38 蒼井さんの事情
蒼井さんはぬいぐるみの犬に「ストーミィ」という名前を付けた。毛が強風になぶられたように乱れていることと俺の名前の「雷斗」から、嵐【ストーム】を連想したのだ。
それを聞いて、俺は思わず笑ってしまった。小さくて甘ったれた顔の犬なのに、名前だけは強そうで。
すると、蒼井さんは犬と顔を見合わせた。それから、
「そんなこと言うと、咬みついちゃうよー。」
と、犬を俺の肩に乗せて脅してきた。
今日の蒼井さんはなんて可愛いんだろう! そして俺はなんて幸せなんだろう!
帰るまでにどんなに楽しいことが起こるのか、非常に楽しみだ!
川浜大師を行き先に選んだのは正解だった。にぎやかで健全で、蒼井さんと俺みたいなあまり遊びの経験の無い者同士が出かけるにはちょうどいい。
少し離れた駐車場からお寺まで、土産物屋が並ぶ参道をゆっくりと歩いた。
正月や何かの行事にはにぎわうこの通りも、雨の今日はあまり混んではいない。かと言って閑散としているわけでもなく、適度な人通りで楽しい雰囲気が漂っている。俺たちは二人並んで傘をさし、すっかりお上りさん気分できょろきょろしながら歩いた。
境内では大きな線香立てに群がる人たちを真似て、二人でくすくす笑いながら煙を浴びた。祈願の申し込み場所さえめずらしくて、二人とも申し込む気はないのに、願い事の言葉――「大願成就」や「家内安全」など――を選んでみたりした。
厄払いのお参りのひとのために厄年一覧表もあり、よく見たら、蒼井さんは女性の十九歳の厄年が、去年までで後厄まで終わっていた。十九歳の厄年なんて知らなかったと蒼井さんはものすごく驚いて、また笑った。
「悪いことは何も起きなかったんですか?」
「うーん……。」
俺の質問に彼女は少し考えて、「ああ」と何かを思い出した。それから少し迷ったあと、すっきりした笑顔で言った。
「あったけど、今はもう大丈夫です。」
「あったんですか?」
「はい。あの……大学に行けなかったこと。」
(あ……。)
悪いことを訊いてしまった。つらいことをわざわざ思い出させるようなことを。
「ごめん。あの……。」
「あ、大丈夫です、本当に。宇喜多さんのおかげで。」
「俺の……?」
「はい。」
笑顔でうなずいて、彼女は傘を開いた。俺もすぐに隣に並ぶ。本堂に向かってゆっくり歩きながら、彼女が話し出した。
「お母さんから葉空市の採用試験を受けてくれって言われたのは、高校三年の夏休み前でした。」
「高三の夏?」
「はい。それまでは就職なんて考えてなかったんですけど。」
びっくりした。だって、それではあまり急すぎる。
「言われたときにはもう募集が始まってて。」
「そうだったんだ……。」
何をどう言ったら良いのかわからない。
「うち、お金が無くて。」
ピンク色の傘の下の横顔は、微かに微笑みを浮かべている。それがかえって胸が痛む。
「国立大学だったらバイトと奨学金でどうにか行けるかなーって思って勉強してたんです。でも……。」
そこで彼女の声が揺れた。
思わず「もう話さなくてもいい」と言おうと思った。でも、気丈に俺に微笑んでみせた彼女を見たら言えなかった。
「そう言われとき、『ああ、無理なんだな』って思って。」
「ああ……。」
「今になれば、授業料はどうにかなったとしても、生活費が厳しかったんだなってわかります。弟もいるし。」
「そう……。」
「でも、あのときはショックで……、悲しいっていうよりも、空っぽになった感じでした。」
「うん。」
そこで彼女は「うふふ」と笑った。その笑顔は少し淋しそうに見えた。
「あの年がちょうど本厄だったんですね。それじゃあ仕方なかったですよね?」
「……そうだね。」
それが厄のせいで起きた災いだとしたら、あまりにも大きすぎると思う。本人の将来全体にかかわる不幸だなんて。
でも、俺に何が言えるっていうんだ? 俺はまだ自分の将来を目の前からもぎ取られたことなど無いのに。
蒼井さんが、それが他所からやって来た避けようのなかったものだと考えた方が楽ならそれでいい。何かを恨んだり、怒りを胸に秘めて毎日を過ごすよりも……。
本堂に着き、傘をたたんで、一緒にお参りをした。
(どうか、蒼井さんが幸せになれますように。)
ご本尊の前で手を合わせて祈る。
俺のことなんかどうでもいい。俺なんかよりも、悲しい経験を乗り越えてきた蒼井さんが幸せに――。
(いや違う。そうじゃない。)
天に任せるんじゃない。俺の望みはそうじゃない。
(蒼井さんを幸せにします。俺が。絶対に。)
俺の手で幸せにしてあげたい。そして、彼女の幸せが俺の幸せにもなるはずだ。
目を開けると、隣で蒼井さんがにこにこしていた。その笑顔にもう一度誓った。俺が幸せにする、と。
「今はもう大丈夫ですよ。」
本堂の庇の下、傘に手をかけて彼女が言った。
