37 土曜日の朝。出発!
土曜日の午前10時少し前。前日の夜に届いたばかりの車に乗り込んだ。
紺色の車体、シートは黒。車内はまだ新車独特のにおいがする。部屋から持って来た小さな犬のぬいぐるみを、少し迷ってからダッシュボードの上に乗せた。
(大丈夫なんだろうか?)
起きてからずっとつきまとっている不安で胸が痛いくらいだ。
きのうは仕事があったし、蒼井さんがいつもと変わらないように見えたからあまり気にならなかった。けれど、今朝になってみたら、蒼井さんは俺に気を遣っていただけではないかと思えてきた。
だって、礼儀正しい彼女が不愉快な気持ちを表に出すはずがない。本心では二人で出かけるのが嫌であっても。
そんな不安を抱きつつ、宗屋に言われたことも頭を離れない。今日は土曜日。蒼井さんは一人暮らし。もしも遅くなったら――。
(ああ、もう!)
こんな不純なことを考えながら出かけるなんて最低だ。
(どんなに遅くなっても、必ず送り届ける。)
それだけは絶対に守らなくては。そうすれば、蒼井さんからの信頼を失わずに済む。その積み重ねがいつか……、いつか……、それ以上は考えないことにしよう。
とは言うものの、多少の期待がふくらむのは禁じ得ない。だって、二人きりででかけるのだ。彼女との距離が縮まるような小さなハプニングの一つや二つ、起こる可能性が無いとは言えないじゃないか。
(あそこの角を曲がったら。)
もうすぐ蒼井さんのアパートだ。家を出るときにメールをしたから、もう準備はできただろうか。彼女はどんな顔で出てくるのだろうか……。
アパートの手前で車のスピードを落とすと、建物の陰からピンク色の傘がひょこっと出てきた。その下の蒼井さんが車の中の俺を確認し、空いている手を肩の前でかわいらしく振った。
(おお、笑顔だ……。)
何度も思い描いていた場面を目の当たりにして、気分が急上昇。声をあげて笑いだしそうだ。
彼女の前で車を停め、手を伸ばして助手席側のドアを開ける。
「おはようございます。お待たせしました。」
「おはようございます。今日はよろしくお願いします。」
屈んであいさつを返してくれた彼女の肩に三つ編みにした髪がすべる。笑顔はいつもどおり、ふっくらした頬が少し幼い。
「こちらこそ、付き合っていただいてすみません。」
「いいえ。おじゃまします。」
蒼井さんが慣れない様子で傘をたたんで乗り込んでくる。もしかしたら車から降りて、彼女に傘をさしかけてあげるべきだったかも知れない。
(次はそうしてあげよう。)
そのシーンを想像して嬉しくなっているあいだに、助手席に座った彼女が細長い袋を広げて自分の傘をするりと入れた。
「あ、これ、傘バッグなんです。」
俺の視線に気付いて、彼女がそれを持ち上げてみせてくれた。水色のその袋には小さい持ち手がついている。
「車の中を濡らしたらいけないと思って、きのうの帰りに買ってきました。」
「気を遣わせちゃいましたね。すみません。」
「いいんです。電車でも使えるので。」
彼女の心遣いも笑顔も嬉しい。
(あれ?)
傘バッグのすぐそばにあって目に入ったのは……脚。オフホワイトのキュロットから伸びている足元は白いソックスと茶色のひも靴。なんだかめずらしい気がして、そのまま彼女が着ているものに目が行った。
「いつもと雰囲気が違いますね……。」
思わず口に出してしまった。
だって、本当に違うのだ。
生成りの木綿生地のキュロットは、茶色のベルトのウエストから膝丈の裾へたっぷりと広がっている。ブラウスは明るい紺に微かに赤い糸が混ざった生地で、短めの半袖と首もとで結んであるリボンが女の子らしい。仕事のときの服とも、テニスのときの休日服とも違う。きちんとしていながらカジュアルで、なんて言うか……とても蒼井さんらしい。
「あ、わかりますか?」
蒼井さんは少し恥ずかしそうに小さな茶色いリュックを膝に乗せ直した。
「ええと……これもきのう買ったんです。」
うつむき加減で彼女が言った。
「あ、そうなんですか?」
「実は、着てくるものが無くて。」
そう言って、微笑みながら肩をすくめた。
「仕事用の服以外はジーパンくらいしか持ってなくて、いくら何でもそれじゃちょっとなあ、って思って。きのうの帰りに大急ぎで買いに行っちゃいました。」
「お、…今日の、ために?」
ぎりぎりで「俺のため」を「今日のため」に言い直した。のどにこみ上げてきたものがあって、小さく咳払いをする。だって、俺と出かけるために服を新調したなんて。
「はい。」
俺が感動しているとは知らずに彼女がにっこり笑う。
「あんまり汚い恰好してたら、一緒にいる宇喜多さんが恥ずかしいでしょう? それじゃあ申し訳ないから。」
