43 ◇ そんな?! ◇
「じゃあ宇喜多、姫のこと頼んだぞ。」
「オーケー。」
中央通路の改札口の前で宗屋さんと宇喜多さんのやりとりに驚いた。
「え? 宇喜多さんもこの電車ですよね?」
かもめ駅を通る路線。宗屋さんは上り方面、宇喜多さんは下り方面のはず。わたしは西川線だから、西口に出てから電車に乗る。
「送って行きます。」
宇喜多さんが当たり前のように言った。
「いえ、でも、遠回りだし、この時間ならまだ……。」
うちはここから三駅だ。三十分もかからずに家に着く。
「いいから、いいから。姫は宇喜多に面倒をみてもらえばいいんだから。」
宗屋さんが「あははは」と笑いながら、わたしの頭をポンポンとたたいた。酔っているのだろうか。ビールはそれほど飲んでいなかったみたいなのに。
おろおろと「でも」と言っているわたしの前で、宇喜多さんと宗屋さんが了解してうなずき合う。それから二人がそろってわたしを見た。
「でもあの……、ええと……、その……」
二人の親切な気持ちを思うと、これ以上は反論するのは……。
「……よろしくお願いします。」
頭を下げると二人が満足そうにうなずいた。こんなふうに心配してもらえるなんて、やっぱりわたしは恵まれている。
「明日の練習は、往復、家まで頼むぜ。」
宗屋さんがニヤニヤしながら宇喜多さんの肩に手をかける。宇喜多さんは「わかってるよ」と苦笑した。テニス部の練習の送迎のことだ。
「姫はちょっと遠回りになるけど、平気っすよね?」
「あ、はい。全然。」
順番で言えばそういうことになるよね。
多少遠回りになったとしても、乗せてもらうのに文句など言える立場ではない。それに、宇喜多さんと一緒にいるのは少しも嫌じゃない。
元気に手を振って改札を抜けて行く宗屋さんを見送り、宇喜多さんと一緒に西口へ。
(うーん……。)
男のひとと二人だということに、少しだけ気後れを感じてしまう。
でも、人がたくさん行き交う明るい通路といつも変わらない宇喜多さんの声が、気後れなどすぐに吹き飛ばしてくれた。
宇喜多さんは無理に話を盛り上げることも無く、わたしに意見を押し付けることも無く、急がずに、穏やかに、話をしてくれる。その考え深げな様子全体がいかにも宇喜多さんらしい。
(宇喜多さんと一緒のときが一番楽だ。)
西川線で隣同士に席を確保したとき、そんな思いがふわりと頭に浮かんだ。そりゃあ、職場でもずっと隣の席だし、慣れているのだから当然だよね。
「雨が上がって良かったですね。」
梅谷駅を出ながら、宇喜多さんに声をかけた。どこかよそ見をしていた宇喜多さんが「え? ああ」と曖昧に返してくる。
そのまま線路に沿った道を右に……と進み始めたとき、「蒼井さん」と呼び止められた。振り向くと、宇喜多さんがはす向かいにあるスーパーマーケットを指差した。
「ちょっとアイスでもどうかな? 辛いものを食べたせいか、なんだか暑くって。」
駅前のこの店は深夜まで営業していて、今も植え込みと駐輪場の奥にあるお店から明るい光が漏れている。
「ああ……、確かにそうですね。」
夜とは言え、七月も間近になった今日は蒸し暑い。それに、頼んだ料理はいかにもインド料理らしく辛いものが多かった。宇喜多さんと宗屋さんが頼んだカレーもかなり辛かったし。
(寄り道してアイスなんて。)
楽しい食事会の仕上げにちょうど良い気がする!
お店に入ると冷房が気持ち良かった。
アイス売り場へと宇喜多さんを案内し、一緒にあれこれ迷いながら選んだ。わたしはソフトクリーム型のバニラアイス、宇喜多さんはカップ入りの抹茶アイス。そのままお店の軒下にあるベンチに座って食べることにした。
辛いものを食べた舌をアイスがひんやりと冷ましてくれる。宇喜多さんがほっとした様子で「はー、生き返るー」と、ため息をついた。
道路とお店の間にある駐輪場もこの時間は出入りが少ない。わたしと宇喜多さんはお店の明かりを背に、夜の駐輪場を見ながらのんびりとアイスを食べた。ソフトクリーム型のアイスは鼻の頭や口のまわりについてしまって、失敗したかな、と思った。でも。
(宇喜多さんになら、見られてもいいや。)
何をするのも、あんまり恥ずかしくない。宇喜多さんはやっぱり特別だ。
コーンの角にちょうどかみついたとき、先に食べ終わっていた宇喜多さんの遠慮がちな声がした。
「こんなこと訊かれても、答えにくいかも知れないですけど……」
「ふぁい、何れひょう?」
無理矢理返事をして隣を見ると、宇喜多さんは膝にカバンを乗せ、背もたれに寄りかかって前を見ていた。何か考え込んでいるような、少し難しい顔をして。
宇喜多さんが真面目な顔をしているのはいつものこと。でも、何かを言うのをためらっているのはめずらしい気がする。宇喜多さんはいつも、思ったことをまっすぐ伝えるひとだから。
(ためらうような質問って何?)