「もうあんまり不幸だとは思っていません。宇喜多さんのおかげで気持ちが切り替えられたので。」
「俺は……何もしてないけど。」
「そんなことないです。」
傘を開きかけたまま止まる。
「宇喜多さん、『大学に行かなくても遊べる』って言ってくれたでしょう? あの言葉でわたし、楽しいことが無くなっちゃったわけじゃないって気が付いたんです。」
「ああ、あのとき……。」
蒼井さんを初めて送って行った夜のことだ。あのときに俺は、蒼井さんが本当は大学に行きたかったのだと気付いたのだ。
でもあのときは、彼女が進学をあきらめた原因が経済的な理由だとは知らなかった。そういう境遇の子どもがいることは知っていたけれど、自分の身近なひとが該当している可能性を考えたことはなかった。しかも蒼井さんの場合、それほど突然に就職が突き付けられたのだ。大学を目指していた彼女にとって、それはどれほどショックだったことだろう。なのに、彼女はそんなことをまったく感じさせないほど明るくて……。
「あのときまでは、自分の人生にはもう楽しいことなんか無いって思ってました。夢も叶えられないし、毎日毎日ただ働いて一生が過ぎて行くんだって。友だちはみんな進学して将来を切り開いていくのに。……でも今は、わりと幸せかなって思ってます。一人暮らしで自由もあって、身分が安定していて、周りのひとも親切で。」
「それは……蒼井さんの人柄だよ。」
頑張っている蒼井さんには、誰だってやさしくせずにはいられないに決まってる。
「そんなこと無いですよ。わたし、とっても恵まれてると思います。花澤さんはいい人だったし、……宇喜多さんも。」
そこで彼女はにっこりした。まるで花が開くように。
「宇喜多さんがうちの職場に来てくれて本当に良かったです。…あ。もしかしたら、厄が明けたせいかな?」
考えるように小首をかしげ、また笑う。
「うん、きっとそうですね! じゃあ、これからはたくさん良いことがあるかも!」
その言葉に思わずじーんと来た。こんなにまっすぐで晴れやかな笑顔で未来に向かおうとする姿にも。しかも、俺との出会いを良いことの筆頭みたいに言ってくれるなんて。
「え、ええと……」
感動したことがなんだか照れくさくて、それを隠すために急いで言葉をつなぐ。
「お役に立てて嬉しいよ。あの、これからも」
そう。これからも。
「蒼井さんの役に立つから。だから、遠慮しないで何でも言っていいからね。」
「ふふ、姫だからですか?」
彼女がちょっとふざけた調子で問いかける。
「ああ…うん。姫で」
迷ったけれど、言ってしまうことにした。今はどうしても言いたい気分だ。
「許婚だから……ね。」
(うわ。さすがに素面で言うには恥ずかしいな。)
だんだん声が小さくなってしまったのがちょっと情けない。しかも、自分で言っておいてドキドキしてしまうなんて。頬に血が上ってきたことがわかったので、顔を背けて急いで傘を広げた。
「その設定、本当にありましたっけ?」
先に踏み出した俺に、背中から質問が追いかけて来る。すぐに本人も。
「あったよ。」
設定どころか、俺の中ではもう決定事項だ。蒼井さんだって、こうやって俺に言われ続けているうちに、いつの間にかそんな気分になってくるかも知れない。
「でも……。」
隣から落ち着いた声が聞こえる。
「本当は姫なんかじゃないですね? 貧乏なうちの子だから。」
(蒼井さん……。)
なんてもどかしいのだろう。
こういうとき、気持ちを行動で示せたらいいのに。しっかりと手を握って、蒼井さんは俺の大事なひとなのだと伝えられたら。
「どんな家庭で育っても、今の蒼井さんは蒼井さんだよ。姫の称号は蒼井さんが自分で獲得したんだからいいんだよ。」
「自分で……っていうほどでは……。」
「そんなことないよ。宗屋だって、そういうイメージがあったから思い付いたわけだし、俺、も、……似合ってると思うよ。」
引きそうだと思った頬の熱がまた上がった。それを隠すように話題を変えてみる。
「お守りを選んだら、お昼にしようか。」
「あ、はい!」
元気な返事にほっとした。
「何がいいかなあ。どこか美味しいお店があるんですか? こういう場所だとお蕎麦屋さんかなあ。それともどんぶり屋さんかなあ。」
「俺もよくはわからないけど……。」
思わず可笑しくなってしまった。蒼井さんは目の前のお守りよりも、昼ご飯の話に夢中になってしまったようだ。もしかしたら、お腹が空いているのかも知れない。いつもはこんなことは無いのに。
やっぱり今日はプライベートなのだと思ったら、一層、今の時間が大切に思えた。
「まずはお守りを選ぼう。お昼はそれからね。」
「はーい。あ、これ、かわいい。宇喜多さんは交通安全ですよね?」
お授け所に並んだ色とりどりのお守りを嬉しそうに見る蒼井さん。そんな無邪気な彼女を見ていると、胸の中が温かくなる。
いつまでもこんな時間が続くといいのに。




