69 海! その7
(やっぱり俺には無理なのか……。)
リビングルームにメモを残し、蒼井さんと出た散歩。海岸まで降りたところで、すでに自信が消えかかる。
「宇喜多さん、ちょっと待って。」
「あ……、ごめん。」
視線を上げて振り返ると、蒼井さんがちょこちょこと来て隣に並んだ。にこにこ見上げる彼女に申し訳ない気持ちが湧いてくる。
(こんなふうに気が利かないしなあ……。)
そっとため息をついた。
コテージから下ってくる道で蒼井さんは転びそうになった。そのときは支えてあげたものの、腕をつかまれた感触が恥ずかしくて、直後に手を引っ込めてしまった。まるで、触れられたことが嫌だったみたいに。
「海、きれいですね?」
(気にしていないみたいで良かったけれど……。)
蒼井さんの笑顔にほっとする。
「うん、そうだね。」
ざくざくと細かい砂利を踏みながら歩く左には、朝日を浴びてキラキラ輝く朝凪の海。岩と草に覆われた右手の斜面には蒼井さんと俺の影が並んで映る。
「宇喜多さん。あの。」
「ん?」
「あの、ちょっと、速いです、歩くの。」
「あ。」
(また失敗した……。)
情けない気持ちで立ち止まる。
「足元が、ちょっと、歩きにくくて。」
蒼井さんは少し息を切らしている。歩きにくいから、俺は大股で歩いていたのだ。
「ごめんね。」
そこでハタと気付いた。これも手をつなぐチャンスだ。
(「歩きにくい」って言ったもんな?)
さっきの分を挽回できるかも知れない。無言で手を差し出すのもいいんじゃないだろうか。きっと彼女は……。
「……ゆっくり歩こうか。」
「はい。」
笑顔の返事を聞きながら、またため息だ。
(これじゃあ、蒼井さんが俺を信用するのも当然だ。)
いくつもあるチャンスを一つも利用できないのだから。
むしろ、こんな俺を信用しないで誰を信用するんだ! というところだ。コテージから見えない場所などあっても無くても関係ない。
「宇喜多さん?」
「ん?」
自分にがっかりしていても、蒼井さんの楽しそうな様子を見ると幸せになるのは間違いない。
「寝癖になってますよ?」
「ああ……、そう?」
斜面に映る影で確認しようとしてみた。けれど、凸凹でよくわからない。
「ここです。」
蒼井さんが後頭部を指差した。
「うーん、わかんないや。」
格好悪いけど仕方がない。ここでは直せないし。
「ここのところ。さわってもいいですか?」
(え?)
ドキッとした。そして、笑い出しそうになった。
「うん。」
ふくらむ期待を真面目な表情で隠して、彼女の方に頭をかたむける。さわられたらどんな感じなんだろう?
「ほら、ここ。アヒルのしっぽみたい。かわいいです。」
くすくす笑いながら、蒼井さんが後ろの髪をつまむ。何度も何度も。
「おもしろーい♪」
(うわ、なんか……恥ずかし!)
恥ずかしくて、くすぐったくて、嬉しくて、……じっとしていられない!
「ん……ははっ、くすぐったいよ。」
我慢できずに手をやると、蒼井さんの手と一瞬触れた。あ……、と思ったときにはすでに手は引っ込められていて、彼女はまたにこにこと俺を見上げるだけ。
(何にも感じないのかな……。)
頭を掻きながら気持ちが沈む。
こうやって二人でいることも、手や体が触れることも、彼女は何とも思わないのだろうか。
(そうだよな……。)
蒼井さんは俺のことを「何があっても疑わない」と言っていた。つまり、俺を異性として考えないということだ。俺がいくら何をしようと……いや、できてないけど。
「あ、ここ……。」
蒼井さんがふとあたりを見回す。
「きのう、前下さんと来たところだ……。」
(前下さんと?)
すぐに思い出した。花火のあとに慌てて探しに来たことを。
「ゆうべは急にいなくなったからびっくりしたよ。」
心配した気持ちがよみがえって、思わず咎める口調になってしまう。
「前下さんと一緒だって気が付いたときは余計に。」
あのときは最悪のことを考えてしまった。間に合わなかったらどうしようって。
「ごめんなさい。ちょっと……『行かない』って言えない雰囲気で……。」
「まあ……、無事だったからいいけどさ。」
そんなふうにしゅんとして謝られたら、もう何も言えない。蒼井さんはちゃんと俺の心配をわかっているのだから。
「あのときは周りに誰もいなくて……、最悪、告白されたらちゃんと断ろうって覚悟を決めたんです。自分で何とかしなくちゃって。」
(え? 最悪、告白?)
耳を疑った。でも、彼女は本気で言っているらしい。
(ぜんぜんわかってないよ!)
最悪は告白なんかじゃないのに!