俺に見せるためじゃない。でも、俺のことを思って買いに行ってくれたのだ。むしろその方が彼女らしいし、嬉しい。
「あ……ありがとう。あの、似合って、ますよ、とても。」
「ホントですか? 良かった! 雨の中を荷物抱えて帰って来た甲斐がありました。」
ほっとしたように喜ぶ姿に胸がキーンと痛くなった。
(やっぱり好きだ。すごく。)
愛しい気持ちがあふれそうになる。思わずギュッとハンドルを握った。
さっさと「好きです」と言ってしまいたい。そうすれば、こうやって衝動を抑え込む必要なんか無いのに。
(でも、言えないよな……。)
言った途端に気まずくなる可能性もあるのだ。そして来週からの職場は……。
「じゃあ、出発しましょうか。」
感情を隠して彼女に笑顔を向ける。彼女は「はい」とうなずいて、「あ」と何かを思い出した。
「シートベルトですよね。」
独り言のように言い、ドア側のシートベルトを探す。俺も自分のシートベルトをかけて――。
「あれ?」
蒼井さんの声にエンジンをかけようとした手を止めた。視線を向けると、蒼井さんは首を傾げていた。
「どうしました?」
「なんか……引っかかってるみたいで……。」
つぶやきながら、シートベルトをガシガシと引っ張っている。けれど、いくら引っ張っても、シートベルトが途中で止まってしまうようだ。一旦放してやり直しても同じこと。
「ちょっと……いいですか?」
自分のシートベルトをはずして彼女の方に手を伸ばす。蒼井さんは途中まで引っ張ったシートベルトを俺に握らせようと――。
(うっ。これは。)
体を支えるために助手席の側面についた左手。蒼井さんの前に伸ばした右手。すぐそばに蒼井さんの横顔。
頭の中に、彼女とキスをする自分が見えた。
(今、「蒼井さん」って呼んだら。)
心臓がドキドキとスピードを上げた。
(彼女はこっちを向くはずだ。その唇に素早く。いや、ゆっくり?)
鼓動がまるで応援団の太鼓のようだ。「今だ! 行けるぞ!」って。でも――。
「引っ張る向きがあるのかもしれませんね。」
妄想はうるさい心臓の後ろに押し込めた。
受け取ったベルトを引っ張ってみると、何の抵抗も無くシューっと伸びてきた。そっとついた吐息には、安堵と残念さが入り混じった。
「あれ?」
また首を傾げる蒼井さんに害のない微笑みを向け、体を戻してからベルトを固定。カチャリという音を聞きながら、邪魔にならないようにとじっとしている彼女に、心の中で「つかまえた」と言ったら楽しくなった。
「すみません。わたしが下手なんですね、きっと。」
「いいえ。これくらいのこと、いつでもどうぞ。」
シートベルトがこんなに楽しいものだとは知らなかった。どうせなら、俺をシートベルト係に任命してほしいくらいだ!
思いがけない接近ができたことで期待が高まる。これからもこんな展開があるかも知れない。今の様子だと、やっぱり彼女は俺を警戒してはいないようだし。上手くいけば夜まで――。
(うわああああ、俺はなんてことを!)
そんなことを考えるのは蒼井さんへの裏切り行為だ。しかも、まだ朝なのに!
(俺は真面目が売り物だろうが!)
自分を叱り、エンジンをかける。でも、もしかしたらお別れのキスくらい……?
「川浜大師でしたっけ?」
知らせておいた行き先を彼女が確認した。それで現実が目の前に戻って来た。
「はい。交通安全のお守りをもらっておこうかと思って。」
「新しい車ですもんね。」
迷っていた俺にそれを提案してくれたのは母だ。うちは昔からそこで車のお祓いをしていて、俺も子どものころには一緒に行っていた。今日はお祓いまではするつもりは無いけれど。
「参道にお店がたくさんあって、にぎやかですよ。」
「そうなんですか。楽しみ♪」
蒼井さんの楽しげな笑顔に心が温かくなる。つまるところ、普段はあまり遊んでいないらしい蒼井さんを楽しませてあげることができるなら、それで俺も嬉しいのだ。
二人で参道の店をながめながら歩く場面が目に浮かぶ。色とりどりの縁起物をみてはしゃぐ蒼井さんと、それを微笑んで見ている自分――。
「あ、犬だ。」
蒼井さんがダッシュボードの上の犬のぬいぐるみに気付いた。
「それ、あのときにもらった犬ですよ。」
「あ、そうなんですか? こんにちは、ワンちゃん。」
そう言って手に取ると、鼻をくっつけるようにしてあいさつをしている。
「お名前は?」
「え? あはは、無いですよ。」
「じゃあ、せっかくだから、付けてあげてもいいですか? あ、カーナビにも雨が降ってる。」
「ああ、そうなんですよ。よくできてますよねぇ。」
めずらしげにカーナビをのぞき込む姿もかわいらしい蒼井さん。今日は俺が独り占めだ!




