58 今度の試練は
相河の助言に少しばかり勇気が出て、月曜日の朝、蒼井さんに「8月はどこか行きたい場所はある?」と訊いてみることに成功した。
ほどよく混んでいる通勤電車の中は静かで、周囲の全員が耳を澄ましているようで落ち着かなかった。でも、何度もやってきたように感情を奥に引っ込めて、当たり前の話をするようにポーカーフェイスを保つことができた。それが功を奏したのか、それともそもそも何とも思われていなかったのか、蒼井さんも当たり前のようにその質問を受けてくれた。
彼女は少し考えてから、「今は思い付きません」と言った。それから笑顔になって「考えてみますね」と。
それを聞いて、俺は嬉しくなった。彼女が本当に一緒に出かけるつもりでいてくれることが確認できたから。
もしかしたら、二人の仲はこのまま順調に進むのかも知れない。
「47番ってここ?」
少し混んでいた窓口の応援に出ていたら、隣で不機嫌な男性の声がした。
「あ、はい、そうです。」
接客中だった蒼井さんが答えている。
「こちらの番号札をお取りいただいて――」
発券機に手を伸ばす蒼井さんの姿が視界の隅に見えた。けれど、そこで男性がドスの効いた声で言った。
「なんだよ、これはよ? ええ?」
(え?!)
驚いて、向かい合っていたお客様ともども隣を見た。そこに立っているのは黒いタンクトップにカーキ色のカーゴパンツ姿の三十代とおぼしき男性。年配の女性の相手をしていた蒼井さんに向かって身を乗り出している。
「延滞金って何なんだよ? あぁ?」
(延滞金か。)
延滞金の納付書を発送したのは先週だ。税金を遅れて払うときには金融機関がその場で計算してくれることも多いのだけど、それができなかった人には後から延滞金の納付書を送ることになっている。
その納付書も、ただ出力されてきたものをそのまま発送するわけではない。対象の税金の金融機関の領収印とシステムに入力されている領収日にズレがないか確認している。だから、この延滞金自体には間違いはないはずだ。
「俺ぁ、ちゃんと税金払ったんだぜ? ちゃんと払ってんのに、ちょっと遅れたぐらいで今度は延滞金だぁ? 勝手なこと言ってんじゃねえよ。」
大声ではないものの、明らかに脅しの口調だ。手に持っている延滞金の納付書をカウンターにパシンパシンと叩きつけながら。
蒼井さんは先に相手をしていた年配の女性に申し訳なさそうに小さく頭を下げて、その男性と向き合った。
(勝手なのは自分じゃないか。)
男性の態度と言葉に腹が立つ。
(何とかして遅れずに払おうとしてくれる人だってたくさんいるのに。)
今、俺が相手をしているお客様もそういう一人だ。
蒼井さんはゆっくりと息を吸い、穏やかな声で言った。
「申し訳ありませんが、ただ今、ほかのお客様の受け付けをおこなっておりますので、こちらの番号札を――」
「るっせぇ!」
声と一緒にドン! と音がした。男性がカウンターを蹴ったのだ。
俺の心臓はドキン! と飛び跳ね、再び発券機に手を伸ばしていた蒼井さんは動きを止めた。
「俺は延滞金なんか払わねえって言ってんの。だからお前と話すことなんか無えんだよ。」
乱暴で高飛車な態度と物言いを目の前にしてドキドキする。蒼井さんに向かって発せられた「お前」という言葉に頭に血が上る。けれど、どうすればいいのかも、何を言えばいいのかもわからない。
(俺がでしゃばっても事態を悪化させてしまうだけだ。)
そう思っていることが、自分への言い訳にしか思えなくて――。
「だいたい延滞金のことなんか誰が決めてるんだよ? お前らが勝手に決めてるんじゃないのか? え?」
「そんなことはありません。」
(あ。)
蒼井さんが言い返した。まっすぐに立って、落ち着いた表情で男性を見つめて。
「延滞金については地方税法に――」
「うるせぇって言ってんだろ!!」
男性がまた大声を出した。蒼井さんはキュッと口を結んだ。やって来た係長がなだめるように手を上げて何か言おうとした。けれど。
「どこで何が決まっていようが、俺ぁ延滞金なんか払わねえって言ってんだよ! 役所に出す金なんざ、税金だけでたくさんだ! それ以上はびた一文払わねえからな! わかったな! 二度とこんなもん寄越すな!」
(あ!)
