27 蒼井さんと俺。
「何かあった?」
ファイルを抱えて席に戻ると、原さんに声をかけられた。今日はうちのグループで残っているのは原さんと蒼井さんと俺の三人だけだ。
「あ、ええと……。」
どう話そうかと頭の中を整理する。振り向いたら、蒼井さんはいない。さっき、トイレから戻って来たところだったはずだったのに。
「僕が間違えたところを蒼井さんが直しておいてくれたんです。」
「え、そうだったの?」
驚かれてしまった。
「そうですけど……?」
どうしてそんなに驚いているんだろう。
「てっきり宇喜多さんが蒼ちゃんを怒ってるのかと思ったよ。」
「え?! 怒ってなんかいませんよ!」
「だって、そんなふうに見えたよ?」
「違いますよ。蒼井さんを怒るだなんて、そんな。」
「ふうん……。」
(もしかしすると……。)
蒼井さんも俺が怒っていると思ったのだろうか。それで席に戻りにくくて、どこかに行ってしまった……?
(ど、どうしよう?!)
「あの、原さん。本当に僕が怒っているように見えました?」
「え? うん。まあ、言葉はよく聞こえなかったけど。」
「そんなつもりは無かったんですけど……。」
もしかしたら、表情が怖かったのだろうか。口調もきつかったのかも。もともと真面目くさった顔だから余計に……。
「……。」
蒼井さんは席にまだ戻らない。俺の視線を追って、原さんも蒼井さんの席を見た。それから二人で視線を交わす。
「どうしましょう……?」
「そう言われても……。」
パタパタと足音がして、振り向くとマグカップを持った蒼井さんが戻って来た。
「疲れちゃったので、お砂糖をたっぷり入れちゃいました。」
肩をすくめて笑ってみせているけれど、どことなくわざとらしく感じる。やっぱりさっきのことを気にしているような気がする。
(何か言わなくちゃ。)
誤解を解かなくちゃならない。でも、どう言ったらいいのかわからない。考えているあいだに蒼井さんは席に着いて仕事を再開してしまった。隣で原さんがため息をついたような気配がした。
何も言えないまま、俺も仕事に戻った。
(どうしよう?)
そのまま無言の時間が過ぎる。
滞納担当や課税係にも残業している人がいて、フロアは明るいし、全体的にざわざわしている。けれど、俺たちがいる一角は妙な静けさで、緊張感も漂っている。
(これは俺のせいなのか?)
仕事をしながらも気になって仕方がない。
蒼井さんも原さんも仕事に集中しているようだ。でも、それがどこかわざとらしく感じる。
こっそり二人の方を見ても、何も反応が無い。というよりも、意識的に俺の方を見ないようにしているような気もする。
(どうしたらいいんだろう?)
時間がたてばたつほど気まずい気持ちが強くなる。もしかしたら蒼井さんは、俺のことを怖がっているんじゃないだろうか……。
「さて。」
原さんが突然、声を出した。俺と蒼井さんはびくっとして顔を上げた。
「俺はこれで帰るから。まだ残ってる人がけっこういるから怖くないよね?」
「は、はい。」
「大丈夫です。」
原さんは笑顔でうなずいて立ち上がった。「お先に」と言いながら俺の後ろを通るとき、俺の肩をぽんとたたいた。
(あ……。)
原さんは俺に、蒼井さんにちゃんと説明するようにと言っているのだ。
(そうだよな……。)
また忘れていたけれど、蒼井さんはまだ十九歳なのだ。高校を卒業して二年目。いくら俺が新人だとはいえ、年上の男に理詰めでものを言われたら、委縮してしまっても当然だ。しかも原さんの目には、俺が怒っているように見えたというし……。
(怒ったんじゃなかったのに……。)
後悔している場合じゃない。俺の言い方が悪かったのは間違いないのだから。早く謝ろう。
「ええと、蒼井さん。」
「あ、はい。」
(うわあ……。)
こちらを向いた蒼井さんは、背筋をピンと伸ばして手を膝に重ねた。あきらかに緊張して気を遣っている。
(ああ、もう、本当に……!)
