76 区役所の職員として
「そう言えば、今日は花火の日ですね。」
「うん、そうだよ。うちのマンションの窓から見えるんだよ、小さく。」
八月に入ったある日、蒼井さんがふと漏らした言葉に向かいの高品さんが笑顔で答えた。
「うわあ、いいですねえ。美衣ちゃんも喜びますね。」
「まあ、臨場感っていう点ではイマイチだけど、子どもが小さいうちは十分かな。」
「どこかで大きい花火大会があるんですか?」
高品さんの住まいは横崎駅の一つ手前だ。そこから見える花火大会があるなんて、ちっとも知らなかった。
「そうだよ。宇喜多さん、知らないの? 葉空市で育ったんでしょ?」
高品さんに突っ込まれた。
「毎年この時期にあるじゃない。葉空港の海上花火大会。」
(葉空港の海上花火……。)
確かに葉空市には海沿いに港を中心とした観光地がある。ショッピングモールや娯楽施設、海沿いの公園――。
「ああ! 行ったことがあります。」
「でしょ?」
「そう言えば、八月の最初だったかも。」
思い出した。高校生の夏休みにバレー部の仲間と行ったのだ。あのときは葵と吉原さんが浴衣を着ていて……。
「すぐ近くで見たんですか?」
隣から蒼井さんの声がした。
「ええ。首が痛くなるくらい真上で。音がお腹に響いてすごかったですよ。」
「わあ、いいなあ。」
「でも、身動きできないくらい混んでました。」
「そうそう! 目的地に行き着く前に花火が始まったりしてね。」
「ふうん……。」
(そうか……。)
この様子だと、彼女は行ったことがないみたいだ。だとしたら、誘ったら喜んでオーケーしてくれるかも知れない。
(そして……。)
あの人混み。
寄り添うのも自然だし、迷子防止で手をつなぐのも――。
(うわ。ドキドキする。)
そして、花火を見上げながら肩を抱くのも自然な成り行きではないだろうか。いや、肩じゃなくてこの場合は腰だろうか?
(なんて、考えていてもなあ……。)
ふと空しい気分になった。
実は、海の旅行から戻ってから、蒼井さんに触れることばかり考えている。二日目の朝の散歩で冗談に紛らせて抱き締めたときの高揚感が忘れられなくて。
あんなふうにすれば、蒼井さんに警戒心を抱かせること無く触れられるのだ。そう思うと、頭の中でいろいろなバリエーションを考えてしまう。何かに集中していない時間はほぼそれに費やされていると言ってもいいほどに。
こんな状態を誰かが知ったら、俺は「真面目」のイメージを返上できる気がする。その代わり……、もう蒼井さんは近付いて来ないだろう。
とは言っても、実行には至っていないわけで。
想像することと実行することには大きな隔たりがある。通勤時間や土曜日のテニスの行き帰りなど、チャンスは少なくないのに。きのうも――。
プルル――
「はい、かもめ区役所税務課、宇喜多です。」
受話器を取ればあっという間に仕事モードだ。呼び出し音に反応する速さは今では蒼井さんに匹敵すると自負している。聞こえてきたのは年配の男性の声。
『還付金の振り込みのことで……ええと、さっき電話をもらったサトウだけど。』
「それでは還付の担当者に替わります。少々お待ちください。」
電話を保留にして蒼井さんに声を掛ける。すると、彼女は受話器を受け取りながら、「今日は電話は掛けてないんだけどな……」と首をかしげた。
「お待たせいたしました。還付担当、蒼井です。」
疑問を口にしながらも蒼井さんは自然に笑顔になって電話に出た。彼女にとっては電話でも窓口でも、市民応対は同じものなのだ。
「え? ええ、わたくしだけですが。」
戸惑う口調に気付いて、ふと注意を向ける。
「銀行名を? ……はい。あの、下のお名前も教えていただけますか? ……サトウトシカズ様ですね? 二つ峰町……はい、確認いたしますのでお待ちくださいませ。」
電話を保留にした蒼井さんが俺の左側にある税務端末にやって来る。真剣な顔で検索画面に名前を打ち込みながら状況を教えてくれた。
「男の職員からの電話だったって言うんです。どこの銀行に口座を持っているか訊かれたって。」
「変ですね。」
「ですよね? ……あ。」
「非課税だね。」
反対側から画面をのぞいていた原さんが言った。非課税――つまり、税金がかかっていない。ということは、還付する税金は無い。
「前年度……も非課税。固定資産税は……該当なし。やっぱり変だ。」
画面に目を向けたまま、今度は目の前の電話で対応を始めた。
「お待たせいたしました。サトウトシカズ様で間違いありませんね? こちらからは税金の還付のお電話はしていないようですが、税務署ではなかったでしょうか。」
少し控えめな口調、でもはっきりと。それでも相手は納得しないらしい。
いくつかやり取りを繰り返していくあいだに、彼女が緊張してきたことがわかった。相手が怒っているのだろうか?
「ええ。……ええ、違います。ほかに還付金だと、そうですね、健康保険の担当とか……違いますか。……ええ、そうですか。何て名乗ってましたか? ……ああ、かもめ区役所と……、ええ、税金……そうですか。」
うなずいた蒼井さんが真剣な表情で唇を噛んだ。それからゆっくりと、はっきりと、話し始めた。
「区役所では、銀行のATM…機械を、操作するように、お願いすることはありません。その機械では、お金を受け取ることは、できないんです。」
一語ずつ区切って説明する言葉にハッとした。
(もしかして……?)
