146 もう一つ進んで
もうすぐ蒼井さんの誕生日だ。二十歳の。
来週の月曜日。ふたりで食事に行く。食事と蒼井さんの初酒体験だ。
どんな店が良いか、この一か月、ずいぶん考えた。俺の誕生日はネット検索で選んで現地でびっくりしてしまったので、今回は直接確認することにした。
職場やテニス部で交わされる話に注意を払い、元藤さんと北尾さんには恥ずかしさをこらえて尋ねてみた。七、八軒は店の前まで行き、メニューと雰囲気を探った。さらに二軒はそれぞれ宗屋と相河たちを誘って飲みに行った――男ばかりの自分たちが店の雰囲気を壊している気がしたけれど。
見に行った二軒はどちらも個室風のつくりになっていて、周囲の話し声が気にならないのが良かった。違いはすっきりとした和風とムードのあるアラビアンテイストだ。
本音を言えば、蒼井さんと一緒ならアラビアンに行きたい。ふかふかのソファーやクッション、そして少し薄暗い通路と席を隔てるたっぷりしたカーテンは砂漠の天幕にいるような気分にさせる。どことなく秘密めかした雰囲気は俺たちの距離をぐっと縮めてくれるに違いない。
でも。
今回は目的が違う。蒼井さんが初めてお酒に挑戦する日なのだ。
まずは体質的に大丈夫かどうか、そして美味しく飲めるかどうか、それを確かめることが第一。彼女に安心して味わってもらうには、俺の下心を感じさせるような店ではダメだ。
だから迷いなく和の店を選んだ。…迷いは無かったけれど、後ろ髪は引かれた。特に相河が「今度、葵と来よう」と言ったのが聞こえたときには。今回はダメだけど、俺だっていつかは……。
金曜日には税務課の忘年会があった。蒼井さんがお酒を飲めない宴会はこれが最後だ。
彼女はいろいろな人と話しながら、いつものとおり、楽しそうだった。後半は女性職員で集まって盛り上がっていた。
俺は下っ端の職員として、今回は二次会にも行った方が良いかと思っていた。蒼井さんにもそう勧められていたし。
けれど、カラオケだと聞いて遠慮することにした。俺の歌の腕前を知っている先輩たちも気の毒に思ってくれたようで、重ねては誘ってこなかった。だから俺は正々堂々と、蒼井さんと一緒に帰宅グループに入ることができた。
横崎駅で一緒に西川線に乗り換える俺に、蒼井さんは以前のように遠慮はしなかった。はにかんだ微笑みを向けてきただけ。並んで立った電車の中で何気ない会話を交わしながら、俺は電車を降りてからのことを考えていた。
「やっとですね」……と、耳に聞こえたのではない。目から得た情報から脳が導き出したのだ。蒼井さんの最寄り駅である梅谷駅の改札口を出て、彼女が振り返ったときに。
「うん。やっとだよ」……というのも声には出さなかった。ただ彼女を見つめて、そっと手を握っただけ。
すると、胸の中の言葉にならない想いが、てのひらを通って彼女に流れ込んでいくような気がした。そのまま並んで微笑み合う。
明るい駅構内から暗い道路に出ると、木枯らしがひゅうっと吹きつけてきた。蒼井さんが首を縮めて手を強く握る。
「さ、寒い」
つぶやいて、彼女がストールを巻き直した。紺色のコートにレモン色のストールは蒼井さんらしいさわやかな色の組み合わせだ。
「冬用のコートにすれば良かった。宇喜多さんは平気ですか?」
「それほどでもないかな。たぶん、酒が入ってるから」
冷たい風を心地良く感じる程度に。
「お酒飲むと寒くないって本当なんですか?」
「そうだと思うよ。冬に上着の前を開けて帰ったりしたこともあるし」
そこでまたひゅうう…っと風が吹き付ける。
「寒い」
またつぶやいた彼女が足を止めて首をすくめる。そこでふと思い付いて、つないだ手を自分のコートのポケットに入れてみた。
蒼井さんは驚いたらしい。目を丸くして俺を見上げた。
「少しはあったかいかな?」
すると彼女は嬉しそうに……、でも、それを隠すような微笑みを見せてうなずいた。それから腕が絡まるくらいそばに寄ってくれた。
再び歩き出したとき、宗屋の話を思い出した。「恋人つなぎ」のことを。あれを使うのはきっと今みたいなときに違いない。
「ちょっといい?」
断って、つないだ手をポケットから出した。自分の手を開き、不思議そうにしている蒼井さんにも手をパーにしてもらう。今度は指を組むように握って――。
「できた」
組み合わさった手をもう一度ポケットに入れる。さっきよりも自由になった指先で蒼井さんの手の甲をそっと撫でてみたら想像以上にドキドキする。
(やっぱり、もうちょっと一緒にいたいよなあ)
