42 ◇ 救いの手はすぐそばに ◇
(どうしたらいいんだろう?)
隣で機嫌良く話している前下さんに曖昧な笑顔であいづちを打ちながら、困ったなあ、と思う。
(ここのところ、ほぼ毎日だもんね……。)
朝、かもめ駅で電車を降りると、たいてい前下さんと会う。同じ時間に到着する電車に乗ってくるらしい。
宇喜多さんと出かけた次の週の月曜日が最初だった。それが先週で、今日は二週目の金曜日。
どうも前下さんは電車の時間を変えたらしい。前はもう少し遅い電車だったはずだ。
(まさか、自分が目的だとは思いたくないけど……。)
いくら何でもそれは自意識過剰だと言われても仕方ない。それに、前下さんは特に思わせぶりなことを言ってもいない。……あのお昼以来は。でも、やっぱり態度が……。
「今度、ラケットを買い替えようと思ってるんだ。この前、新しいモデルが出てさあ、振ってみたらバランスがすごくいいんだよね。少し重めかなあとは思うんだけど。」
「前下さんは力があるから、ラケットが多少重くても問題ないですよね?」
「うん、まあ、今のはわりと軽いのを選んだからね。ちょっと違うものを使ってみたくなるよね。」
(普通の話題なんだけどなあ。)
何かを期待されているような気がしてしまう。どうしても一歩離れたくなる。傘をさしていれば少しは距離が取れるから、梅雨の時期で助かった。
こんなに気持ちが後ろ向きなのは、やっぱりわたしが前下さんが苦手だからなのかな。
でも、それは前下さんに対して不公平だよね。前下さんはきちんとしたひとだし、べつに、わたしに何かをしているわけじゃないのだから。
(でも。でも。でも!)
なんか、こう毎日だとつらいよ!
(杏奈さんには情報を流したのに……。)
「この時間に来れば前下さんに会えるよ」って。なのに、「そんなに早く出勤できない! 朝は支度に時間がかかるもの!」って……。
そりゃあ、好きなひとに会うのだから身支度に気合を入れなきゃっていう気持ちはわかる。それに、杏奈さんはそもそも朝が弱いのだ。今までだって無理だったのだから、さらに早い今はもっと無理だ。
(こうなったら粟森さんかなあ……。)
粟森さんなら何がなんでも来るんじゃないかな。でも、それじゃあ杏奈さんを裏切ることになっちゃう。それに、わざわざ粟森さんにそんなことを言うのは変だよ。
(わたしも時間を変えようかなあ。)
余裕があるから遅くすることもできる。もちろん、早くすることも。
だけど、このタイミングで変えたら、前下さんを避けていることを悟られてしまう可能性が高い。それはさすがに失礼だ。
(どうしたらいいんだろう?)
なんだか泣きたくなってくる……。
「姫〜。今日、帰りにメシ食いに行かないっすか?」
お昼休みの終わりに、宇喜多さんと一緒に戻って来た宗屋さんが誘ってくれた。
「今日ですか?」
「はい。宗屋がカレーが美味い店を知ってるって言うので。」
「へえ、カレーですか。いいですね。でも、宗屋さん、今日は残業は大丈夫なんですか?」
市民税の課税を担当している宗屋さんの係は、先月からずっと残業続きだった。
「もう六月も終わりっすからね、そろそろ落ち着いてます。それに三国さんが、『残業が多いのは仕事が遅い証拠だ!』って言うし。」
「ああ、三国さんは少し厳しいことを言いますもんね。いいひとですけど。」
「そうなんっすよ。でも俺、すげー尊敬してます。バリバリ仕事してカッコいいし。」
「ええ、わかります。」
三国さんは宗屋さんの隣の席の女性。ご主人は県の職員で、二人のお子さんを保育園と学童保育に預けて仕事をしている。だから高品さんと同じように、残業が自由にできる状況ではない。でも、係長さんからの「少し業務量の軽い地区の担当にしましょうか」という提案を断ったそうだ。そして、時間中に少しでも多くの仕事を片付けるため、三国さんはいつでも小走りだ。
「ということで、姫、カレー食いに行きましょう。」
「はい。ぜひ!」
「じゃあ、俺たちも仕事を片付けましょう。」
「そうですね。」
宗屋さんの力強い明るさと宇喜多さんの落ち着いた笑顔を見るとほっとする。宇喜多さんたちと仲良くなれて、本当に良かった。
ここのところ、毎朝つらかった。この二人と出かけたらきっと良い気分転換になる。明日はテニスでまた前下さんに会うけど、テニス部のときは宇喜多さんと宗屋さんも一緒だし。
それに、カレー屋さんなんて、なんだか楽しそう!
