153 ここで決断
「ごめん、蒼井さん。それって俺のせいだ」
蒼井さんとお母さんの喧嘩の成り行きを聞いて、とてつもなく申し訳なく、そしてかわいそうなことをしてしまったと思った。
「俺がさっさとあいさつに行ってれば何も問題無かったのに」
「宇喜多さんのせいじゃありませんよ!」
蒼井さんは驚いたらしい。
「わたしがお母さんに話す気になれなかっただけなんですから!」
「それはそうだけど、でも、俺の方が年上だから」
そう。蒼井さんよりも長く生きていて、その分、経験や知識が多いはずだから。
「蒼井さんが『まだいい』って言っても、俺が『行く』って言わなくちゃいけなかったんだよ」
「そんなことないですよ! だって、わたしの母親なんですよ?」
「うん。でも、蒼井さんのお母さんが厳しい人だって、俺は知っていたんだよ? 黙って付き合っていたら、それを知ったときに気を悪くするって簡単に想像できるよ。それなのに、蒼井さんが『まだ』って言ったからって平気で後回しにして……」
「それはわたしの都合でそうしたんです。宇喜多さんはわたしのためにそうしてくれただけで、べつに」
「そのつもりになっていたけど、そうじゃなかったと思うんだ」
「え……?」
対向車のライトに蒼井さんの戸惑いの表情が浮かび上がる。
俺だって蒼井さんのためにそうしたと思っていた。そのつもりでいた。けれど。
「今、考えるとそうじゃなかったと思う。本心では逃げていたんだ」
「いや……、それは考え過ぎですよ……」
彼女は首をひねっている。簡単には納得してもらえないらしい。
「考え過ぎじゃないよ。だって、俺だって厳しいお母さんにあいさつに行くのはそれなりの覚悟が要るからね。蒼井さんに言われて渡りに船だって思ったのは否定できないよ」
「そう……ですか……?」
「そうなんだよ。本来なら、俺の方から『あいさつに行きたい』って言うべきだったのに」
きっぱり言い切ると、蒼井さんも渋々といった様子で「そうですか…」とうなずいてくれた。
「うん。だから、俺が謝るよ」
「……え?」
今度ははっきりと嫌な顔をされてしまった。
「だって俺が悪いんだから」
「いえいえいえいえいえいえ! 悪いのはお母さんです! 宇喜多さんじゃありませんから。謝る必要なんてありませんよ」
「いや。さっき納得してくれたよね? 悪いのは俺だから。だから、謝るのも俺。ね?」
「そんな……」
今度は途方に暮れたような声がする。俺はそんなに変なことを言っているわけじゃないと思うのに。
「蒼井さんは謝らなくてもいいよ。その場にいなくてもいい。家まで案内してもらえれば、あとは俺が一人でやるから」
「いっ、いえ、そういうわけには行きません! わたしも行きます。宇喜多さんが謝るなら一緒に謝ります」
「ううん。蒼井さんは謝る必要ないよ。だって悪くないんだから」
「そん…なことないです。宇喜多さんが悪いなら、わたしも悪いです。お母さんに話したくなかったのはわたしなんですから」
「でも、俺の方が年上なんだからそこは」
「いや! やっぱりお母さんが悪いです! 勝手にお見合いみたいなことをさせて、その上、宇喜多さんのことをよく知りもしないで反対して」
「そうかも知れないけど」
ゆっくり言うと、蒼井さんが口をつぐんだ。不満そうな表情で。
「こんな言い方したら失礼だと思うけど、蒼井さんのお母さん、蒼井さんに謝ったりしない人なんじゃない?」
彼女は言葉に詰まり、次の瞬間、大きなため息をついた。推測は当たっていたようだ。
「ね? だから俺が謝るよ」
「いいえ、わたしが……」
「ついでにあいさつもしたいんだよ」
そう。この機会にきちんと会って、これからのことも話したい。
「謝って許してもらって、蒼井さんの彼氏として認めてもらいたいんだ。だから俺を連れて行ってよ。ね?」
「宇喜多さん……」
少しのあいだ、彼女は俺を見ていた。それからあきらめたように肩を落とした。
「もう決めちゃったんですね」
「うん、そうだよ」
「なんか……真正面から。正攻法ですね。ふふ……」
彼女が笑ってくれただけで、もう何もかも上手く行くような気がする。
「だって、これしか思いつかないんだもん」
宗屋が知ったら、きっと「ど真ん中だな!」と笑うに違いない。そして肩を叩いて言うだろう、「頑張れよ!」って。
(大丈夫。きっと上手く行く)
なにしろ蒼井さんのお母さんなのだ。厳しいのは本当だとしても、真剣にぶつかれば、最終的には認めてくれるだろう。
だって、彼女をこんなふうに育てた人なのだ。真面目なことは人物判定の上で重要なポイントに違いない。そして俺は、真面目であることに関しては誰にも引けを取らない自信がある。
「じゃあ、明日の予定、訊いてみてくれる?」
「え?! 明日ですか?」
蒼井さんがまた驚いている。蒼井さんは明日は大掃除を始めたいと言っていたけれど、今はお母さんとの仲直りの方が優先課題だ。
「うん。こういうのって早い方がいいよ。蒼井さんのお母さん、日曜日も仕事だっけ?」
「うーん、ローテーションだから……」
「夜でもいいよ。お母さんの都合に合わせるから訊いてみて」
「今……?」
気が進まないのは分かるけど。
「うん。今だよ。お願い」
もう九時過ぎだけれど、家族同士なら、このくらいの時間でも構わないはずだ。
「うー……、弟に電話してみます」
弟くんと無事に電話が通じたようで、蒼井さんが明日のスケジュールを確認するように頼んでいる。今日はそろそろ蒼井さんの家に向かう頃合いか……。
交差点を曲がったところで、電話を切った彼女がこちらを向いた。その表情はあきらめたようにも覚悟を決めたようにも見える。
「明日は四時ごろには帰って来るそうです。史也には、『行くけど、お母さんには言わないでおいて』って言っておきました。宇喜多さんのことも話してません」
「うん、分かった。それでいいよ。ありがとう」
早めに蒼井さんと会って、何か手土産を買おう。とにかく下手な言い訳をせず、真正面からぶつかるだけだ。そして、許してもらうまであきらめない。
それぞれ思いに沈みながら蒼井さんのアパートの前に着いた。車を停めるとどちらからともなく体を引き寄せた。彼女の手がためらいがちにダウンの背中を握る。それに触発されたように腕に力がこもる。
(こんなに好きなんだから)
腕の中の静かな息遣いさえ愛おしい。
(絶対に認めてもらう)
俺が彼女を幸せにするために。ほかの誰にも渡さないために。これからずっと一緒にいるために。
腕を緩めると彼女が顔を上げた。それを合図にそっとキスをして―――。
自分がこんなふうになるなんて、思ってもみなかった。




