54 ネクタイと約束
楽しい時間はすぐに過ぎてしまう。ゆっくり歩いたのに、あっという間に蒼井さんの住むアパートだ。
「あの、これ……。」
階段の下で差し出されたネクタイ。ここはもちろん……。
「結んでください♪」
(だよなあ。)
このくらいは酔っていなくても言えただろうか?
蒼井さんは受け取ったネクタイを、少し首をかしげながらほぐした。それからうかがうように俺をちらりと見てから、決心した様子で顔を上げた。かすかな笑みを浮かべて。
「実は結び方を……ちょっとだけですけどネットで調べたんです。だから、この前よりは上手に結べるかも。」
「ああ、ほんとに?」
調べてくれたなんて! このために? それは……頼まれることを待ってたってこと?!
「でも、やっぱり失敗しちゃうかな。画面で見ただけだから。」
「いいよ、それでも。」
「そうですか? それじゃあ。」
ネクタイを両手に持って構えた蒼井さん。俺が屈むと「えい」と頭の上からネクタイを掛けた。
(やっぱりいいなあ……。)
立ち上がりながら、幸せな気分にじっくり浸りたくて目を閉じる。
首の周りに蒼井さんの手の動きを感じる。目を閉じていても、目の前の彼女がくっきりと浮かんでくる。……あ、今、手が首をかすった。後ろ側を直している今はたぶん……。
誘惑に負けてそうっと薄目を開けてみる。
(やっぱり!)
また急いで目を閉じる。
蒼井さんはすぐ目の前。こんなに間近で目が合ったら、蒼井さんは恥ずかしがって、もう二度とやってくれないだろう。
(でも、本当に近い……。)
この距離なら、目をつぶっていても抱き締めるのを失敗することはないだろう。俺が腕をわっかにしたら、その中にすっぽり入るはずだ。
とは言え、このくすぐったさの方が刺激にあふれていて……。
(あ、結んでる?)
蒼井さんの手が胸元に移った。
今度はゆっくり目を開ける。さっきよりは離れた位置に真剣な表情の蒼井さんがいた。
仕事中と同じくらい真剣な顔。眉を寄せ、唇をキュッと結んで。途中でふと手を止めて、小さく何かつぶやいた。結び方を思い出しているのだろうか。
……と、彼女はにっこり微笑むと、シュッと衣擦れの音をさせてネクタイを引っ張った。あごの下にきた彼女の手に殴られそうな気がして、思わずあごを上げて上を向く。そのうちシュ、シュ、シュ……と音がして……。
「あれ?」
彼女の不思議そうな声。見ると、何とも言えない顔で首をかしげながら、両手でネクタイの結び目をギュー……っと締めた。
「違いますね、これ。」
下ろされた彼女の手を追うように俺も下を見る。
そう。確かに違ってる。
外と中が逆だ。ネクタイの細い端が外側になっている。
「でも、結び方は合ってるみたいだよ。」
下がっている先端が、今日は一本に重なっている。手で結び目に触れてみると、形もそれらしい様子だ。少し締め過ぎで苦しいのはご愛敬。
「やり直しましょうか……?」
しょげた様子の蒼井さんもかわいらしい。おでこにキスでも――。
(まずいまずいまずい! ダメだ、考えちゃ! 今の俺は――)
「いいよ、このままで。」
(え? まさか……!)
キスはしなかった。しなかったけど、人差し指で蒼井さんの鼻の頭をちょん! ……とか!
「許婚が締めてくれたんだから。」
(こいつは誰だ!!)
こんな気障なことをするのが俺のわけがない! 蒼井さんだって目を丸くして固まっちゃってるじゃないか!
(俺は本当に大丈夫なのか……?)
「じゃあ、階段の上まで見送るから。」
「は、はい。」
蒼井さん、引いちゃってるんじゃないだろうか……。
(ああ、恐ろしい……。)
蒼井さん。これは酔っ払いの俺だからね。普段は絶対にこんなことはしないから!
