142 ◇ 決心…しました ◇
食器の片付けはすぐに終わった。いつもよりも多かったけれど、二人でやるとあっという間だ。
宇喜多さんは確かに食器洗いは慣れているみたい。ご自宅は食洗機だけれど、大学のお友だちやテニス部のお付き合いでずいぶんやったらしい。
「ありがとうございまいした。鍋はこのままカゴに入れておくことにします」
「そう? では、お疲れさまでした」
「いいえ、こちらこそお世話になりました」
軽くふざけてお辞儀。
そろそろ宇喜多さんは帰るのかな。三日間みっちりの合宿だったし、明日から仕事だし。そのうえ、わたしの重い話まで聞かされて、きっと疲れているに違いない。
「ええと、蒼井さん。そこに座ってくれる?」
「あ、はい」
示されたのはローテーブルの横のカーペットの上。そこに正座すると、膝を突き合わせる形で宇喜多さんも座った。
「今日はごちそうさまでした」
「わ、そんな」
そんなに丁寧に頭を下げられたら申し訳ない。わたしも急いで頭を下げる。
「たいしたおもてなしもできませんで、すみませんでした。しかも、みっともないお話を聞いていただいた上にお片付けまでしていただいて」
顔を上げたら、宇喜多さんがにこにこしていた。あの話はそれほど負担になっていないみたいでほっとした。
「では」
宇喜多さんが笑顔のまま、すっと背筋を伸ばした。
「お返事させていただきます」
「え……?」
(帰るんじゃないの……?)
宇喜多さんは相変わらず姿勢正しくにこにこして座っている。
「え……と、お返事……って」
さっきの話のお返事? 話したばっかりなのに?
「ちょ、ちょっと待ってください。あの話なら一晩くらい考えてからで――」
…と言っているうちに、宇喜多さんが表情を引き締めた。
「僕の気持ちは変わりません。どうか末永いお付き合いをお願いします」
そこでまたぺこりと。今度は顔を上げる気配が無い。
(そんな……)
こんなにすぐに返ってくるとは思わなかった。しかも。
(どうしよう? なんか申し訳ない!)
宇喜多さんに頭を下げさせちゃうなんて!
「あの、あの、顔上げてください。わたしなんかにそんなに丁寧にしないでください。申し訳ないです」
あわてて近付いて腕に触れると、やっと顔を上げてくれた。そこに微笑みが浮かぶのを見てほっとして。
(あ)
引っ込めようとした手をつかまれた。
「これでオーケー?」
宇喜多さんのやさしい質問。
(「オーケー?」って本当に…いいの……?)
つかまれた手から熱が心臓に、そして頬に上ってくる。
「え、ええと、じっくり考えてもらうつもりだったんですけど……」
「考えたよ。お皿洗いながら」
「いや、でも、落ち着いて考えるためには一旦、家に帰って……」
「大丈夫。手仕事すると落ち着くから」
「でも、だけど、うち、いろんな事情が。お母さんのこととか」
「うん。でも、蒼井さんのお母さんは別に悪いことをしてるわけじゃないよね?」
「そう……ですけど……」
そりゃあ、お母さんはちゃんと離婚している。法に触れるようなことはしていない。
「家族のことを言うなら、うちだって」
宇喜多さんがちょっと真面目な顔をする。
「口うるさい姉が三人もいるんだよ? 世間で小姑って言うやつが。蒼井さんなんか食べられちゃうかも知れないよ?」
「くふ、そんな」
思わず笑ってしまった。
言葉とは裏腹に、宇喜多さんとお姉さんたちが仲が良いことが伝わってくる。きっと、宇喜多さんと同じように温かいひとたちなんだろう。
「ちょっとごめん」
宇喜多さんはわたしの手を離すと、脚を崩して胡坐で座り直した。正座をする機会なんて滅多に無いから疲れたのかも……?
「はい、ここにどうぞ」
(え?)
腕を引っ張られて自分の耳と目を疑った。
(本気で言ってる? そこに? 子どもみたいに?)
脚の上に座れと言っているのは間違いなさそう。そこと宇喜多さんの顔を無言で見比べていたら。
「ほら、遠慮しないで」
遠慮してるわけじゃないんだけど……と思っているうちに、
「う、わ、わ……」
あっという間に宇喜多さんの前に収まっていた。後ろからお腹を抱えられて。
「どうかな?」
「ん、ええと、は、恥ずかしいです」
ほかに言いようがない。
本音を言えば、すっぽり包み込まれている感じが嬉しい。だけど、そんなこと、口が裂けても言えない!
