29 蒼井さんが喜ぶことは?
調査書関連の話は、朝で終わったと思っていた。でも、蒼井さんの頭の中では続いていたらしい。思いがけない方向に熟成しながら。
今日はお弁当を作らなかったと言って、蒼井さんが一緒に昼食を食べに行くことになった。美味しいソバ屋があるからと、俺と宗屋を急かしながら案内してくれた。
注文が済むと、蒼井さんは何か秘密の話をするように、向かい側に座った俺たちの方に身を乗り出した。そして。
「キャバクラって行ったことあります?」
「え? キャバクラ?」
「くっ、こほっ、ごほっ」
訊き返している宗屋の隣で、俺は麦茶にむせてしまった。
咳をしながら宗屋を見ると、一、二秒固まったあと、尋ねるように俺を見た。蒼井さんも、宗屋の視線を追うように俺を見る。この状況だと俺が答えるしかない。
「こほ、ありません、よ。」
嘘をつくのに胸の痛みなどまったく感じない。
本当は大学生のときにテニス部のOBに連れて行ってもらったことがある。でも、それを蒼井さんに教えるつもりは無い。あんな店のことを蒼井さんが知る必要は無いのだから。絶対に。
「俺はありますよ。」
(言うのかよ?!)
相手は蒼井さんなのに!
「わあ、あるんですか?」
嬉しそうに蒼井さんが胸の前で手を合わせた。それを見ながら、次は何を言いだすのかと不安になる。
「楽しかったですか?」
「そうっすねー、まあ、ああいうところは男を楽しませるための店ですから。」
(上手いな、宗屋……。)
落ち着いた受け答えだ。「ふうん……。」と感心している蒼井さんと一緒に、俺も感心した。
「でも、女の人たちに触っちゃいけないんですってね? あと、特別サービスタイムがあったりするって。」
(なんで知ってる……?)
「あはは、よく知ってますねえ。」
(そうだよ! どこで仕入れた知識なんだ!)
笑っている宗屋が信じられない。蒼井さんとキャバクラの話なんて。
「花澤さんが教えてくれました。」
「ああ……。」
思わず力が抜けた。確かに、あの花澤さんならそんな話もしそうだ。
「でも、特別タイムのところはあんまりよくわからなかったんですけど……。」
「それは『蒼井さんは知らなくていい』ってことですよ。」
(根掘り葉掘り訊いたらいけません。)
割って入った俺に、蒼井さんが少し不満そうな顔をした。でも、それには気付かないふり。
「姫、今度、一緒に行ってみます?」
(宗屋!)
「え、いいんですか?」
「ああ、でも、二十歳になってからかな。」
「宗屋、蒼井さんにそんな約束――」
「そうですね。勉強になるかも。」
「蒼井さん!」
目をぱっちり開けて無邪気な顔で俺を見返した。でも、断固としてそんな店に行かせるわけにはいかない。
「いったい、何の勉強をするつもりなんですか?」
「うーん、そうですね、窓口サービス?」
「サービスの内容が違いますよ。」
「どんなサービスですか?」
「え……、よく知りませんけど。」
俺はあんまり嬉しくなかったし。
「でも、夜のお店の女の人たちはお話を聞くのが上手だって、花澤さんが言ってましたよ? 窓口もお客様のお話を聞くことから始まるって思うんです。」
(もしかしたら……。)
今、わかった。二人して俺をからかっているんだ。
脱力した途端、蒼井さんはにっこりした。
「ウソですよ。やっぱり葵先輩が言ったとおりですね。」
「言ったとおりって?」
「冗談と本気がわからないって。」
「あはは! お前、やっぱりそれ、昔からそうなのか! あははは!」
(ふん。)
言っていることが絶対に冗談とは限らないじゃないか。世の中には「半分本気」っていう言い方だってあるんだぞ。
「それに、わたしがついて行ったりしたら、宗屋さんが楽しめませんよ?」
そうやってにこにこして俺の機嫌を取ろうとしているのかも知れないけど……。
「あ、じゃあ、姫、いつかホストクラブにでも行きますか?」
(宗屋!)
「ホストクラブですか? 男のひとがおもてなしをしてくれるんですよね?」
「盛り上げるのがすごく上手いらしいっすよ。」
「へえ〜〜〜〜。」
真面目な顔で感心しちゃってるよ……。
「でも、そういうところには行かなくてもいいかな。」
蒼井さんが小首をかしげて俺たちを見た。
「宗屋さんと宇喜多さんと一緒にいるだけで、わたしは十分に楽しいですから。」
(蒼井さん……。)
笑顔と言葉が胸にズンと来た。そんな些細なことで「十分に楽しい」なんて……・
「蒼井さんのためなら何でもやってあげますよ。」
気付いたときにはこんな言葉が口から出ていた。
「わあ、ありがとうございます♪」
蒼井さんが無邪気に手をたたいて喜んでくれた。その姿に思わず目を細めてしまう。
「安上がりだなあ、姫は。」
隣から感動とは程遠い宗屋の声が。
「だってお給料が安いんですもん。無駄遣いなんてできません。」
「そうですよ、蒼井さん。ホストクラブなんて行かなくていいんです。」
「宇喜多はまたそうやって真面目なことばっかり言うんだから。」
「いいんだよ。」
そんなところに行って、蒼井さんがおかしなことを覚えて来たらどうするんだ! でなければ悪い男にひっかかったりとか!
