152 お互いの家族
年内最後のテニス部の練習があった十二月十九日の夜。助手席でシートベルトを締めた蒼井さんが「ほうっ」と小さく息をついた。
「ごめんね。やっぱり緊張したよね?」
ここは我が家の車庫。これから彼女を送って行くところだ。今日は家族に蒼井さんを紹介するために、練習の帰りにそのまま来てもらったのだ。
招待することはずっと考えていたけれど、心を決めかねて、蒼井さんにも親にも何も伝えていなかった。決心したのはもう彼女の家が近いころ。
蒼井さんは少し迷ったようだったけれど、「お邪魔します」と言ってくれた。そのすっきりした笑顔を見て、何が起きても俺は彼女の味方でいようと改めて心に誓った。
その場で家に電話をかけると、雪姉さん家族も来ていることが分かった。ほとんど到着間際の連絡に少しばかり文句を言われたけれど、俺は蒼井さんの訪問を大袈裟にはしたくなかったのだ。
多少の不安はあったものの、うちの家族は彼女のことが気に入って、夕食まで引き留める結果となった。
「いいえ。楽しかったですよ」
蒼井さんが笑顔で言ってくれた。
「宇喜多さんのお母さん、明るくてお料理も上手で、すごくうらやましいです。沙雪ちゃんも可愛いし」
そうやって俺に気を使うのも蒼井さんらしい。でも、緊張していたことは、いつも一緒にいる俺にはちゃんと分かった。
「うちの親、蒼井さんのこと、すごく気に入ったみたい。『絶対に手放すな』って言われたよ」
こっそり手招きされて「あんたにはあの子以上の子は二度と現れないから」と言われたときには本当に嬉しかった。やっぱり俺たちが出会ったのは運命だったのだ、と。さらに、「あの子を泣かすようなことをしたら勘当する」とまで言われた。家族が彼女を気に入ることは予想していたけれど、それどころか、もう俺よりも彼女の味方になってしまった。
「本当ですか? 何か大きな誤解をされているんじゃないでしょうか。たいした価値なんか無いのに」
「はは、蒼井さんの価値は、蒼井さん以外の人の方が正しく理解してるよ」
「大丈夫かなあ……」
相変わらず蒼井さんは自信不足だ。
まあ、今はもうそんなことはどうでもいい。これからはずっと俺が一緒にいて、彼女の良いところを教えてあげれば良いのだから。
「あとは来週の二十三日に一緒に出かけたら……」
二十三日はクリスマスを兼ねてのデートだ。買い物や食事をして、どこかのイルミネーションを見に行こうと約束している。電車にするか、車で行くかはまだ検討中だ。
「年内はもう無理なんだよね? 次は一月三日かあ……」
土日は蒼井さんも自分の用事があるし、年末年始は実家に帰る。本当はふたりで二年参りや初日の出見物などをしてみたいけれど、それは結婚してからにとっておくしかないようだ。
(まあ、地球が滅亡しちゃうわけじゃないし)
チャンスは何度もやってくる。それに、仕事帰りに食事に行くくらいはできるかな。
「あの……、もっと早く会えると思います」
隣から声がした。見ると、蒼井さんはどことなく硬い表情をしている。
「あ、そうなの? 出かけても大丈夫そう?」
彼女がお母さんに俺のことを話せないでいることは知っている。事情も理解している。そのために実家の用事が優先になることも。
「はい。今年は帰らないことになったので」
「え? 帰らないの?」
「はい」
(それは初耳だ……)
実家に泊まりに行く話はずいぶん前から確定しているようだったのに。決まったとすれば、ここ数日のことか。
「お母さんたち、旅行でもするの?」
「いいえ、違います」
「じゃあ、蒼井さんが日帰りで行くってことなんだ?」
「いいえ、行かないんです」
(行かない?)
