72 一緒にいたい
「ありがとうございました。」
蒼井さんのアパートが目前に近付くと彼女の声がした。
止まる前から下りる準備を始めたらしい。ごそごそと荷物を確認しているようだ。そんな気配を感じながらますます焦ってしまう。
「いつも送ってもらうばかりですみません。」
「ああ……、近いんだから、気にしなくていいよ。」
遠慮するような言葉にも距離を感じる。
(ああ、どうしよう。まだ謝れていないのに……。)
何も言えないまま、いつもの場所に停車するしかなかった。
そろそろ八時になろうという時間。周囲はすっかり夜だ。闇に沈んだ住宅街は今日も人通りが無い。
車が止まると彼女はすぐにドアを開けて外に出た。名残惜しい様子など露ほども見せずに。そのことにまた悲しくなる。
重い気持ちでトランクのロックを外し、俺も車から出た。
(いいのか? これでいいのか?)
後ろにまわりながら、頭の中に問いが浮かぶ。
(蒼井さんが嫌なら仕方ないじゃないか。)
トランクのふたを上げながら、自分を納得させるために答えた。
(蒼井さんはきっと遊び疲れただけだ。明日になれば、もとどおりになるよ。)
彼女の大きなバッグを取り出すと、蒼井さんがお礼を言いながら手を差し出した。そんなことも、俺から一刻も早く離れたい気持ちの表れのように感じてしまう。
(いつも二階まで見送っているのに。)
そう思ったら、今まで彼女を見送った光景が次々と浮かんできた。
(いつもあんなににこにこしていたのに。)
バッグを持つ手に思わず力が入った。
俺の動きが止まったことに気付いて、蒼井さんが顔を上げた。無邪気な不思議そうな表情。それが俺の荒れた気持ちを逆なでする。
(どうしてわからないんだよ?!)
俺はこんなに不安なのに。蒼井さんのことを想っているのに。
(もっと一緒にいたいのに!)
俺の気持ちを察してくれないことが腹立たしい。彼女が平気でいることが悔しい。
――彼女を困らせてやりたい。
さっきまでとは違う強い衝動が体を支配した。
何も言わずにバッグをトランクに戻す。
「え? あの……?」
蒼井さんが戸惑いを浮かべて荷物と俺を見比べている。そんな彼女に会心の微笑みを向ける。心の中で「断れるものなら断ってみろ!」と挑みながら。
「一緒に夕飯を食べに行きましょう。」
ぱっちりと目を見開いて驚く彼女。それを見て、少しばかり意地の悪い満足感を覚えた。とにかく今は彼女がどんな言い訳をしようと、俺の申し出を通させてもらうつもりだ。
「え、でも……、どうしてですか?」
(「どうして」って!)
さらなる憤りがぐるぐると渦を巻く。
(正式な理由がなくちゃいけないの? 蒼井さんと一緒にいたい、二人で過ごしたいって思うだけじゃダメ? 蒼井さんはそんなに俺のことが嫌なの?)
そんな叫びは心の壁の後ろに隠し、当たり前のような態度を装い続ける。
「だって、お腹減っちゃったし。」
すると、蒼井さんはまた不思議そうな顔をした。
「でも、お家で用意されているのでは……。」
「え? 家?」
「だって、宇喜多さんはご実家だから……。」
(あ……、そうか……。)
そんな理由は想定していなかった。
確かに、蒼井さんがそう考えるのは自然なことかも知れない。家族と暮らしたのが高校生までだった彼女の経験からすれば。
荒れていた心が静まりかけた。
(いや、まだだ。)
まだこれでは蒼井さんが俺を嫌がっていないという証明にはなっていない。
「うちは、俺が遊びに行ったときは、俺の分の夕飯は用意しないってことになってるから。」
「あ、そうなんですか。」
さあ、どうする? どんな顔をする?
「じゃあ、」
(あ……。)
蒼井さんがにっこりした。とても嬉しそうに。そして可愛らしく。
「行きます。」
呆気ない返事。一瞬、信じて良いものかどうか迷った。けれど、彼女の反応はごく自然で、疑うべき点など見当たらない。
(俺と一緒にいたくないわけではなかったのか? 俺の勘違い?)
気持ちがすうっと凪いでいく。肩の力も抜けて行く。代わりに湧いてきたのは……期待だ。
(もしかしたら、俺が誘うのを待っていたとか……。)
「実は家にパンと牛乳くらいしか無いんです。あとは冷凍ピザか。」
「あ、そうなんだ……。」
食べるものが無いから、という理由は期待外れなのになぜかほっとした。その一方で、気持ちが浮き立ってきているのは間違いなくて。
「じゃあ、行こうか。一番近いファミレスでいい?」
「はい。」
彼女の口調も人なつっこい表情も、いつもと同じ。
(なんだ……。)
安堵と幸せがあっという間に広がって、全身の緊張が解けていく。こんなに簡単に気分が変わってしまうなんて、俺はなんて手軽な性格なんだろう!
「あ。前に乗ろうかな……?」
(え?)