とにかく後ろ向きで良かった。顔を合わせないで済むから。
(でも……)
とってもほっとする。
わたしの内側にも温かさが満ちてくる。ほうっと息を吐いたら肩の力が抜けて、耳の後ろで宇喜多さんがクスリと笑った気配がした。
「蒼井さんはさあ」
わたしをあやすようにそっと左右に揺れながら、宇喜多さんが話し出す。
「俺のこと、すごく高く評価してくれているみたいだけど」
ゆら、ゆら、ゆら……。
やさしく揺れて心地良い。耳の上あたりで声がするのはくすぐったくて。
「嬉しいけど、それは勘違いだよ。俺、勉強とスポーツはまあまあだったけど、それは学校だけの話だから。社会に出て必要なことって全然違う。今、必要なのは、ミスをしない注意力とか、市民に寄り添う気持ちとか、円滑な人間関係を築く心配りとか、整理整頓とか……、料理とか掃除みたいな生活スキルもだよね」
確かにそうだ。そこは納得。
「俺にはまだ、そういうものが全然足りてない。俺から見たら、蒼井さんの方がずっとすごいよ。仕事も気遣いも、勉強を頑張ってることも、一人暮らしをしてることも。年下なのに、俺よりずっとちゃんとしてる」
「そんなことありません。まだ分からないことばっかりだし、失敗することもたくさんあるし」
「ふふっ。うん、そうだよね」
動きを止めた宇喜多さんがわたしを抱え直す。それに合わせてちょっと寄りかかってみたら、また宇喜多さんが笑った気配。
「俺たち二人とも、まだちゃんとした大人になってないんだよね。足りないことばっかりだと思うよ。だからさ、お互いに足りないところを補い合って、一緒に進んで行ったらいいんじゃないかな」
「補い合って?」
「うん。蒼井さんが苦手なことは俺が受け持つよ。で、その逆も」
宇喜多さんとふたりで、驚いたり失敗を笑い合ったりしている場面が目に浮かぶ。ふたりともとても楽しそう。そして、とても当たり前のように見える。
「宇喜多さんの話を聞いていると、何でも上手く行くような気がしてきます……」
こんなふうにしていると、ますます安心して。
「そうなるように努力しようよ」
努力。杏奈さんも言っていた。そして、それならできそうだと思った……。
「蒼井さん、前に賭けの話をしてたよね? あのとき、蒼井さんは俺のことしか言わなかったけど、蒼井さんはどうなの? 俺に人生を賭ける気はある? 結果が出るまで長い賭けになるけど」
(ああ……、そうだった……)
深く、大きく、息をつく。
(宇喜多さんだけじゃなく、わたしにとっても賭けなんだ……)
宇喜多さんがどうこうじゃなくて、わたしが宇喜多さんを信じられるかどうか、それこそが鍵だったのだ。
「わたし……、今まで、自分が我慢すればみんなが楽しく過ごせるって思ってきました。自分から何かを求めるのはわがままだって」
「違うよ、それは」
思いのほか強く否定されて思わず振り向くと、宇喜多さんが真剣な顔をしていた。
「蒼井さんだけが我慢すればいいなんて、誰も思ってないよ。俺は、自分が楽しいときは蒼井さんにも楽しんでほしいよ。我慢なんかしてほしくない。一緒に楽しめなくちゃ意味が無いよ」
「……ありがとうございます」
胸の中で何かが溶けていく感じがする。
宇喜多さんのこの真剣さが嬉しい。この一途な気持ちは信じることができる。
ほっとしながら前に向き直って、もう一度、宇喜多さんに背中をあずけた。
「わたしも最近、そうかなって思い始めました」
これについては、みんなから背中を押された気がする。
「いろんな話や意見を聞いたり……、あと、宇喜多さんがわたしが頼みごとをしたときに喜んでくれたりして」
「うん、そうだよ」
宇喜多さんが励ますように、わたしを抱える腕に力を入れた。そこに自分の腕を重ねてみる。
「だから……」
不思議だな。あんまりドキドキしていない。こういうときって、もっと緊張するものだと思っていたけれど。
「わたしからも、よろしくお願いします」
言い切った途端、宇喜多さんの息をのむ気配がして肩に顔が伏せられた。それから小さく「うん」という声と同時にうなずきが伝わってくる。
「わたし、宇喜多さんと一緒にいたいです。一緒いられたら幸せだと思います」
「うん」
「でも、わたしがわがまま言ったら、ちゃんとダメって言ってくださいね? 甘やかしちゃダメですから。約束してください」
「うん……、うん…………」
「それと、わたしのことが嫌になったらそう言ってください。好かれていないまま一緒にいるのは嫌です」
「……うん」
肩の上で宇喜多さんがうなずく。泣いているわけではなさそうだけど、言葉が少ないのは何かをこらえているみたい……?
(とにかく、お返事をしたんだから)
あとは進んで行くだけ。
宇喜多さんはこれからもずっと、わたしを大事にしてくれると思う。それは間違いなく信じてる。
宇喜多さんがわたしを好きでいてくれる限り、わたしも頑張れる。その点に関しては迷いも不安も無い。宇喜多さんが喜んでくれるなら、苦手なことにもチャレンジしてみてもいい。
(だけど……)
お母さんのことを考えると少し不安だ。宇喜多さんのことをどう伝えたらいいんだろう? 紹介したときに嫌味を言ったりしそうで……。




