32 酔っ払ってみたら…。
やっぱり飲み過ぎている。間違いなく。
「お疲れさまでしたー。」
「お気をつけて。」
決算の打ち上げが終わった店の前であいさつ。葉山に二軒目に誘われたけれど、それは断った。「明日も仕事だから」と。
でも、断った本当の理由はそれじゃない。飲み過ぎたからでもない。本当の理由は――。
「蒼井さん、帰りましょう。」
蒼井さんを送って行くためだ。
「あ、はい。じゃあ、道浜さん、お気をつけて。」
「はいはい、まったね〜。宇喜多くーん、春ちゃんをよろしくね〜♪」
「はい。大事にお預かりします。」
にこやかに応える俺。外側の俺。その状況をほくそ笑んで見ているいる俺。内側の俺。そして、そうやって猫をかぶっている自分を分析している冷静な俺。
――酔っ払っている。
ここまで酔うことは滅多に無い。たぶん、過去に一度くらい。
酔っ払ってはいるが、完璧に酔いつぶれてはいない。醒めた自分が自分の言動を見ている。でも、見ているだけだ。
「宇喜多さん、まだ早いから家まで送ってもらわなくても大丈夫ですよ?」
駅に向かいながら蒼井さんが言う。
「何言ってるんですか。俺は道浜さんと約束したんですからね。」
話がそっちに行くように誘導したのは俺だけれど。
「あれは道浜さんが酔っ払って――」
「でも、もう暗いですから。」
「暗いって言ってもこのくらいの時間なら――」
「時間なんか関係ありません。…あ、もしかして。」
「何ですか?」
俺が少し怖い顔をしたので、蒼井さんはきょとんとして首を傾げた。
「一人でどこかに遊びに行くつもりじゃないでしょうね?」
「え? 今からですか?」
「ダメですよ、遅くまで遊んでちゃ。変なヤツにつかまっちゃいますよ。」
「やだなあ、行きませんよ、遊びになんか。」
「本当ですか? 本当かどうか、ちゃんと見届けますからね。」
(ああ、俺は何をやってるんだろう……。)
自分で呆れてしまう。と言うか、恥ずかしい。本当は単に自分が蒼井さんを送って行きたいだけのくせに。
変な理由をこじつけている。でも、心の中にあるのはただ一つ。
――今度は俺の番だ。
宴会のあいだは花澤さんに取られて、戻って来ても葉山と道浜さんがあらわれて。だから帰り道は俺の番。
(ああ、酔っ払ってる……。)
こんなことを考えるなんて。普段の俺はこんなに強引じゃないはずだ。
でも、抑えられない。
心の中の堅い石づくりの壁が崩れて、中にあったものが一気に流れ出て来たような感じ。そこに詰め込まれていたのが蒼井さんへの想いだったことに今、気付いた。胸の中がその想いでいっぱいになっていることに驚きつつ、彼女を独り占めしたいという気持ちが抑えられない。
そして、その壁を崩したのは――。
(蒼井さんだ。)
いや、違う。酒を断らなかった自分だ。でも、俺にあんなに飲ませた蒼井さんにも責任が……いや、違う、道浜さんが弱いから。でも、蒼井さんが俺に飲めって――。
(だめだ、やっぱり酔ってる……。)
屁理屈をこじつけようとしている。壁を修復しようという気持ちも起きない。どうせ酔っ払っているんだからいいじゃないか、と思っている。
(こんなに蒼井さんのことを想っていたなんて……。)
尊敬していた。可愛らしいとも思っていた。喜ぶ顔が見たいと思った。
それらが今、一つの大きな流れになって止まらない。
べつに、蒼井さんに何かしようなんて微塵も思っていない。そこだけは胸を張って言える。
(だったらいいじゃないか。)
酔っ払っていようが何だろうが、蒼井さんはもう反論していない。今は俺の番。
家まで送る。
それだけだ。
電車は少し混んでいた。並んでつり革につかまって、小声で話しながら電車に揺られて行く。
言葉を聞きとるために近付くときは妙にドキドキしてしまう。やましいことなど無いはずなのに。
でも、ふっくらした頬をつついてみたいとか、揺れたはずみでぶつかっちゃおうかな、とか、会話と違うことが頭に浮かんでくる。
(やましいことが無い?)
うん、無いよ。思っているだけなんだから。
横崎駅で乗り換えるとき、蒼井さんがまた「送らなくても大丈夫」と言い出した。もしかしたら、酔っ払っていることに気付いている? そんなに普段と違うだろうか。
でも、今は俺の番なのに!
「じゃあ、途中で何かあったらどうするんですか?」
悪いと思いつつ、脅すようなことを言ってしまう。
「あの公園だって、植え込みの中に人が隠れることくらいできますよ。」
その途端、蒼井さんの表情が不安そうに揺らいだ。
「ええと、公園のところは通らないで帰れば……。」
口調から自信が消えている。本当に怖がらせてしまったらしい。
「でも、俺は心配です。だから送ります。」
「……はい。よろしくお願いします。」
(ああ、蒼井さん。本当にごめん!)
そんなに怖がらせるつもりは無かったんです。酔っているせいです。許してください。
(でも、腕につかまってくれるとか……?)
お化け屋敷っぽいシチュエーションでお近づきになれるかも?
(何を考えてるんだ!)
俺には断じて下心など無い!
梅谷駅を出ると静かな夜の住宅街だ。
(ああ、蒼井さんだー……。)
やっと二人だ。白いブラウスが涼しげに暗闇に浮かぶ。
ぼんやりと眺めていたら、蒼井さんと目が合って嬉しさがこみ上げてきた。そのまま嬉しさが止まらない。
(ダメだ。流れが止まらない。)
どうしよう? 蒼井さんのことが可愛くて可愛くて可愛くて――。
「宇喜多さん、前、あ!」
(え?)
