34 作戦を練ってみた、が。
(見落とさないといいんだけど。)
金曜日の朝のかもめ駅。人混みを避け、改札口からあふれてくる人の波を見つめる。梅雨らしいしとしと雨と蒸し暑い空気の今朝は、ワイシャツ姿に長い傘を持った人がほとんどだ。
こんなふうに思惑を抱いて誰かを待つなんて、高校生のとき以来かも知れない。葵と一緒に登校したくてコンビニで時間調整をしていたあのころ。
職場に行けば、もちろん会える。でも、邪魔が入らないところで話がしたい。とすれば、駅から区役所までの道が一番都合が良いだろう。
メールで待ち合わせを伝えておけば簡単なのはわかっている。けれど、そんなことをしたら理由を詮索されてしまう。とにかく偶然を装いたい。
(来た!)
高校生よりもずっと足早に流れていく大人たち。その中に見慣れた姿が見え隠れしている。それをめがけて、人びとのあいだをすり抜ける。
「宗屋。おはよう。」
「ん? ああ、宇喜多か。おす。珍しいな、ここで会うのは。」
「ああ、そうだな。」
順調な滑り出しにまずは一安心。
「今日はしっかり降ってるなあ。」
宗屋が傘を広げながら言った。
またしてもチャンス。この話題が出れば話しやすい。これで、今朝の目的の八十パーセントは達成できたと思っていいはずだ。俺も傘を差しながら話題に乗っかった。
「梅雨だからな。明日も雨だと思うか?」
もちろん、そんなことは昨夜から何度も確認済みだ。
「明日どころじゃないよ。五日間くらいずっと雨の予報だぞ。」
「そうなのか。じゃあ、明日はテニスの練習は無いんだな。」
わかっていた宗屋の答えに、がっかりした声音で応じてみせる。
「だな。雨が降ったらコートは使えないんだろ?」
「うん。」
(さあ、いよいよだ。)
宗屋の様子を確かめて、次の言葉を準備する。
こういうときは、自分の心を一歩後ろに下げるのがコツだ。相手の反応に影響されないように、言ってみれば意識的に自分を分離する。昨夜は表面と内側のほかに、さらにもう一人の自分がいて、それでもあまり役に立たなかった。でも、酔っていなければ自分の言動は完璧にコントロールできる。ここ一番というときには、俺はこの方法でいろいろな場面を乗り切って来た。
「明日、どうしようかな。」
思案顔でつぶやいてみせる。宗屋がちらりと俺を見たのを確認。
「ほら、今日、車が届くだろう? 明日、慣らし運転のつもりだったんだよ。」
「ああ、そうだったなあ。迎えに来てくれることになってたんだよな。新車に乗せてもらうはずだったのに、残念だなあ。」
(よし!)
希望どおりの展開だ。
「そうだよなあ……。うん、そうだ。せっかくだから出かけないか? 車なら雨でも問題ないし、練習が無くなればヒマだろ?」
「あ、いや、悪い。俺、もう用事入れちゃったよ。」
「え?!」
驚き過ぎだと自分でわかった。でも、雨と傘のおかげで宗屋には気付かれなかったようだ。
「きのう、大学の後輩から就活の相談に乗ってほしいって連絡が来てさあ、どうせ雨だと思ったから明日にしたんだ。」
「そうなのか……。」
(どうしよう。困った。大変なことになった。)
予想と違う成り行きに気持ちが焦り始めた。
宗屋が来てくれなければ、明日は蒼井さんと二人だ。それは心躍るシチュエーションではあるが、その反面、俺の気持ちを蒼井さんに気付かれてしまう可能性もある。
それは困る。ものすごく困る。
だって、蒼井さんは職場の先輩だ。俺とは隣同士に座っていて、二人で担当している仕事もある。そういう状況で、俺の気持ちを知られてしまうのはお互いに気まずい。
しかも、きのうは酔っ払った状態で半ば強引に明日のことを了承させた。家まで送ったことも、その途中の行動も、すべてが蒼井さんへの想いから出たことだ。彼女が気付いていないのを利用して、俺は自分の願望を押し通した――。
(だめだ。絶対に嫌われる。)
真面目な蒼井さんのことだ、俺の不純な動機に気付いたら、きっと軽蔑するだろう。いや、それよりも、ショックを受けるかも知れない。だって、彼女はまだ十九歳なのだ――。
「悪いな、宇喜多。でも、姫と行けばいいよな? 家も近いんだし。」
焦ってぐるぐる考えている俺を、がっかりしていると思ったのだろう。宗屋がとりなすように言った。
「い、いや、それはダメだ。」
思わず宗屋の腕をつかんでいた。
「一緒に行ってくれなきゃ困る。絶対に。頼む、宗屋。」
「な、なんだよ?」
揺れた傘からしずくが降って来た。でも、そんなことを気にしている場合じゃない。もうすぐ職場に着いてしまう。そして、蒼井さんもやって来る。
「後輩の方は日曜でもいいじゃないか。な? 頼むよ。頼む。」
「え、なんでそんなに……?」
宗屋が戸惑う気持ちはわかる。でも、ここはなんとかオーケーしてもらわないと。
「宗屋に来てほしいんだよ。どうしても。」
「お、お前……。」
宗屋の表情に疑いがにじみ出る。思わず視線が泳いだ。そんな俺を宗屋はまっすぐに見つめて――。
「宇喜多、もしかして……俺に気があるのか?」
「えぇっ?!」
驚きのあまり一歩飛びのいてしまった。後ろの人と傘がぶつかり、慌てて謝る。
「そ、宗屋。それは違う。誤解。誤解だから。」
声をひそめて否定した。宗屋は「ふうん」と言いながらも、なんとなく納得の行かない顔をしている。
「あんまり熱心に頼むから、そんなに二人で出かけたいのかと思ったんだけど……。」
「そこが違ってる! 二人じゃないよ、三人だよ! 宗屋と俺と、蒼井さん。」
さっき、自分だって蒼井さんを誘えと言ったのに!