アパートの階段を上り切ったときには、彼女はまたくすくす笑っていた。俺のやたらと気障な言動は酒のせいだと納得してくれたらしい。それは一方では、彼女の俺への信頼度のあらわれでもある……はずだ。
彼女は笑顔で礼を言い、酒を飲ませすぎたことを謝ってくれた。俺は彼女が玄関に入るのを見届け、道路に戻って、窓から顔を出した彼女に手を振った。
(ああ……。)
自宅の方向に足を向けると、満ち足りた気分が湧いてきた。その波に心をゆだねると、一緒に体の力も抜けそうな気がした。
(俺にもできるんだなあ……。)
ウソをついて蒼井さんを追いかけてきたり、どさくさに紛れて手首をつかんだり。何よりも出かける約束を――しかも二回分も――取り付けたのは快挙だ。まあ、かなり強引だったけれど。
(でも。)
強引だと言っても、たとえば無理にキスをしたり、彼女の部屋に押し入ったりしなかったのは良かった。そんなことをしたら、明日から職場に行けなくなってしまう。というよりも犯罪だ。
それに比べたら多少の <気障> くらいは可愛いものだ。単に俺が恥ずかしいだけなのだから。蒼井さんを驚かせたのは間違いない――俺だって驚いたんだから――けれど、傷付けるようなことはしていない。
(そのあたりはもともとの真面目さに救われてるのかも知れないなあ……。)
強引さを発揮しても、ある程度の規範意識はあるらしい。蒼井さんが「酔っ払ってますね」と笑って許してくれる範囲に収まる程度で済むくらいの。
(それはそうかもな。)
頭の中はけっこう冴えていたのだから。
つかむ場所を手首にしたのも、さり気なく狭い座席を選んだのも、一緒に出かける約束につけた理屈も、ちゃんと計算したからだ。そういう方面に関しては本当に抜け目が無くて、ずるさに反省もするけれど、半分は感心もしてしまう。
(これが宗屋が言ってた「危険な男」なんだろうな、たぶん。)
強引だったり、抜け目が無かったり。蒼井さんに「ノー」と言わせない雰囲気を作るのが上手かった。まあ、気障なのが「危険」に当てはまるかどうかわからないけれど。
(それにしても……。)
これからも酒を飲んだときしか危険な男になれないのだろうか。羞恥心が無くならないほど飲まないと、蒼井さんに自分の気持ちを示せないのか?
(……そんなのは嫌だ。)
蒼井さんへの気持ちは素面のときに伝えたい。酔った勢いでなんて情けないし、蒼井さんだって本気にしてくれないかも知れない。
(あ、そうだった!)
蒼井さんは俺が相当酔っ払っていると思っている。まあ、思われているだけじゃなくて事実だけど。だから、おかしな言動も酒のせいだと判断して笑って流してくれた。
その流れで、出かける約束も流されてしまうかも知れない。「覚えていないかと思ってました」なんて。いや、それよりも、最初から本気にしていないとか。
(有り得る。)
それは困る。断じて避けたい。素面の状態でさっきと同じ約束を取り付けるのは精神的に厳しい。言い出すきっかけをつかんでも、言える自信がまったく無い。
(ということは……。)
今の酔った勢いで何か手段を講じなくてはならない。あの約束を確実にするために。
(メールでもするか……。)
家に着いたところで、酔いが醒めたふりをしてメールを送る。内容は謝罪。失礼な言動に対するお詫びだ。
そして、ついでのようにあの約束のことに触れる。『あれは有効です』と。キャンセルなんて失礼なことはしません、みたいな雰囲気を装って。
(うん。そうしよう。)
誘ったのは酔った勢いだけど、俺の気持ちは本物だ。このチャンスを無駄にするわけにはいかない。
(とか言っててもなあ……。)
素面のときに誘えなくちゃ、今後の展開が望めないじゃないか。
さっき、蒼井さんには「あんな飲ませ方をしちゃダメ」だと偉そうに言ってしまった。そして、通常のペースであれほどの量を飲むことは無い。つまり、彼女の前でこれほど酔うことは、たぶん二度と無い。
(たまにはこんなふうに酔っぱらった方がいいんだろうか?)
まあ、今日は失礼な部分もあったけれど、蒼井さんは怒らなかった。それに……。
(そうだ!)
このネクタイだって、この前のことがあったから、蒼井さんは結び方をわざわざ調べてくれたのだ。俺がまた頼むかも知れないと思って。それは逆を言えば、頼まれてもいいと思っていたってことじゃないか? 俺が「結んでください」って言うまで、彼女はそれをまったく言わなかったわけだけれど。
「ふっ。」
かわいい。
かわいすぎる。
内緒で準備して最後のときまで黙ってるなんて。
蒼井さんって、きっと相当な恥ずかしがり屋なんだ。
だとしたらやっぱり、これからも俺が積極的に攻めるべきかもしれない。サーブ&ボレー的に、反撃の隙を与えずに。
(でも……。)
できるかどうか、それが問題だ。
(いや、やるんだ!)
俺は宗屋が言うようなヘタレなんかじゃない! 酒の力なんか借りなくても、いざとなったらやることはやってみせる!
とにかく、帰ったらまずメールだ。蒼井さんが「ノー」とは言えないメールを送る。そして、来月は二人で出かけるんだ!