電車の中で考えていたことを実行に移すかどうか迷っていた。彼女が寒がっていたから。でも、こうなったらやっぱり言おう。
「ええと……、遠回り、しない?」
誘う言葉を使うのは、いつまでたっても照れくさい。真正面から彼女を見つめることもできない。
彼女は少しのあいだ無言で俺を見上げて……。
「はい」
にっこり笑ってうなずいた。
胸の中に広がる幸福感―――。
愛するひとがそばにいるということ。自分が彼女を喜ばせることができるということ。そして、彼女も俺と一緒にいることを望んでくれているということ。
そんな諸々の喜びが混じり合って、軽い酩酊感を引きおこす。
(このままずっと歩き続けたい)
ずっと。ずっと……。
「んー……、こっち、かな」
いつも曲がる公園の角で、蒼井さんが前方を指差した。そして、問いかけるように俺を見上げて。
「そうだね」
答えると、つないだ手にきゅっと力が込められた。それからくすくす笑い出した。
「なんだか楽しいです」
くすくす笑いつづける彼女はまるで少し酔っているみたいだ。お酒は飲んでいないはずのに。
(でも……)
俺と同じなのかも知れない。幸福感に酔っている……。
冬の冴えた夜空の下、冷たい風に吹かれて寒いのに、いつまでも外を歩き回っているふたり。
他人から見たら馬鹿みたいに見えるだろう。けれど、俺たちにはこの時間が何ものにも代えがたい貴重な時間なのだ。流れ去っていく時間はどんどん過去になってしまうから。
けれど―――。
「……ちょっと疲れましたね」
「うん……」
蒼井さんのアパートの前に着いたとき、ふたりとも安堵の吐息を漏らした。
住宅街に入り込んでしまった俺たちは、入り組んだ道からなかなか抜け出せなくなり、結果的に三十分以上も歩きまわってしまったのだ。最後はのんびりした気分も消えて、そこそこ急ぎ足で曲がり角を覗きながら歩いてきた。
「戻れて良かったね」
「お疲れさまでした」
自然とねぎらいの言葉も出る。
どこで彼女を見送るべきか一瞬迷い、階段の下でなんとなく手を離して足を止めた。すると、途中まで上った彼女が気付いて下りてきて、俺の腕をつかんで引っ張った。そんな愛情表現が嬉しくて、でも照れくさくて、ニヤニヤするのを見られないように下を向いてついていった。
「お土産があるから」
鍵を開けながら彼女が言った。
「お土産?」
訊き返した俺に笑顔が返ってくる。
(どこかに出張で行ったっけ?)
うちの出張は基本的に市内だけど、行き先の地元で評判の店でおやつを買ってきてくれることがよくある。お菓子やパンだったり、果物だったり。でも、そういうものは普通は職場でみんなに振る舞われるのだけれど……。
「玄関までどうぞ」
促されて玄関に入り、ドアを閉める。その間に蒼井さんは廊下に上がって振り向いた。
「お土産です。おやすみなさい」
言いながら頭を下げた蒼井さん。起き上がると同時に腕を伸ばした。
(あ)
肩と首にかかる手。背伸びをする蒼井さん。それに応じて身を屈める自分。
頬にやさしい感触が触れる。冷たいのは鼻の頭?
(ああ……、もう……!)
激しい衝動が湧き上がる。それに突き動かされるように体が動く。
「蒼井さん」
「ん? あ、わ」
あわてる彼女はあっという間に腕の中。
(ああ……蒼井さん。蒼井さん。蒼井さん!)
名前を一つ呼ぶごとに苦しさが増す。
(離れたくないよ)
離したくない。何時間でもこのままでいたい―――。
彼女の手がおずおずと俺のわき腹から背中を探る。それからしっかりと力がこもり、腕の中の蒼井さんが大きく息をついた。
―――何分ぐらいそうしていただろう。
(帰らなくちゃ……)
このまま居られないのは分かっている。でも、蒼井さんから離れるには強い決意と意志の力が必要だった。
ゆっくりと体を離す。それから腕。そして指が……。
「……またね」
「はい。気を付けて帰ってください」
別れの言葉を交わしたのに、名残惜しさのあまり彼女から目をそらすことができない。
後ずさりながら後ろ手にドアノブを探り、探り当てた瞬間に……心が決まった。
一歩、半。
急な動きに何事かと首をかしげかけた彼女の唇にそっと触れる。唇で。
「お……やす、み、蒼井さん」
声がかすれた。
返事は聞かず、無理矢理視線をそらして外に出た。そうでもしないと帰ることができなくなりそうで。
「はぁ……」
深呼吸をしながら、いつの間にか速くなっていた鼓動に気付いた。風の冷たさで頬の熱に気付いた。
真っ暗な空にはたくさんの星がまたたいていた。




