151 ◇ 罠だった ◇
誕生日の次の夜、お母さんから電話がかかってきた。
スマートフォンの画面に表示された「お母さん」の文字に一瞬、身構えてしまった自分が情けなくなる。家族からの電話に警戒心が湧くなんて。
この時期だと、きっと年末年始の話だろう。ちゃんと帰るのかどうかの確認。
まだ宇喜多さんのことを話す決心がつかないから、年末年始は去年と同じにする予定。新年に宇喜多さんと会うのは早くても一月三日、御用始めの前日だ。
家族に話せないことが宇喜多さんには申し訳ないけれど、お母さんに何を言われるか考えてしまうと、どうしても話す気になれない。話さなくても大きな支障はないわけだし……。
「もしもし? 春希です」
『ああ、春希? 悪いね、夜に。変わりない?』
「うん、元気だよ。おとといはありがとうね。美味しかったよね、あのお店」
『そうだね。さすが、老舗って言われるだけのことはあるよね』
機嫌は悪くなさそう。おとといの食事会が和やかに進んだことも良かったのだろう。……なんて、母親の機嫌を窺っている自分に一抹の淋しさを覚える。
『あの人……ええと、貴博さん』
「ん? ああ、紙山さんの甥御さん?」
『うん。穏やかでいい人だったよね?』
「ああ、そうだね」
あの人についてはそれ以外に説明のしようがない気がする。きのうのお昼に来てくれたときもそれ以上の印象が無い。
(あ、そうか)
職場にあいさつに来てくれたことを話しておかなくちゃ。何も知らない状態で紙山さんから話を聞いたら、「いただきものをしたのに、ちゃんとお礼を言えなかった。義理を欠いた」って怒るに決まってる。
「あのね、きのう、職場にあいさつに来てくれたよ」
『え? 貴博さんが?』
「うん、そう。家族の集まりを邪魔してすみませんでしたって。で、お菓子もらった」
『お菓子?』
「うん。お昼休みに。外回りの仕事のついでみたいだったよ」
会社の紙袋でくれたってことは粗品用のお菓子だったのかも知れない。でなければ「経費で」っていうやつ? そんな自由度の高い予算なんて区役所には無いと花澤さんが言っていた――なにしろたった十円でも決裁方法は同じだし、食べ物に使える予算は一般の課には来ないし、職員の立て替え払いは禁止されている――けど、証券会社の営業の人ならあるんじゃないかな。
「だからお母さん、今度、紙山さんに会ったときにお礼言ってね。もちろん、貴博さんにはその場で言ったけど」
『ああ、うん、そうだね』
良かった。これで怒られるのを一つ回避できた。
「年末年始は去年と同じ予定でいるから。三十日にそっちに行って、二日の夜に帰る」
『ああ、そう?…ねえ?』
「ん、なあに?」
少しの間。何か切り出しにくいことでもあるのだろうか。
『貴博さんがそっちに行ったとき、誕生日だからって言われたんじゃないの?』
「え……、そうだね、それも言ってたよ」
『やっぱり』
「ん?」
(「やっぱり」って……?)
何となく変だ。
「なんで?」
『いや……なんだかね、貴博さん、あんたのことを気に入ったようだからさ』
「え? 全然そんなふうじゃ無かったよ。勘違いだよ」
『そうじゃないんだよ。紙山さんがそう言ってるんだから』
「ふうん」
本人は何も言ってなかった。そんな素振りも無かった。なのに大人たちは勝手にそんな想像をしているなんて、なんだか不愉快だ。
『ねえ、あんたの連絡先、向こうに伝えてもいい?』
「えぇ? なんで? 連絡取りたければ区役所のホームページを見れば分かるよ。あたしの職場を知ってるんだから」
今の口調でお母さんも、わたしが嫌がっていることは分かったはずだ。
『そうじゃなくて、貴博さんとお付き合いしてみたらどうかってことだよ』
嫌がっていることに気付いていても引き下がらない。相変わらず強引だ。
「なんでそうなるの? そんな気無いけど」
これははっきりと言わなくちゃ。自分の人生にかかわることだもの。今までたくさん譲歩して従ってきたけれど、今回はそういうわけには行かない。
『だけど、いい人じゃない? 春希だってそう思ったでしょ?』
「それはそうだけど――」
『だったらいいでしょう? べつにすぐに結婚って話じゃなくて、とりあえずお付き合いしてみたら、って言ってるだけなんだから』
「嫌だ」
『なんで?』
(どうしよう?)
宇喜多さんのことを言ってしまおうか。そうすれば断ることができる。だけど……。
「なんか……、ピンと来ない」
『まあ、確かにこれと言って特徴がある人じゃないけどね、そういう人の方が安心なんだよ。実直そうだし』
「でも嫌だ」
(どうしよう?)