身体的に何かをされることだって有り得るのだ。前下さんのようなひとなら、体格も力も圧倒的に有利なのだから。それに、決心したら、俺みたいにぐずぐずしているとも思えない。
「蒼井さん。」
しっかりと向かい合って、彼女の肩に手をかけた。
「はい?」
俺の真剣さに驚く彼女の無邪気さが、今は不安材料でしかない。
「これからは俺から見える範囲にいてください。」
「え、でも……、もう、前下さんは大丈夫に……。」
「そうかも知れないけど。」
思わず手と言葉に力がこもった。彼女は戸惑いを浮かべた表情で次の言葉を待っている。
「そうかも知れないけど心配だよ。だって――」
(ああ……、言えないよ。)
「蒼井さんは、まだ十九歳だよ?」
「蒼井さんのことが大切だから」という一言が、どうしてこんなに難しいんだろう!
俺が反省しているあいだ、彼女はぼんやり俺を見上げていた。それからすっと視線をはずし、静かに後ろに下がって俺の手から逃れた。
一瞬、彼女が自嘲気味に微笑んだように思った。でも、見間違いだったらしい。次に顔を上げたときには瞳をきらめかせ、いかにも何か楽しいことを考えているような、挑戦的な顔をしていた。
「わたし、子どもですか?」
「え……?」
俺が「まだ十九歳」と言ったことを責めているのだろうか。社会人としては先輩の蒼井さんのことを。
「ああ、まあ、子どもって言うか、まだ経験があんまり無いっていう意味で……。」
「いいんです、子どもで。」
ニヤリと笑い、するりと俺の後ろに回り込む。
「大人はこんなことできないから。」
「うわ!」
腰のあたりをグイッと押された。気付いたときには海に向かって歩かされていた。
「え? え? ちょっと待って、蒼井さん。」
「いやですよ〜。待たないもーん。」
「うわ。待って。足が。濡れる。」
「えいっ。」
「わ、わ、わ、あ〜〜〜〜〜〜〜っ!」
思いっきり突き飛ばされたところに波が寄せてきた。サンダル履きの足は水を被り、細かい砂利がまとい付く。振り向くと、蒼井さんは波の届かない場所で大笑いしていた。
(まったくもう!)
一緒に笑ってもいいけれど、わざと怒ったふりをする。
「この〜!」
「や〜、ごめんなさい!」
走り出した俺を見て彼女は逃げようとした。でも、俺の方が速い。
「同じ目に遭ってもらう!」
「いやっはははは! やだやだ!」
俺が背中を押そうとすると、彼女がくるりと逃げる。
「こら! 逃げるな!」
「やだ! 逃げるもん!」
「だめだよ! ほら!」
「うわ?!」
(やった!)
彼女のお腹に腕がかかった!
「や〜!」
蒼井さんはまだ逃げようとしている。それを力ずくで引っ張った。
「つかまえた。」
走り回って乱れた息を整えながら彼女に宣言する。
「もう逃げられないよ。」
横向きに俺の腕に閉じ込められた蒼井さんが文句を言うために顔を上げた。
「ずるいです、本気で走るのは。」
(!!)
そこで我に返った。その近さに気付いて。
(やっちゃった……。)
いや、ここは「とうとうやった」と喜ぶべきか。
(このまま離したくない。)
心臓の音がドクンドクンと体中に響いてくる。
息を整えるふりをして時間を稼ぐ。頭の中を猛スピードで葛藤が駆けめぐる。
思い切り抱き締めたい。いや、この状態でもいいから少しでも長く――。
「ん~。」
蒼井さんが俺の腕をどかそうとしている。
腕に力を込めるべきか緩めるべきか。
本心を伝えたら……いや、笑って終わりにするべきか。
(……そうだ。)
思い出した。
(俺は蒼井さんにとっては異性じゃない。俺のことは疑わないって言った。)
胸の中で何かがパッとはじけた。
思い切って、腕に力をこめる。
「う?」
腕の中の彼女を後ろ向きに抱え直し……、その細さに驚いた。
「よいしょ。」
そこからぐっと持ち上げる。
「うわ、ちょっと待って。」
「だめ~。」
(うわ~、なんだろう、ふよふよする。)
一応、触る場所には気を付けた。それでも、もがく彼女を抱えるのはテンションが上がる。胸に感じる彼女の体の心地良さと、彼女を包み込んでいるような満足感もかなりのものだ。
(気持ちいい! ずっとこのままでいたい!)
「やだやだ、足が濡れる!」
「さっき俺にはやったよね?」
「ごめんなさいって言ったのに!」
「サンダルだから平気だよ。」
「あ〜! 波が来た!」
「うわっ、冷たっ。」
結局、なかなか手が離せずに、一緒に波に踏み込んでしまった。




