156 幸せがここにある
それから二年半―――。
白い廊下に白い壁。開いた戸口から部屋をのぞいた宗屋が「姫っ」と叫んで駆け寄った。その声を聞いて、個室で良かったと思った。
「姫。姫。無事だった。良かった。本当にもう俺、気が気じゃなくて。なのに宇喜多が待てって言うから」
一気にまくしたてる宗屋にベッドから蒼井さんが手を差し出す。髪は二本に編まれて顔はまだ青白い。けれど、唇には微笑みが浮かんでいる。
「大丈夫です、宗屋さん。来てくれてありがとうございます」
「うん……。うん。ちゃんとしゃべってるなあ。良かった」
蒼井さんの手を両手で握りしめ、宗屋は感極まって泣いてしまいそうだ。
「宗屋さん、すごい汗です」
彼女がくすくす笑いながら、俺に尋ねるように視線を向けた。気持ちは元気ではあるけれど、体にはまだ疲れが残っているのだ。
「駅から走って来たんだって」
「え、あの上り坂を?」
「うん」
「それは……大変でしたね」
一緒に窓に目を向ける。外は夏の夕方の輝きに満ちている。
「姫に比べれば暑いのなんか何でもないよ」
蒼井さんの無事を確認して落ち着きを取り戻した宗屋が照れた様子で彼女の手を離した。それに微笑み返し、彼女がベッドの反対側にある白い布に囲まれたキャスター付きの箱のようなものを手で示す。
「宗屋さん、ほらこっち、見てください。さっき来たの。とってもちっちゃいんです」
ようやくその存在に気付いたらしい。宗屋はちょっと伸びあがってのぞき込んだ後、ベッドの足元をまわってもう一つの小さなベッドに近付いた。
「おお……、これが姫の子……」
恐る恐る見ているだけの宗屋に、思わずふたりで顔を見合わせて微笑む。
そう。俺と彼女の赤ん坊。小さな娘。生まれたばかりの命。
きのうの夜から陣痛が始まり、産院にやって来た。一緒に眠れない夜を過ごし、早朝の出産も一緒に乗り越えた。彼女と赤ん坊の無事が確実になったとき、俺は世界中のすべてに感謝しながら少しだけ泣いてしまった。
俺はそのまま休暇を取り、やって来た両方の親は昼前に安心して帰って行った。友人たちにメールで知らせると、お祝いの返信が相次ぐ中、宗屋だけは今にも駆けつけてきそうな勢いで電話をかけてきた。蒼井さんの妊娠が分かってからずっと、彼女の身を案じてくれていたのだ。まるで本当の兄妹のように。それをなだめて終業後まで待ってもらった。俺も彼女も一休みが必要だったから。
「手のところに指をやると握るんですよ。こうやって……」
ゆっくりと半身を起こし、蒼井さんが宗屋に説明している。
「うわ、ホントだ。指ちっちゃ! 爪もちゃんとあるよ」
「そうなんです。足もね、こんな」
「うわー、ふにふに。土踏まず無いし」
赤ん坊はどれだけ見ても驚きに満ちている。俺も何時間見ていてもまったく飽きない。
「名前は決まったのか?」
宗屋の問いかけに思わずニヤリとせずにはいられなかった。
「いくら考えても最初の一つに戻っちゃうんだよね」
「じゃあ、それに決めればいいだろ?」
「うん、そうなんだけど……」
「一応、名付け親に訊いてみた方がいいかなって」
蒼井さんが笑顔で言った。
「名付け親?」
「うん」
にこにことうなずく蒼井さんに促されて、ベッドサイドの引き出しからメモ用紙を取り出す。それを不思議そうな顔をしている宗屋へ。
「これなんだけど」
いくつかの名前候補を書いたメモ。その先頭で丸で囲んであるのは。
「小、姫……?」
宗屋がそっと声に出した。
「女の子だって判ったとき、宗屋さん『じゃあ、小さい姫だな!』って言ったでしょう? それが頭から離れなくて」
「ずいぶんいろいろ考えたんだけど、その名前が一番しっくりくるような気がしてきちゃってさあ」
「だけど、宗屋さんが自分の子どもに付けたいかも知れないから、それだったら違うのにしようって」
「……いや。大丈夫。いいよ、このままで」
じっとメモを見ながら宗屋が静かに答えた。
「ありがとう、使ってくれて。まるで本当の身内みたいだ」
感動した様子の宗屋に、自分たちが幸せを分かち合っているのだと気付いた。そんな友人がいることも幸せの一つだと思った。
「だって宗屋さんはわたしの乳兄妹でしょう? 身内同然ですよ」
蒼井さんの無邪気な言葉にハッとした。この話題はまずい。
「ん! そう言えば、そんなこともあったなあ」
「忘れてたんですか? ずっとわたしのことを『姫』って呼んでるのに」
「そうだったよ。宇喜多は何だっけ?」
「さ、さあ? もう覚えてないや。それより――」
「思い出した! お前は門番だ! そうだったよな?」
「いや、そんなんじゃなかったよ! もう少しちゃんとしてた……よ」
(しまった……)
思わず反論してしまった。これで話を終わらせてしまえば良かったのに。
「そうだったっけ? うーん、印象薄いなあ……」
このまま忘れていてほしい。そして話題も変えたい!