男性が蒼井さんに向かって、持っていた紙を丸めて投げつけた。思わず身をすくめた蒼井さんの肩にそれが当たり、カウンター内の机に落ちた。姿を追って振り向いたときにはもう、男性は大股でエレベーターの方へ歩み去っていた。俺はその背中を無言で見送ることしかできなかった。
戻した視線に一瞬、唇を噛んだ蒼井さんが映った。投げ付けられた紙を拾って広げる彼女の手が小刻みに震えていることにも気付いた。声を掛けた係長に、蒼井さんは紙を差し出しながら「これ……」としか言えないようだった。
けれど、彼女はすぐに表情を引き締め、先に相手をしていたお客様に「すみません。お待たせしました」と謝った。まるで、今の出来事が自分の責任であるみたいに。
そこでやっと、俺も自分のお客様を思い出した。
彼女のためにできることは何も無い俺は、どうにか落ち着いた表情を取り繕い、自分のお客様に「すみません。大丈夫ですか?」と声をかけた。「区役所も大変だねえ」という同情の言葉にはありがたく微笑んで。
その後も窓口で愛想良く接客しながらも、俺は隔離した胸の中で憤りが収まらなかった。自分の落ち度で延滞金を払うことになったのに、あんなふうに職員を脅すなんて。俺たちは法律にのっとって仕事をしていて、法律は誰にでも平等に適用されるものなのに。
お客様が捌けて席に戻っても憤りはおさまらず、立ったまま先輩たちに気持ちを吐き出した。
「蒼井さんに向かって物を投げ付けたんですよ! 紙だからケガをするようなことは無いけど、それだって一種の暴力じゃないですか。」
「それは嫌だねえ。」
原さんが同意してくれた。
「怒鳴ったり、机を蹴ったりされるのも嫌だけど、直接、体に何かされるのはちょっと違うよね。」
「あ〜、わかるわかる、怖いよね。」
向かいから高品さんも言ってくれた。
「それに、相手がこっちを人間として扱ってないような気がして、傷付くっていうか、悔しいよね。」
「はい。」
「傷付く」も「悔しい」も、どちらも今、俺が感じていることだ。蒼井さんはきっと、俺なんかよりもずっとたくさん。
「女性に対してあんなことをするなんて、本当にひどいと思います。」
しかもあの小柄で幼さが残る蒼井さんに向かって!
「あー……、そこはちょっと違うかな。」
「え?」
思いがけない指摘に驚いた。それを言ったのが高品さんだったということも。
「宇喜多さんが騎士道精神でそう思ってくれてるのはわかるんだけどね、ここで働いてたら、男女の別なんて関係ないんだよね。」
「あ……。」
「あたしたちもべつに女だから大目に見てほしいなんて期待してないし。」
確かにそうだ。課の女性職員はみんな男性職員と肩を並べて仕事をしている。ガラの悪い滞納者にも当たり前に応じているし。
「蒼ちゃんだって、そこのところは覚悟してるはずだよ。」
「そ、そうですね。すみません。」
俺は気付かないうちに女性を軽視していたのだろうか。そんなつもりは無かったのだけれど……。
「あ、べつに怒ってるわけじゃないよ? 一応、説明しただけ。」
「ええ、はい。ありがとうございます。」
高品さんの笑顔を見れば、本当に怒ってはいないということはわかる。でも、俺の中には……?
「まあ、宇喜多くんがそう言うのは仕方がないよ。」
原さんが慰めるように微笑んで言った。
「学生の間は女の子を女の子扱いすることも多いからね。男子にも女子にも、それを当然と思っている子もいるし。」
(ああ、確かに……。)
そう扱ってほしがっている女子はいた。そういう子を可愛いと言っている男子もいた。俺は面倒だと思っていたけれど。
「でも、市役所の職員はそんなこと言ってられないよね。一人ひとりの人格なんて、市民からすれば関係無いんだから。」
「人格は関係ない……。」
さらりと口にされたその言葉が俺の胸に重たく響いた。
「そうだよ。市民にとっては俺たちが市役所とか法律そのものなんだから。不満があれば職員全員を悪者だと思うし、嫌いなんだよ。性別も年齢も、性格も関係なく。」
「新聞とかテレビで公務員が悪者扱いされることもあるしね。」
「だから乱暴してもいいってことですか?」
「中にはそう思う人もいるってこと。」
簡単に返された。そのことが余計にショックだった。
「なんだか悲しくなりますね……。」
「まあね。もちろん、脅しや暴力に訴えてくるのは間違ってるよ。でも、だからと言って、『あなたの相手はしません』とは言えないからね。それがつらいところだよね。」
「そうですね……。」
市民は市役所や法律に文句を言っているつもりでも、傷付くのは個人の心だ。
「だからみんなでバックアップするんでしょ?」
高品さんが明るく言った。
「さっきも係長が行ったでしょ? 係長がいなければ、あたしたちも応援に行くし。」
「そうそう。だから、宇喜多さんも安心して怒鳴られて大丈夫だよ、あははは。」
原さんも笑顔で続けた。
「え……、それはやっぱり避けたいです。」
答えながら少し笑ってしまった。すると、フッと肩の力が抜けていくのがわかった。そして、この職場ならきっと大丈夫だと思った。
「宇喜多さん。立ってるついでにお願いがあるんだけど。」
東堂さんがパソコンから目を上げずに話しかけて来た。今日は朝からずっと忙しそうだった。
「はい、何でしょう。」
「下の売店に行って来てくれない? 冷たいものが飲みたいの。お金渡すからこっち来て。」
ほかの先輩たちが「あ、じゃあ、ついでに」と言うのを聞きながら東堂さんのところへ。すると、東堂さんは小銭を渡しながらにっこりと笑い、小声でそっと言った。
「蒼ちゃんはね、落ち込んだときにはカスタードプリンなんだよ。」
「あ、じゃあ、ついでに買って……って、え?」
「そうそう。これも重要なバックアップだよ?」
意味ありげに目くばせされて、不覚にも顔が熱くなった。
「あ、はい、その……、ありがとうございます。あれ?」
あわてふためいた俺はみんなの注文が覚えられず、せっかく書いたメモも自分で解読するのがひどく困難だった。