宇喜多さんのことを話すべき? 話したらどうなる? ……怒り出すだろうな。
『何が嫌なの? 大きな会社に勤めてて、職場でも認められてるんだよ? 賭け事とかお酒で失敗するような人じゃなさそうだし、人柄は紙山さんのお墨付きなんだから、断る理由が無いでしょう?』
(ダメだ……)
「ピンと来ない」という理由では納得してもらえない。たぶん、最初からお母さんの中で結論は決まっているのだ。
『あんた、彼氏いないんでしょう? だったらいいじゃない、お付き合いしてみれば』
「絶対やだ」
『なんで? 何が悪いの?』
(もう無理だ。これ以上は)
こうなったら言うしかない。言わなくちゃ。
「お母さん、ごめん」
覚悟を決めた。何を言われても我慢しよう。そして、絶対に引かない。
「あたし、今、お付き合いしてるひとがいるから。だから無理」
『え、何……よ?』
ずいぶん驚いたみたい。お母さんが言葉に詰まるなんて。
『あんた、そういう相手はいないって言ってたじゃない!』
(ああ……)
予想どおりだ。怒り出した。
「それって夏の終わりの話だよね? もう三か月も経ってるよ」
『だけど、何も知らされてないよ』
「だって、決まったのはつい最近だもん。仕方ないでしょ」
二か月以上は経っているけど、そこまで言う必要は無いはずだ。
『仕方ないって……、知ってたら初めから会わせなかったのに』
「初めから?」
これはおかしい。この言い方は。
「それ、どういうこと?」
絶対に変だ。何か仕組まれた気がする。
電話の向こうから機嫌の悪い声が聞こえてきた。
『……紙山さんが、春希と貴博さんなら合いそうだって言ったんだよ。貴博さんは性格は良いのに彼女ができたことがないのがもったいないって。だから、一度会わせてみたいって』
「それって……」
胸のあたりで怒りが固まっていくのを感じる。重くて黒い塊が膨れ上がっていく。
「じゃあ、おとといの食事会はそのためのものだったってこと?」
低い、冷たい声が出た。
「誕生日を口実にしてあたしを引っ張り出したの? あたしの気持ちは聞かないで?」
(まるで貢ぎ物みたいに!)
紙山さんに言われたからって。純粋に誕生日を祝ってくれたのだと思って感謝していたのに!
「どうしてそんなことするの?! 騙してお見合いみたいなこと。ひどいよ!」
『だって、話したら来ないでしょう?』
「当たり前だよ! 必要ないもん!」
『だけど、いい会社に勤めてて性格も折り紙付きなんだよ? こんな良い話、そう簡単に無いんだからね』
「だとしても、騙して呼び出すなんておかしいよ!」
『あんたのためを思って紹介したんだよ。間違いのない相手なんだから』
(何言ってんの?!)
お母さんの言い訳なんて、もう聞きたくない。
「あたしのためじゃないでしょう? 紙山さんの頼みだからでしょう? 今だって、あたしがどんなに嫌がってても断りたくないんでしょう? 相手が紙山さんだから」
そうだよ。お母さんはわたしよりも紙山さんの気持ちが大事なんだ。そんなこと、前から分かってた。
「だけど、あたしは嫌だからね。今は好きなひとがいるんだから。断って」
『親に隠れてこそこそ付き合ってるなんて、ろくな相手じゃないに決まってるよ! そんな相手は認めないよ!』
「宇喜多さんはちゃんとしたひとだよ! 隠れて付き合ってたわけじゃないもん!」
『でも、お母さんに黙ってたじゃないの。言えないような相手だってことだよ!』
「そんなことないよ! 同じ職場の人なんだよ? 変な人じゃないって分かってるよ」
『隠してるかも知れないでしょ? あんたがまだ若くて世間知らずだと思って、騙してるかも知れないじゃない』
(そういうことを言うから……!)
ずっと我慢してきた。だけど、もう限界。
「そういうことを言うから言いたくなかったんだよ!」
『「そういうこと」って何よ?』
「あたしが決めたことを何でも悪く言うことだよ! よく知りもしないで!」
(そうだよ)
「お母さんはいつもいつもそうだったよ。何でもかんでも否定ばっかりで」
頑張っても認めてもらえないだけじゃなく、足りないところだけを責められてきた。親とはそういうものかと思っていたわたしが、友だちのお母さんが娘の自慢をするのを聞いた時の衝撃はどれほどだったことか!
『あんたよりも親の方が世間のことをよく知ってるんだから当然でしょ! 子どもは親の言うことを聞いてればいいんだよ!』
この言葉も何度も聞いた。今と同じように強い口調で言われて、そのたびに自分の意思は消し去るしかなかった。だけど。
「もう嫌だ。本当はあたしのことなんかどうでもいいくせに」
涙で視界がぼやけてきた。泣いていることを知られたくない。でも、鼻水も出てきた……。
「あたしは今までお母さんの言うこと聞いてきたよ? 髪を伸ばしたくても我慢してたし、見たいテレビも我慢してきた。進学もあきらめて就職したでしょ? それでも足りないの? いつまでお母さんの命令を聞かなくちゃいけないの? あたしの人生なんだよ?」
そう。わたしの人生。
行く道は自分で決める。
幸せは自分でつかみ取る。
「お母さんは自分が褒められたいだけなんだよ。他人に自慢できる娘が欲しいだけ。あたしはそんな道具に使われるのはもうたくさん」
『道具になんかしてないよ。何言ってんの、あんたは。自分を悲劇の主人公みたいに考えていい気になってるんじゃないよ!』
「お母さんには何にも分かってない。そうだよね、あたしの気持ちなんて考えたことがないんだから」
『考えてるよ! だからあんたにとって良いようにって』
「もう何もしてほしくない。解放してよ。ほっといてほしい」
………沈黙。
「じゃあ……切るね。おやすみ」
画面に触れる直前。
『勝手にしなさい! あんたなんかもう娘じゃな』
もう何を言われても構わない。
体が重い。何もする気が起きない……。