宗屋さんが案内してくれたのは、横崎駅から少し歩いた路地にある小さなお店だった。インドの人がやっているインド料理のお店で、何種類ものカレー以外にもお料理がいろいろあった。店内はエキゾチックな雰囲気に飾り付けがされていて、席ごとに布の屋根のようなもので区切られているところが屋外のテントにいるようでわくわくする。
甘口だと言われたチキンのカレーは、本当に甘かったのでびっくりした。お料理もいくつか頼み、宗屋さんと宇喜多さんはビールを飲んで、わたしはチャイという甘いミルクティーにした。
お互いのカレーを味見したり、スパイスが効いたインドのお料理をつついたりしながら、三人でたくさん笑った。宗屋さんと宇喜多さんは、大学時代の部活のことを面白おかしく話してくれた。
宗屋さんはうっかり弟さんの空手の道着を持って試合に行ってしまい、着てみたら小さくて恥ずかしかったそうだ。体格の良い宗屋さんの、小さい道着から腕や脚がにょっきりと出ている姿を想像したら、笑いが止まらなくなってしまった。
宇喜多さんは部内の試合で先輩の片思いの女の人とダブルスを組んだとき、嫉妬したその先輩に試合で狙い打ちされて、とても怖い思いをしたという。
「コートじゃなくて、俺を狙って打ってくるんだから! ここだよ!」
と、手で耳の横あたりにボールの軌道を再現してくれた。
そんな話が次々と飛び出して、笑ってばかりで、食べるのがなかなか進まないくらいだった。
「あ〜、久々にしゃべりまくったぜ〜!」
お店を出たのは八時過ぎ。雨上がりの湿った夜の空気の中で、宗屋さんが気持ちよさそうに伸びをした。
「久々だし金曜の夜だから、いつもならもう一軒っていうところだけど。」
そこでわたしと目が合った。
「わたしのことならお構いなく。せっかくですからお二人で行ってきてください。わたしはこれで帰りますから。」
お酒を飲みに行くのに、飲めないわたしが一緒にいたら気を遣わせてしまう。
でも。
「違う違う、姫、そうじゃなくて。」
宗屋さんが笑いながら言った。
「明日はテニスの練習があるから、早く帰った方がいいなって言おうと思ったんすよ。」
「ああ。」
なるほど、と思いながら宇喜多さんを見ると、宇喜多さんも微笑んで同意した。
「明日は快晴の予報が出ていたからね。暑くなりそうだし、たっぷり休んで仕事の疲れを取っておかないと、炎天下のテニスはキツいよ。」
「だよな〜。あ〜、俺、インドア派なのに〜。」
「あはは、そりゃあ、確かに空手はインドアだけどさ。」
駅までの道を歩きながら、また話に花が咲く。何度も笑い声があがる。こんなに笑ってばかりいるのは……もしかして、初めて?
(就職してからは初めてだ。)
職場や同期の付き合いで、こんなに笑ってばかりいたことは無い。花澤さんが一緒にいたときでも。同期のあいだでも。人見知りもあるし、年上の人たちにはやっぱり気を遣っているから。
でも、この二人は違う。
年上だけど、仲間っていう感じ。
(高校時代の友だちよりも、近い関係かも?)
高校でも楽しいことはあった。けれど、わたしの仲良しは比較的おとなしい子が多かった。こんなに盛り上がって大笑いするような友だちはいなくて。
(そうだ……。)
口には出さなかったけど、頭の中ではよく面白いことを考えていた。くだらないダジャレとか、少しキツい冗談とか、少し変わったことをやってみたい、とか。
けれど、考えただけ。
くだらないことを言ったら、友だちが引くんじゃないかと怖かったから。優等生っぽい自分のイメージは好きじゃなかったのに、それを壊すような言葉や行為を表に出す勇気がなかったのだ。
(弱虫だったな……。)
そんなわたしだったから本当のことを……家庭の事情や進路のことを打ち明けることができなかった。仲良くしていた友だちにさえも。
そして、卒業以来、高校時代の友だちとはほとんど連絡を取っていない……。
(でも。)
今のわたしにはこんなに気兼ねなく笑い合える……お友だちがいる。宇喜多さんも宗屋さんも、こんなふうに、わたしを仲間として扱ってくれている。そしてわたしは優等生の顔をする必要が無い。
(とっても幸せだ。)
わたしって、すごく恵まれている。
もう一話、蒼井さんが続きます。