今度は俺が驚いた。ドアの取っ手から目を上げると、彼女が尋ねるように俺を見ている。
「うん。それがいいよ。」
喜びが顔に出過ぎないように細心の注意を払う。けれど、それは防ぎきれなかったと思う。
「ストーミィ、淋しかった?」
シートベルトを無事に締めた蒼井さんが、ダッシュボードの上の子犬を抱き上げる。そのまま子犬を膝に乗せた彼女に満足して車を出発させた。
(いったい俺は何に腹を立てていたんだろう。)
憶測に過ぎない思い込みで彼女を困らせようとするなんて、俺はなんて自分勝手な男なんだ。彼女は俺を信じると言ってくれたのに。
(蒼井さんだって黙っていたいときがあって当然なのに。)
この二日間、ずっと他人と一緒で疲れていたのかも知れないじゃないか。俺と二人になってほっとしたのかも知れないじゃないか。それを俺は……。
「ごめんね、蒼井さん。」
自分の心が狭いことが、情けなくて申し訳ない。自分の未熟さを棚に上げて、彼女を非難しようとするなんて。
「え……?」
蒼井さんが不安そうにこちらを向いた。
「ええと、実はさ……」
真剣な表情で見つめる蒼井さんに、どう伝えたら良いのか迷う。彼女に意地悪をしようとしたなんて……。
(ああ……、言えない!)
「一人で夕飯食べるの、なんだか淋しくて。」
変に気軽な口調で言って、「あはは」なんて笑ってみせる。そうしながら、胸の中でもう一度謝った。
「蒼井さん、早く帰って一休みしたかったんじゃないかな? ごめんね。」
どうにか言い訳らしいことが言えてほっとした。
「あ、いいえ、そんなことないです。」
蒼井さんが明るく言い切った。
「きのうからずっと楽しかったから、終わっちゃうの淋しいなって思っていたんです。だから……」
そこでふと言葉が途切れた。そっと隣をうかがうと、蒼井さんは膝の上の子犬に面白いポーズをさせるのに気を取られているようだ。
「少し延長できて嬉しいです。ね? ストーミィ?」
そう言うと、子犬と鼻をくっつけ合った。
彼女は俺の方は見なかった。俺と一緒で嬉しいとも言わなかった。
だけど。
だけど……。
彼女の何かが……。
なんだかドキドキする。
「うん。楽しかったよね。」
言葉が記憶を呼び覚ます。行きの車でのこと、かわいらしい水着姿、男の体を見るのが恥ずかしいと言ってごねたこと、たくさん遊んだこと、交わした言葉、二人だけの時間……。一瞬一瞬の彼女の表情が、まるで短い映像をつなげたように次々と駆け抜ける。
蒼井さんも楽しかった二日間。終わってしまうのが淋しいと感じる二日間。そこには俺と彼女の時間もあって、もしかしたらこれからも……。
「ふふっ。」
彼女の笑い声が聞こえた。
「なに?」
尋ねると、もう一度笑ってから彼女が言った。
「さっき……」
「うん。」
「宇喜多さんが『ごめんね』って言ったとき……」
「ああ、うん。」
「わたし、『実はね』の次に『お金が足りないんだ』って言われるのかと思ってドキドキしてしまいました。」
「え?! お金?!」
それは俺でもびっくりだ!
「はい。くふふふ。だって、あんまり真剣な顔してたから。それほど重大な問題なんて、お金くらいしか思いつかなくて……。」
そこで彼女がまた笑う。
「お財布にあといくら入っていたかなあって考えてしまいました。うふふ。」
「ああ……、そうだったんだ……。」
それで不安そうな顔をしていたわけか。
「くく…、面白いなあ。」
「そうですか?」
「うん。蒼井さんの発想はまったく予想ができないよ。」
「うーん、こんなわたしで楽しんでいただけて光栄です。」
ふざけて言い返す彼女に胸の中が温かくなった。
「ああ……、ほっとした。」
思わず声に出てしまった。蒼井さんが尋ねるように視線を向ける。
「いや、さっきまでその……元気が無いように見えたから。」
「ああ……。」
そこで視線をはずし、思い出すような間を置いてからこちらを向いた。
「明日から仕事だなって思ったら、憂うつになっちゃって。」
そう言いながら、小さく肩をすくめた。
「今週は市民税の督促状ですよ? また大忙しです。」
「あ、そうか。この前と同じだね。大変だなあ。」
「いいえ。市民税の方が件数が多いから、もっとですよ。」
「え、あれよりもっと……?」
「はい。」
(そんな……。)
あのときはフラフラになったのに。もっとだなんて。
(そうだ……。)
初めて怒鳴られたのも督促状のときだった。またあんなことになったら……。
「僕も憂うつになって来ました……。」
「あれ? しゃべり方が職場モードになってますよ? 気が早いですね。」
「蒼井さんが先に暗くなってたんじゃないですか!」
「今は平気だもーん。ね〜?」
蒼井さんが楽しそうに子犬とうなずき合った。それを見たら気持ちがすうっと晴れた。
(いつまでも一緒にいたいよ。)
大事なことなのに、今は声が出ない。
(一緒にこうしていたい。二人だけで。ずっと。)
でも無理だ。もうファミレスが見えてきた。
(蒼井さんは……どう思ってるの?)
俺と同じ気持ちにはなってくれないだろうか……。