「行く必要はありませんからね、蒼井さん。」
「はい。わかりました。」
「まったく……。お前は保護者かよ?」
(保護者?)
確かにそういう感じになっている気がする。まあ、蒼井さんを悪い影響から守れるなら、それもいいけど。
「そういえば、お前、車が来るのっていつだっけ?」
出てきた定食を前に箸を取りながら宗屋が尋ねた。蒼井さんも冷やしたぬきそばから目を上げた。
「ああ、来週の金曜の夜に届けてもらうことになってる。」
そう。俺の車。
紺の小型車。エンジンはハイブリッドにした。少し高かったけれど、環境と使いやすさを考慮して。
「言い出してからだいたい一か月か? 早かったな。」
「そうだね。父が世話になってるディーラーに行ったから、そこにあるものの中から選んだみたいなものだからね。」
「これから毎月支払いか。仕事がイヤになっても、宇喜多は簡単には辞められないってことだな。」
嫌な笑い方をする宗屋には残念だろうけど。
「クレジットじゃないよ。一括払い。」
「え? 一括?」
「そうだよ。」
「中古だっけ?」
「いや。新車。」
宗屋がまじまじと俺を見た。蒼井さんは不思議そうな顔で宗屋と俺を見比べている。
「親の金……?」
宗屋が恐る恐るという感じで尋ねた。
「いや違う。自分の。貯金があったから。」
「ウソだろ?!」
宗屋が目を剥く。
「ホントだよ。」
「でも、高いぞ。」
「うん。だから、貯めてきた貯金、ほとんど無くなっちゃったよ。しばらくは一人暮らしは無理だな。」
無言になって俺を見ている宗屋から俺に視線を移して蒼井さんが尋ねた。
「車って、いくらくらいするんですか?」
車に縁のない彼女は成り行きが飲み込めなかったらしい。
「諸費用込みで二百五十万くらい払いましたけど。」
「うわあ。そんなに貯金があったんですか! お金持ち!」
「そうですか? でも、小さいころからお年玉とか進学祝いとか、全部貯金してきましたから。あと、成人したときに、俺には姉たちみたいに振袖を買う必要が無いからって、親がその分を現金でくれたんですよ。」
本当は、節目以外にも親が少しずつ貯めてくれていたのだ。でも、そこまで説明する必要はないだろう。
「そういうの、何も使わないで貯めてたのか?!」
そんなに驚くようなことだろうか?
「だって、高校も大学も勉強と部活で忙しかったよ。少しだけどバイトもしてたから、普段はそれで足りたし。」
「宇喜多さんらしいですね。」
(ほら。)
蒼井さんは笑顔で認めてくれた。でも、宗屋の顔には呆れたような表情が浮かんでいる。
「それを一気に使っちゃったんですねえ。悩みませんでした?」
「少しは考えましたよ。でも、クレジットって、自分の将来を抵当に入れることになるような気がして嫌だったんです。」
「払い終わるまでは辞められないって?」
「ええ、まあ、そういうことです。それに、お金って使うためにあるんですよね?」
「うーん、まあ、そうですね。」
「お前、今までさんざん貯めてたくせに。」
「あははは、まあ、そうだけど。」
子どものころからずっと、通帳の金額が大きくなっていくことが嬉しかった。自分に財産があるのだと思うと心強く感じた。
今回、支払いをしたあとに通帳に残ったのはとても小さくて頼りない数字だった。でも、それを見ながら感じたのは満足感だった。
新しいスタートに立った気がして。
今までのお金は誰かからもらったものだった。でも、これからそこに貯めるのは、自分自身で得た報酬だ。そして、貯めてきたお金で買った車は、俺だけじゃなく、ほかの人の役にも立つのだ。
「今度のテニス部の練習日は、蒼井さんを乗せていけますよ。」
「え。いいんですか?」
「もちろんです。通り道ですからね。」
蒼井さんを迎えに行く場面がふわりと頭に浮かぶ。蒼井さんは笑顔で手を振って――。
「宇喜多〜、俺は〜?」
「迎えに行ってほしいの? 一括払いを馬鹿にしたくせに。」
「でも、車を買う提案をしたのは俺だろ? なあ、かもめ駅まででもいいから! テニスコート、遠いじゃん!」
手を合わせて拝む宗屋を見ながら苦笑する。
もちろん、宗屋のことも迎えにいくつもりだ。少し遠回りになるから、蒼井さんにもその分長く乗ってもらうことになるけれど……。
この、ちょっとばかり後ろめたい嬉しさは、いったいどういうことなんだろう。