相変わらず蒼井さんは真剣な表情だ。
「ええ。……そうです。まだ行かれてないんですね? 良かったです。……はい、それはできません。そういう方法で税金をお返しすることはありません。基本的にお手紙でご連絡をしますので。……ええ。こちらにお電話をしていただいて良かったです。」
さらにいくつかやり取りが続き、最後に蒼井さんは「念のために警察に連絡してみてください」と伝えて電話を切った。そのまま受話器に手を乗せて空をにらんでいる。
「あの……。」
ドキドキする。もしかしたら犯罪のすぐそばにいたのでは……。
「たぶん、還付金詐欺です。区役所を名乗って電話がかかってきたそうです。」
蒼井さんがそう言ってまた唇を噛む。予想はついていたものの、間違いのない言葉を聞いたらさすがにショックだった。
「どの辺?」
高品さんの声。いつの間にか、みんな手を止めて蒼井さんを見ている。
「二ツ峰町の方でした。」
「じゃあ、その辺が危ないのかな。係長に言っておいた方がいいね。」
「はい、そうします。」
小走りで係長席に向かう蒼井さんの背中をぼんやりと見送る。唐突に現れた犯罪の影に戸惑いと嫌悪感が湧いてくる。
「何を見て電話をかけてると思う?」
東堂さんが尋ねた。
「自治会の名簿か……、卒業アルバムかな。そういうリストも出回ってるって聞いたことはあるけど。」
「自治会の名簿だと、その地区に集中してかかってる可能性があるよね。」
高品さんと原さんが考えながら答えている。詐欺の犯人がそういうものを利用しているというのは初めて聞いた。確かに名簿がある方が作業が効率的だ。
「あの――」
助けを求めるような気持ちで声をかけると三人がこちらを向いた。
「あの、よくあるんですか、こういうこと。」
「あたしは実際には初めてだけど……。」
「俺も。」
「うちは母親の友だちが被害に遭いそうになったって。」
「そうなんですか……。」
特殊詐欺と言われる犯罪はニュースとしてなら知っていた。けれど、今、まさに被害に遭いかけていた人と接触したのだ。
(今も……?)
誰かが電話で騙されようとしているのかも知れない。かもめ区役所の職員を名乗る犯罪者によって。
「何か手を打てないんでしょうか。」
思わず立ち上がっていた。
「え?」
みんなが俺を見上げている。
「だって、犯人がうちの職員をかたっているんですよ? それなのに何もしないのはなんだか……。」
「わかるけど……。」
「もし自治会の名簿が使われているなら、その一帯に気を付けるようにって連絡ができれば。」
「それはそうだけど……。」
「たぶん、自治会長の電話番号はわかるかも知れないけど。」
「でも、そこからどうする? 自治会の中に緊急連絡網なんて無いだろうし、回覧板じゃ間に合わないし、全部の家をまわるっていうのも……。」
「無理ですね……。」
そこに蒼井さんが戻ってきた。
「さっき、宗屋さんのところには『市県民税が減額されたのは本当か』っていう電話がかかってきたそうです。」
「減額?」
「はい。減額はされていないって答えたら、『やっぱり詐欺なんだな』っておっしゃったそうです。」
「その人は変だと思ったんだね。場所は?」
「下野峰町だそうです。」
「二ツ峰町とつながってるね。」
「隣り合ってるなら、同じ自治会ってこともあるよね。」
みんなでうなずいて顔を見合わせた。
「係長は総務課に報告してから、警察にも連絡するそうです。」
「もどかしいけど、それくらいしかできないよねえ。」
「こういうときに有線放送があるといいのにね。」
東堂さんが言った。
「ほら、地域用のスピーカー。役所のお知らせとかを流したりするの。うちのお祖母ちゃんの住んでいるところにはあったけど、葉空市には無いよね。」
「ええ……。」
言われてみると、ニュースなどで見たことがあるかも知れない。でも、地元では見たことが無い。
「何かできないんでしょうか。もしかしたら被害者が出てしまうかも知れないのに。」
何も悪いことをしていない人がお金をだまし取られるなんて、本当に嫌だ。そんなことでお金を手に入れている犯人を絶対に許したくない。
「そうだ! 地域が限られているなら、ハンドマイクを持って歩きまわりましょうか。僕、行ってもいいですよ。」
このくらいならできそうだ。今日も真夏日で暑いし、現地に行くのに少しばかり時間がかかるかも知れない。けれど、何もしないでここで悔しがっているよりもずっといい。
高品さんと東堂さんは顔を見合わせ、蒼井さんは驚いた様子で俺を見た。
…と、不意に原さんが「あるな」と言った。みんなが原さんに視線を向けると、もう一度、今度は俺たちを見てうなずいた。
「あるよ、広報車が。」
「広報車?」
「うん。屋根の上にスピーカーがついてる車。確か、区制課と地域保健課にあったはず。」
「ああ、そうだ! あれならいいかも。」
「空いてれば貸してもらえるよ。係長に言ってくる。」
(何かできるんだ。)
係長と原さんが話し合っている様子を見てほっとした。
犯人はもうあの地域への電話は終えてしまったかも知れない。でも、少しでも被害を防げる可能性があるなら何かしたい。
だって、俺たちは市民のために働いているのだから。