よく観察してみると、蒼井さんの硬い表情は変わっていない。そして、断定的な口調。
「……何かあった? お母さんと」
それしか考えられない。
彼女はしばらく無表情に前を見ていた。それは話すのを迷っているようにも、気持ちを抑えようとしているようにも見える。やがて彼女はほっと息を吐き、緊張を解いた。
「喧嘩しました……」
「喧嘩? へえ…」
それはめずらしい気がする。
彼女はよくお母さんに叱られた話をするけれど、「喧嘩」という言葉を聞いたことは無かった。喧嘩ということは、つまり一方的に言われていただけじゃなく、自分の言い分を主張したということだ。この様子だと、それなりに激しい応酬だったのかも知れない。
そもそも蒼井さんが怒りの感情を表に出すこと自体、滅多に無い。理不尽な言いがかりをつけてくるお客様に対しても毅然とした態度で接するだけ。あとから先輩たちに腹が立ったと訴えるときだって、乱暴な言葉を使ったり声を荒げたりもしないのだ。その蒼井さんが「喧嘩」とは。
「そうなんだ? いつ?」
彼女がお母さんに立ち向かったことがなんとなく微笑ましくて、和やかな気分で尋ねてみた。
「ええと、火曜日です」
今の彼女は硬いと言うよりも少しふてくされた表情だ。
「全然気付かなかったよ。仲直りはしないの?」
今日は四日目だ。そろそろ両方とも落ち着いた頃だと思うけれど。
「わたしは謝りません。悪いのはお母さんだから」
「あはは、喧嘩したら誰だってそう言うよね」
「本当なんです。今までは我慢してたけど、今回は絶対に嫌です。絶対に謝りません」
それほど腹に据えかねるということなのか。もう四日も経っているのに。
「そんなに怒っているなら話してくれれば良かったのに。少しは気分が晴れたかも知れないよ?」
「んー……でも……、これはわたしと母の問題だから」
「だから年末に帰らないってこと? このまま年越しまで続けるつもり?」
「だって、『もう娘じゃない』って言われたから、帰る必要無いですよね?」
「それは……」
そんな言葉が出るなんて、ずいぶん大きな喧嘩をしたようだ。
「でもさあ、それって売り言葉に買い言葉じゃないの? 喧嘩ってそういうことあるよね?」
「だけど、もともと悪いのはお母さんだから」
「うーん…、どうしたら仲直りできるのかな?」
「お母さんが謝ればいいんです。自分勝手に決めたことをわたしに押し付けようとするんだから。それに、わたしが決めたことは何でもかんでも反対するし」
「そう……」
そう言えば、蒼井さんは頑固なところがあるのだった。俺に返事をくれるまでだってそうだった。自分で納得するまでいつまでも立ち止まってしまうのだ。
(よし)
赤信号でストップすると同時に決めた。蒼井さんの話を聞かなくちゃって。だって、別々に住んでいてそんな喧嘩をしたら、仲直りできずに長引いてしまう。それではせっかくの新年を彼女もお母さんも気持ち良く迎えることができない。
「ちょっとドライブしよう」
彼女のアパートとは逆の方向にウィンカーを出す。明るく言った俺を彼女はぼんやりと見返した。
「何があったのか、とりあえず話してみない?」
無言で目を伏せる様子はやっぱり頑固そうで。だから軽い調子で続けた。
「一人で考えてると、悪い方にばっかり行っちゃわない? 話すと問題点がはっきりしてくると思うんだよね」
「問題点ははっきりしてます。お母さんが悪いんです」
「分かったよ。きっとそうなんだね。でも、もう違う方向に走り出しちゃったから、時間があるから話してよ。俺はさあ、蒼井さんが困ってるときは――まあ、役に立たないにしても、せめて一緒に困りたいなあ」
「ふふっ、宇喜多さん……」
やっと笑ってくれた。
「俺は蒼井さんと一緒にいる時間が増えて嬉しいし、蒼井さんはもう一人で悩まなくて済む。これって一石二鳥だよね?」
「ありがとうございます」
やわらかい笑顔で彼女が言った。
「わたしも一緒にいられるのは嬉しいから、一石三鳥です」
彼女に笑顔が戻ってくれて嬉しい。ついでに解決方法が見付かったら一石四鳥だ。