「あのさあ」
「あの……許婚……って」
「え?」
(だめだ……)
蒼井さんの声が宗屋に聞こえてしまった。
「確か宇喜多さん、許婚って言ってましたよね? あのとき」
「え〜〜〜〜〜〜?」
あらぬ方向を見る俺に疑いの眼差しを向ける宗屋。……と、ニヤリと笑った。
「そうだったかもな。そんな気がしてきた。うん、きっとそうだった」
その瞬間、「ふやあ」と弱々しい声がした。
「あ、赤ちゃんだ」
「え?」
「うあ」
蒼井さんは素早く落ち着いて反応し、俺と宗屋はうろたえた。次第に大きくなる赤ん坊の泣き声の前で、蒼井さんは何が原因か探ろうとしている。すでに母親の自覚が現れ始めたその姿に感嘆の思いが湧き上がる。
「はーい、ミルクをお持ちしましたよー」
看護師さんが小さなミルク瓶を持って現れた。こんなにすぐに来たということは、そういう時間だったのか。
「じゃあ、お母さん、抱っこしましょうねー」
「はい」
看護師さんが赤ん坊――小姫――を抱き上げているあいだに、蒼井さんが態勢を整えるのに手を貸す。それを宗屋が不安そうに見守っている。
やがて無事に蒼井さんの腕に収まった小姫はごくごくとミルクを飲み始めた。俺はそのふたりを見ながら、宗屋が来る前に小さな娘をはさんで蒼井さんと交わした言葉を思い出した―――。
「わたし、前に自分の子どもを愛せなかったらどうしようって、何度も考えてた」
「うん、覚えてるよ。俺を断ろうとした理由の一つだったよね」
「うん。でも、大丈夫だった」
と、彼女は微笑んだ。
「顔を見てちょっとしか経ってないのに、この子のことがもう本当に愛しくて、ずっと守って大事にしてあげようって心から思うの。いなくなったらどうしようって心配なくらい」
そう言った彼女は内側から輝いているようだった。
「俺のことは?」
「宇喜多さんもいなくなったらいや」
不安な顔をされて、たちまち俺は後悔した。すぐに彼女の側に移動し、肩を抱いて謝った。
「ごめん。大丈夫だよ。俺はね……」
そう。俺の中にも不安はあった。
「蒼井さんのことがものすごく大切で、子どものことを想う余地が無いんじゃないかと思ったりしたんだ」
「そうなの?」
「うん。だけどね、今はその考え方が違ってたって分かる」
問いかける瞳に微笑み返して俺は言った。
「大切な存在が増えると、大事に思う気持ちを分けるんじゃなくて、気持ちが二倍になるんだよね。愛情って、いっくらでも増えるんだ」
「ああ……、うん、わたしもおんなじ」
並んで娘を見ながら、家族が増える幸せをふたりで噛みしめた。この時間が永遠に続いてもいいと思った。
「なあ、宇喜多」
「ん?」
宗屋の声で我に返る。
「お前たち、いい加減にお互いの呼び方をどうにかしろよ。子どもの前で名字で呼び合ってどうするんだよ? しかも、姫はもうとっくに「蒼井」じゃないんだぞ?」
「そうなんだよね……」
結婚してからも同じ職場だったからそのまま呼び合っていた。仕事の上でも彼女は旧姓使用を申請して。
でも、今年の四月に俺は異動し――本当は蒼井さんが異動するつもりだったけれど、妊娠が判明したので――お互いをどう呼んでも仕事中に気まずい思いをする心配は無くなった。それに、彼女は職場復帰したら「宇喜多」姓を使うつもりだ。けれど……。
「なんだか気恥ずかしくてさあ……」
「結婚して一年以上経つのに、まだそんなこと言ってんのかよ」