ゴン! という音が頭に響いて、左側の額と鎖骨に衝撃が。その反動で足が後ろにたたらを踏む。
「いったっ……。」
「だ、大丈夫ですか?」
(蒼井さんだ……。)
右肩のすぐ横に蒼井さんの顔がある。肩と背中が温かいのは彼女が支えてくれているからだ。蒼井さんの瞳がキラキラと俺を見て――。
「だい、じょう、ぶ、です。」
いけないことを考えてしまった。慌てて頭を振って、額を撫でながら態勢を立て直す。
「何かにぶつかった……?」
「街灯の柱です。」
聞こえてきた蒼井さんの声に促されるように前を見る。と、目の前にそびえたつ茶色の柱。
(信じられない……。)
柱にぶつかる人間が実際にいるとは思わなかった。景観上、目立たない色にしてあるのだろうけど。酔っ払うってすごい。
「大丈夫ですか? ゴツンって音がしましたけど……。」
心配そうに俺を見上げる蒼井さん。
「ここと、ここです。」
額と鎖骨のぶつかったところを撫でてみせる。蒼井さんが撫でてくれないかなー……なんて淡い期待を抱いて。
(ああ、馬鹿な俺……。)
でも、ちょっとくらい……あ。
「痛いですか?」
鎖骨に触れられて舞い上がる……暇も無く、ぐっ…と押された。色気も何も無い。
(……予想と違う。)
もしも骨折していたら、そんなに強く押されたら悶絶するだろう。ついでにおでこも場所を確かめるようにぎゅ、ぎゅ、ぎゅ、と押されて。
「……大丈夫みたいです。」
「良かった。」
(痛いって言えばよかった。)
痛がる俺に「どうしましょう?」とおろおろする蒼井さんを、治療と称して抱き締める――。
(おい、やめろ。)
だめだ。妄想があやしい方向に……。
「みっともないところをお見せして失礼しました。蒼井さんを守るために一緒に来たのに。」
かっこいいところが無いじゃないか。
「そんなに守らなくても大丈夫ですよ。」
蒼井さんが笑って歩き出す。急いでその隣に並ぶ。
「いいえ。蒼井さんを心配するのは俺の仕事です。」
「ふふ、そんなこと無いですよ。」
「有りますよ。蒼井さんは大事な姫なんですから。」
「わあ。宇喜多さんから『姫』って言われるのは初めてな気がします。門番でしたっけ?」
(門番?!)
あのとき宗屋が訂正したのに! どうしてそっちを覚えてるんだ!
「違いますよ。親が親友同士で、幼なじみで、許婚です。」
「え? 許婚なんて設定、ありました?」
(ちっ。)
忘れていたわけじゃないのか。
「ありましたよ。宗屋は乳兄弟でしたよね。ほら、俺の方がちゃんと覚えてる。」
「わたしだってそれは覚えてますよ。でも、許婚なんて……ありましたっけ……?」
「あーりーまーしーた。」
言い切ってしまえばこっちのものだ!
(何がだよ!)
まあいいや。蒼井さんはまだ首を傾げているけれど。
(話をそらしてしまおう!)
「蒼井さん。」
「はい?」
そんなに無邪気に見つめられたら、ちょっとばかり訊きづらいですが。
「花澤さんと何を話していたんですか?」
「花澤さん?」
「そうです。さっきの宴会のとき。なかなか戻って来なかったじゃないですか。」
心の中で「俺を一人ぼっちにしてですよ!」と付け加える。
「ああ。」
(嬉しそうに笑うんだなあ……。)
なんだか淋しくなってしまった。そんなに花澤さんが好きなのだろうか。
「特に何かを話していたわけじゃありません。花澤さんとはこういう機会しか会えないから……。」
――こういう機会しか。
(間違いなくそう言った。)
つまり、蒼井さんは花澤さんとは仕事以外の接点が無いということだ。やっぱり付き合っているわけじゃないのだ。
「花澤さんと話せると、ほっとして元気が出ます。」
(う……。)
穏やかで懐かしそうな表情。考えただけでもそんな表情をするなんて。やっぱり蒼井さんにとって花澤さんは……。
「去年はわたし、花澤さんにものすごく頼っていたんだなあって思います。」
「俺は頼りにならないから……。」
「送ってくれてますよ?」
「こんなことじゃなくて……。」
もっと蒼井さんの支えになりたい。蒼井さんにとって俺が――。
「まだたった二か月なのに、」
蒼井さんがやさしく微笑んで俺を見た。
「宇喜多さんとはもうずっと一緒にいるような気がします。宇喜多さんがいなくなったら、きっとすごく淋しいです。」
(蒼井さん……。)
なんて可愛いことを言ってくれるんだろう! 胸が焼け焦げてしまいそうだ。ああ、もう、抱っこしてぐりぐりしたい!
(いやいやいや、俺のキャラじゃないし!)
わかってる。だけど。だけど。だけど!
(ダメだからな!)
わかってる。でも、じっとしていられない。
しゅるる、とネクタイを抜く。手早くそれで輪を作って、蒼井さんに差し出す。
「そっち側を持ってください。」
不思議そうな顔でネクタイをつかむ蒼井さん。俺はその反対側を持って歩き出す。
(うん。これくらいなら。)
これなら大丈夫。手をつなぐ代わりだ。にやけそうなことに気付かれないといいけど。
「宇喜多さん。」
「なんですか?」
「犬の散歩みたいです。」
彼女が笑う気配がする。俺が犬ということだろうか。
(何やってんだか。)
醒めた俺が呆れている。けれど。
信じられないくらい楽しい。