「俺だけ誘って、姫を誘わないつもりかと思った。」
「違うよ。蒼井さんはもうオーケーして――」
(しまった。)
これは言わないつもりだったのに。
「ん〜〜〜〜?」
案の定、宗屋が探るような目を向けて来る。眉の太いくっきりした顔立ちで鋭い目つきをされると迫力がある。
「いつ決まったんだよ?」
「ん……、きのうの帰り、かな。」
「……へえ。」
「ほ、ほら、決算の打ち上げがあってさ、一緒に行ったから。」
慌てて言い訳をしていることが、自分でも怪しいと思う。
「ほう。ってことは、テニスの練習が休みになるってことは、きのうの夜には予測がついていたわけだな。」
(ぐ……。)
何も言い返せない。
「なのに、わざわざとぼけてその話を持ち出したわけか。なんでだ?」
冷たい視線。
蒼井さんへの行動で最初から後ろめたさがあった身に、そんな視線はつらい。
「蒼井さんと二人で行くのが……ちょっと……。」
「はぁ? もしかして、姫が行きたいって言ったのか? それを断れなくて困ってるのか?」
「あ……いや、誘ったのは俺なんだけど……。」
しかも、「強引に」だ。
「困るのに、なんで誘ったんだよ?」
「それがその……、酔っ払ってて……。」
「酔っ払うって、お前、酒強いだろう? やりたくないこと言い出すほどわけ分かんなくなってたのか? 姫の前で?」
「飲み過ぎたのは確かだけど……、べつにやりたくないことっていうわけじゃ……なくて……。」
ごにょごにょと声が小さくなってしまう。
「ちっともわからん。」
宗屋があきらめの口調でため息をついた。それから俺に真剣な顔を向けてきた。
「じゃあ、お前が誘ったんだな?」
「……うん。」
「イヤじゃないんだな?」
「うん。」
「姫はオーケーしたんだな?」
「……うん。」
「わかった。あとは俺に任せろ。」
「え? 宗屋……?」
ちょうど区役所に着いたところで、宗屋が頼もしく請け合ってくれた。「俺に任せろ」と言ってくれたということは、安心して良いに違いない。
「大丈夫だ。姫は素直だから。」
ほっとして力が抜けた。これで蒼井さんといつもどおりに接することができる。
「おはようございます。」
蒼井さんが到着したのはその少しあと。ベージュのレインコートとくるくるとまとめた髪、ふっくらした頬と微笑みを浮かべる口元。今朝は、彼女の周囲が特別に明るく爽やかに見える。
けれど、昨夜の自分の言動を思い出すと、まっすぐに彼女を見られない。その一方では、彼女に触れられた感触やネクタイを結んでもらったときのときめきが復活して、胸の中が乱れてしまう。しかも彼女は、あんな俺のことを怒っている様子は無く……。
「おはようございます。きのうはちょっと飲み過ぎました。みっともないところをお見せしてすみませんでした。」
動揺を隠すのは慣れたこと。酒が抜けている今はもちろん完璧だ。
「いいえ。楽しかったですよ。」
(楽しかったのかー……。)
彼女の笑顔に引きずられそうになる。
「あ、姫。おはようっす。」
給湯室から出てきた宗屋が声をかけた。さっき「任せろ」と言ってくれた宗屋がどう話を切り出してくれるのか、期待しながらこっそりと耳をそばだてる。
「明日、宇喜多の新車で出かけるんっすよね?」
(さすが宗屋。)
話題を出すのに迷いが無い。
「あ、はい。宗屋さんも行けるんですよね?」
(ああ……。)
覚悟していたけれどがっかりした。蒼井さんはやっぱり俺と二人でとは思っていなかったのだ。
「いや、俺は行けないんで、代わりにしっかり楽しんできてください。」
(えぇっ?!)
行ってくれるんじゃなかったのか? しかも、「任せろ」って言った割に、ただ正直に事実を告げただけじゃないか!
「あれ、行けないんですか?」
「はい。ちょっと用事ができて。」
「それは残念です。」
「なんか美味いものでも食ってきてくださいよ。車ならちょっと遠出もできるし。」
「ホントだ。そうですね。」
(「そうですね」って……。)
つまり、いいのだろうか。蒼井さんは、俺と二人で出かけても。
成り行きにそわそわしてしまう。様子を確かめる前に、蒼井さんはロッカー室に行ってしまった。ぼんやり視線をめぐらすと、目が合った宗屋が得意気にニヤリと笑った。
「昼にきのうのこと詳しく教えろよ?」