呆れられても仕方がない。思い出してみると、宗屋には最初からずっと呆れられっぱなしだ。
「まあ、ゆっくり考えるよ」
「ははは、そうだな。宇喜多と姫じゃあ、簡単には決まらないだろうけどな」
「そうかもね」
ベッドの上の蒼井さんと小姫に視線を戻す。するとたちまち、そのふたり以外のことはどうでも良くなってしまった。
(俺の大事なものすべてがここにある)
何があってもこのふたりを守っていく。ふたりが心安らかに、楽しく毎日を暮らせるように。
「育休はどのくらい?」
「まだ悩んでる。俺の給料だけだと毎月赤字になる計算なんだよ」
「え、マジで?」
「うん。家賃にけっこう取られちゃって」
「そうかー…。共働きだと駅から歩けないと辛いもんなあ」
「うん。それに、蒼井さんは車の免許を持ってないしね」
「保育園だって入れるかどうか分からないって言うし、いろいろ大変そうだなあ」
「まあね」
もちろん、大変なこともあるだろう。大きな責任も負うことになった。けれど、それでも小姫が生まれて良かった。
「お前も姫も、頑張り過ぎないようにしろよ」
「うん。何かのときには相談するよ」
「おう」
きっと大丈夫だ。宗屋みたいな友人や、良い先輩たちがいるから。
(ね? 蒼井さん)
俺も彼女もまだまだ未熟だ。だから、ずっと前に話し合ったとおり、一緒に努力していきたい。愛情と信頼を支えに、ゆっくりでいいから。
これから長い年月、一緒に。
蒼井さんが顔を上げて俺たちに微笑んだ。楽しそうに。満足そうに。そして誇らしげに。
そんなふうに彼女が微笑むことができるというただそれだけで、俺は世界中の誰よりも幸せだと信じることができた。……と、その瞬間、俺のお腹が盛大な音で鳴り、全員で大笑いした。
<終わり>
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
第一話投稿から1年9か月、中断をはさみつつの連載が、ようやく完結となりました。
執筆期間も話数も、これほど長くなったのは初めてです。当初からお読みいただいていたお客様、長期間のお付き合い、本当にありがとうございました。また、新たにお読みくださったお客様、百五十六話もの(クリック数は百六十回以上?)おはなしを読み通していただき、大変お疲れさまでした。楽しんでいただけたら良いのですが。
この作品は―――というか、どの作品もなのですが―――、読んでくださった方が前向きな気持ちになってくださったらいいなあ、と思いながら書きました。誰でもそれぞれにコンプレックスやハンディキャップを抱えているでしょうけれど、楽しいことはきっとあると思うのです!……って、直接書いてしまいましたね……。
まあ、そこまで伝わらなくても、気持ち良く読み終わっていただけたら十分です。
とにかく精一杯書きました。あとの判定は読んでくださった皆さまにお任せします!
連載中にご感想をお寄せくださった方、評価のポイントを入れてくださった方、お気に入り登録をしてくださったみなさま、そしてもちろん読みに来てくださったみなさまも、本当に、本当に、ありがとうございました。いただく言葉や数字を励みに、そして、書き上げることが感謝を伝える方法と思い定めて、書き続けることができました。心からお礼申し上げます。
もし、気に入っていただけたら、次の作品でまたお会いしたいです。
では、最後に。
みなさまにも楽しくてHAPPYなことがたくさんありますように!
虹色