コーンのしっぽを口に放り込んで考える。
(宇喜多さんに秘密にしたいことなんて、そんなに無いけど……。)
家が貧乏だという事情を話してしまった今となっては、答えづらいことはほんのわずかだ。そこまでプライベートなことを宇喜多さんが知りたがるとは思えない。まさか、下着の色とかサイズとか、そっち系の質問をしてくるとも思えないし……。
頭の中を疑問が駆け巡っているうちに、宇喜多さんがこちらに顔を向けた。
「蒼井さん、何か困ってること、ないですか?」
(あ。)
思わず息をのんだ。知らず知らずのうちに、握り締めた手がドキドキしはじめた胸を押さえていた。
そんな反応を確かめるように、宇喜多さんが遠慮がちにゆっくりと言葉をつなぐ。
「もしかしたら、誰にも相談できなくて困ってることが……あるんじゃないかと思って。」
「あの……、あ……。」
(まさか……。)
胸の中に「前下さん」という言葉が渦巻く。どこかに押しやられていた不安と焦燥が、それまでの楽しい気分に取って代わる。
(気付いてるの……?)
「最近、少し元気がないなあって……気になってて。あの……」
言葉を切った宇喜多さんが、ためらってからもう一度まっすぐにわたしを見た。
「特に朝……とか。」
(気付かれてた……。)
態度に出ていたんだ。隠しているつもりだったのに。
(どうしよう? どうしよう? どうしよう?)
前下さんのことを悪くなんて言えない。職場の先輩なんだもの。悪い人じゃないんだもの。
「ごめん。びっくりさせちゃった……かな?」
宇喜多さんがいたわるように微笑んだ。
「ええと……、ちょっと。」
わたしも微笑んでみる。でも、きっと笑えてない。胸はドキドキしっぱなしで……。
「ごめんね。でも、一人で我慢してるの……見ていられなくて。困っているなら頼ってほしいんだ。」
落ち着いた静かな声が胸に沁みこむ。
「心配いらないよ。蒼井さんに嫌いな人がいても、責めたりしないから。」
「あの、べつに、嫌いだとまでは――」
(しまった!)
これじゃあ、わたしが誰かのことで困ってるって白状したのと同じだ!
(どうしよう?)
この二週間、泣きたくなるほど困っていた。誰かに助けてほしいと思っていた。
だけど、前下さんはちゃんとしたひとだ。わたしのせいで悪い評判が立ったりしたら申し訳ない。
「蒼井さん?」
(でも、宇喜多さんなら。)
もう、一人で悩まなくていいのだろうか。
じわり、と涙が盛り上がってきた。のどの奥から「たすけて。たすけて。」と、言葉がせりあがってくる。
宇喜多さんなら、きっと助けてくれる。宇喜多さんならわかってくれる。宇喜多さんに頼れたら――。
「俺じゃあ役に立たないかな?」
控えめな声。やさしい表情。わたしを心配してくれている。
「あの……。」
口を開けたらまた、じわり、と涙がたまった。
「あの……。」
たまった涙がこぼれそう。慌てて口を閉じて。
「話すのもつらい?」
心配そうな表情に、また「たすけて」と心が叫ぶ。
「あの――」
とうとう涙がこぼれてしまった。
「あ……あれ? すみません。」
申し訳なくて下を向いたら、さらにもう一粒。急いで指先で涙をぬぐって。
「あ、あの、ごめん。」
「大丈夫です。何でもないです。」
「い、いや、俺が無理に話させようとして……。」
止めなくちゃ、と思うのに、止まらない。
「ご、ごめんなさい。あの。」
(ああ、どうしよう?!)
目の前で女の子に泣かれたりしたら、宇喜多さんはきっと困ってしまう。それに、こんなのわたしらしくない。わたしはか弱い女の子なんかじゃないのに。
(あ……。)
そっと頭に手が乗せられた。
(え?)
そのままぐらり、と体がかたむいて――。
「ごめんね。」
耳のすぐそばで声がした。
(うそ……。)
おでこが宇喜多さんの肩に当たってる。