「すみませんでした。」
座ったままだけど、深々と頭を下げる。
「え? え? あの? どうして?」
混乱した声を聞きながら頭を上げ、彼女をしっかり見つめる。
「俺、怒ったわけじゃなかったんです。さっき。」
「あ……。」
「蒼井さんも忙しいのに、俺のミスで余計な仕事を増やしちゃったと思ったら申し訳なくて。」
「あ、いいえ、それは……、べつに……。」
「俺に気を遣ってミスしたことを指摘できなかったのかも知れないとも思って……、だとしたら、これからのこともあるので、仕事のことでは気を遣ったりしないでほしくて……。」
「はい。それはわかります。おっしゃるとおりだと思います。」
「でも、怖かったですよね……?」
その途端、蒼井さんは視線をふわふわとさまよわせ、最後に自分の膝を見つめた。
「全然そんなつもりじゃなかったんです。でも、言い方が強すぎました。原さんに『蒼井さんを怒ってるのかと思った』って言われました。」
「あ……。」
蒼井さんが顔を上げた。問いかけるような表情に、ふわりとやさしい気持ちがわいてくる。
「すみませんでした。原さんに言われて初めて、自分の言い方がきつかったって気が付きました。蒼井さんを怖がらせるつもりはまったく無かったんですけど……。」
「あの、いいんです。大丈夫です。」
蒼井さんは小さく微笑んだ。こんなときでも微笑むことができる彼女に胸が痛んだ。
「宇喜多さんが言ったことは本当のことですから。それに、宇喜多さんが真面目なひとだってわかっていますから。」
「え……?」
真面目なことが、さっきの態度と関係があるのか……?
「遠回しに何かを言ったりできないんじゃないかなって。」
ぼんやり考えていた俺に、蒼井さんがそっと言った。
「言わなくちゃらならいことはきちんと言わなくちゃって思っているんですよね? 違いますか?」
(あ……。)
そのとおりだ。俺はいつも、「正しいことを正しく」と思って来た。
「わたしなら大丈夫です。宇喜多さんは仕事をきちんとしたいだけだってちゃんとわかってますから。気にしてません。」
(蒼井さん……。)
なんというひとだろう。
本当はショックだったはずだ。さっきまでの様子を見れば俺にだってわかる。それなのに、自分が傷付いたことは言わないつもりなのだ。俺を責めないために。
「でも……。」
おずおずと、彼女が上目づかいに俺を見る。
「本当は……ちょっとだけびっくりしました。」
(ああ……。)
体の中に熱いものがこみあげてきた。驚いただけだと主張する彼女の健気さが胸に沁みる。
「そうだよね。」
安心させるために、俺も微笑んでみせる。誰かにこんなにやさしい気持ちになるのはいつ以来だろう。
「ごめんね。」
自分の口から出た言葉に違和感を覚えた。まるで小さい子に言うような言葉だったから。でも、「いいえ」と小さく首を振る蒼井さんを見たら、謝れたことが重要なのだという結論に至った。それに、ほかの誰かが聞いていたわけじゃないし。
「何時までやりますか?」
気を取り直して尋ねると、蒼井さんは時計を見た。
「八時くらいって思っていますけど……。」
あと三十分ちょっとだ。
「じゃあ、俺もそうします。一緒に出ましょう。」
「はい。」
彼女の笑顔が嬉しかった。
(そうだ。)
お詫びに、帰る途中で何か買ってあげよう。ちょっとしたお菓子でも。お腹も空いてきたし。
(何がいいだろう?)
お菓子のことなどまったくわからない。でも、蒼井さんが喜ぶ顔を思い浮かべたら、なんだか楽しくなった。




