さなければなあ……。)


好きだと告げようとした瞬間。蒼井さんの名を呼びながら、葵に想いを打ち明けたときのことがよみがえった。突然の告白に驚いて、部活に出て来られなくなった葵のことを。それで一瞬、迷ってしまった。


(名前が似てるからかなあ……。)


普段はまったく平気なのに。蒼井さんと葵が混乱することなど一度も無かった。


(花火のせいかも。)


前回の花火は葵や相河たちと一緒だった。あのときは葵のことが好きで。それであの瞬間に思い出してしまったのだろうか。


(確かに関係としては似てるからな……。)


俺を信じてくれているということが。


(蒼井さん……。)


一緒にいることを楽しいと言ってくれた。お互いに遠慮しないことを約束した。そんな蒼井さんに俺の本当の気持ちを伝えたら……どうなるのか。


(怖い。)


断られることがじゃない。彼女を傷付けることが。


楽しそうに仕事にもテニスにも取り組んでいる彼女を悩ませて、我慢させるようなことになったらと思うと。彼女はつらいことを乗り越えて、やっと今を楽しんでいるのに。


俺のことで悩ませたり悲しませたりするのは嫌だ。彼女にはいつでも喜びと幸せだけを味わわせてあげたい。……とは言うものの。


「はぁ……。」


今日はことごとく自分でチャンスを潰している気がする。


(そう言えば疲れたな……。)


なんとなく空を見上げてみる。街灯やコンビニの明るさで、ここでは空は真っ黒に見えるだけ。


(今日はいろんなことがあったから……。)


昼間の詐欺電話に始まって、車で二度の外出、そして花火大会。いつもと違うことの連続だった。特に仕事で地域を巡回するのは初めての経験だったし、慣れないスピーカーで失敗もして、かなりの緊張感だった。


(でも……。)


いろいろなことを学んだ日でもある。市役所の職員としてやっていくために役立つことを。


(そうだ。それに。)


蒼井さんが認めてくれたんだった。


「尊敬します」って言ってくれた。にっこり笑って「本当ですよ」って。


(ああ……そうだった。)


あのときは驚いた。そして嬉しさがこみあげてきて。今も……。


(あ……。)


腕と胸に蒼井さんの記憶が戻ってきた。


やわらかさ。体温。息づかい。


(蒼井さん。)


思い出すとせつなくなる。どうして今、一緒にいられないのだろう。


(いつか。)


蒼井さんの腕を俺の背中に感じることはあるのだろうか。俺の気持ちに応えて。いつまでも一緒にいたいと思ってくれる日は来るのだろうか……。




彼女と俺のこれからを考えながら家に着くと、蒼井さんからメールが届いていた。いつもはこんなことは無いのに、と、期待と同時に警戒と少しばかりの恐れが湧いてくる。自分が何か失敗したのではないか、俺の気持ちに気付かれてしまったのではないか、と。


けれど、そうではなかった。


送ったことへのお礼のあとに、もう一つのお礼がつづられていた。


---- * ----- * ----- * ----- * ----- * -----


お守りの石も、ありがとうございます。遠慮をしないお約束をしたので、本当に遠慮なくいただきます。

宇喜多さんが大事にしていたものをいただけるなんて、とても嬉しいです。わたしにとってもお守りです。クラス会もこれで乗り越えられそうな気がします。


あわてていたので、きちんとお礼を言うのを忘れてしまいました。すみません。

ありがとうございました。大事にします。


何かお返しを……と思うのですが、宇喜多さんの気持ちに見合うようなものを思い付きません。

とりあえずは月末のお出かけのお弁当をしっかり頑張ります。何かメニューにリクエストがありましたら、ご遠慮なく言ってくださいね!(でも、それは前の分のお返しです。今日の分はまたその次です。)


では、おやすみなさい。また明日。


蒼井春希


---- * ----- * ----- * ----- * ----- * -----


(そうか。あの石。)


すっかり忘れていた。たぶん、あのときに落としたままだったんだ。それを彼女はちゃんと見つけてくれた。


(ああ……。)


ほっとして、温かい気持ちになった。


同時に希望がわいてきた。蒼井さんの気持ちはこちら側にある、と。まだ「好き」には至っていなくとも。


本棚の隅に置いてある双子の石の片割れをそっと手に取った。蒼井さんも今、これを見ているかも知れない。


(これで気持ちが伝わればいいのに。)


そんな機能が備わっていたら、俺は一日中、これを握りしめているかも知れない。そうじゃなくても、もともと一つだったものを彼女と分け合っているのだと思うと、ながめているだけで嬉しい。


(また明日ね。)


そっと石に語りかけてみた。


(これからも仕事、頑張るよ。)


蒼井さんからの尊敬を大事にしよう。そして、信頼をこわさないようにしよう。彼女の愛情はその先にあるという気がするから。


無理をする必要は無い。今、彼女と俺の間に立ちふさがるものは無いのだから。これからも少しずつ、二人の時間と気持ちを積み重ねて行けばいい。


(そうすればいつか……。)


彼女を心ゆくまでこの腕に抱き締めることができる日がきっと来る。







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