141 動き出した歯車
小さなテーブルに向かい合っていただく食事は楽しく始まった。
ベーコンとキャベツのスパゲティは塩味で、粉チーズとよく合って美味しかった。付け合わせはきゅうりとトマトにゆで卵を散らしたサラダとインスタントの卵スープ。
蒼井さんは「普通のものしか作れないから」と謙遜したけれど、俺から見たら十分尊敬に値する。短時間で支度が出来て、しかも周囲に気兼ねなくくつろいで食事ができるのだから。俺も絶対に料理を覚えよう。
ほぼ食事が終わり、合宿の思い出話が一段落したところで、蒼井さんがつと居住まいを正し、俺を部屋に招いた本題に入った。つまり、彼女が俺に返事ができなかった理由を話すこと。
「とりあえずは何も言わないで全部聞いてほしいんです。宇喜多さんのお返事はあらためて聞きますから」
そう言ってからゆっくりと、でもしっかりした口調で話し始めた。
俺がなんとなく感じていたとおり、彼女は自分の家族――お母さんに対してわだかまりを持っていた。嫌いなのではない。恩も感じている。けれど……。
そして、宗屋が予想したとおり、育った家庭の経済的な状況の違いが俺と彼女の相互理解を阻害すると信じていた。
俺が少しだけ驚いたのは彼女のお母さんの男性の友人のこと、そしてもう一つ、彼女が自分を自分の幸せを優先する身勝手で愛情不足の人間だと考えていることだった。
これらのことを語るあいだ、彼女は何度か口ごもり、唇を噛んだ。おそらく、覚悟を決めて話し始めてはみたものの、負の事情を口に出すことはやはり簡単ではなかったのだろう。俺は話の内容よりも、蒼井さんがそういう事情に傷付いていることに胸が痛んだ。
最後に彼女はこう締めくくった。
「こういう事実を加えて、もう一度考えてほしいんです。それでもわたしでいいのかどうか。今すぐにはお返事をしないでください。冷静に考えてほしいから」
(ホントになあ……)
心の中でため息をついた。
(俺なんかよりもずっと真面目だよなあ……)
俺が了解したと言うのを待って、真っ直ぐに見つめてくる瞳。正座して背筋を伸ばした姿。俺にとってはそんな真面目さそのものが尊敬と愛情の対象なのだけれど、彼女はまったく分かっていない。
「蒼井さんの話には事実じゃないことがあるよ」
指摘すると、彼女は小鳥のように首をかしげた。
「蒼井さんが自分優先の人間だなんて、そんなこと、絶対に無いから」
「でも、実家に帰りたくないのは本当だし、前に『宇喜多さんのためにならないから断りたい』って言ったのも、本当は自分の嫌なところを知られたくないっていう気持ちもあって……」
「いろんな事情があるし、そういう気持ちは誰にでもあると思うよ。それに、今日は俺のことを考えて話してくれたんだよね?」
「それは……、宇喜多さんは身内じゃなくて、ただ巻き込まれる側だから」
「俺に迷惑をかけたくない?」
「はい」
「ほらね? 自分勝手な人はそんなこと言わないよ」
彼女の顔に弱気な表情が浮かんだ。
「で、でも、自分の子どもを可愛く思えないかも」
「それは想像だよね? 事実じゃない」
「だけど、本当にそうだったら……」
「蒼井さんがそうだとは思えないよ。でも、もしもそうだったら一緒に考えようよ。俺たちふたりの子どもなんだから」
堂々と言ってしまってから気付いた。これではまるっきりプロポーズだ。
なんだか気恥ずかしいけれど、蒼井さんはまったく疑問を感じていないらしい。と言うことは、彼女はすでに結婚を前提として考えているということだ。
胸の中に幸福感がこみ上げてくる。くちびるに微笑みも浮かぶ。それなら俺もそのつもりで答えなければ。
「あの、だけど、なんかこう……一緒に暮らしたら、きっといろいろ考え方とか価値観が違ったりして……」
俺が微笑んだことに戸惑ったのだろうか。蒼井さんの口調ががしどろもどろになった。
「それってたぶん、経済的な面だけに限らないと思うよ?」
「もちろん、学歴の違いもあるし」
「学歴とは違う気がするけど」
そもそも俺は蒼井さんの学歴など気にしたことはない。
「大学のときだっていろんなヤツがいたよ。勉強に向き合う態度とか、友達付き合いとか、人生観とか。同意できることも、絶対に認められないとこともあったよ」
「それは……そうですよね」
「俺が嫌なのは、誰にもバレなければ何をやってもいいっていう考え方だな。ずるいことやごまかしをして平気でいるとか、他人を犠牲にすることをためらわないとか」
「そういうのはわたしも嫌です」
思わず、というように蒼井さんが言った。
「だよね。ほら、同じ価値観を持ってるよ、俺たち」
「で、でも、知識の差があるし、話が合わないかも……」
「何言ってるの?」
どうして気付かないんだろう。もう半年も一緒にいるのに。
「俺は蒼井さんと一緒にいるとき、いつも楽しかったよ? 蒼井さんは俺と話しているとき、分からないことだらけでつまらない、なんて思ってた?」
「そんなことありません。知らないことを教えてもらうのも面白いし……」
「だったら学歴は問題無くない? 俺だって蒼井さんに教えてもらうことがたくさんあるし」
「それは、わたしの方が一年早く仕事に就いたから……」
「それだけじゃないよ。目の付け所が違うんだよ。価値観が違う人と話すと新しい視点で物事を見ることもできるから、新鮮だし勉強にもなるんじゃないかな。そういう利点を考えたら、価値観の違いってあってもいいよね?」
「う……」
蒼井さんが言葉に詰まる。それからふと何かに気付き、少し怒った顔をした。
「宇喜多さん、わたしを説得しようとしてますよね?」
「当たり前じゃないか」……と胸の中でつぶやく。口ではただ「そうかな?」ととぼけて。
「そうですよ。ダメなんです、説得しようとしちゃ」
不満顔もいつものとおりかわいらしい。
「わたしの事情を全部お話しして、その上で宇喜多さんに決めてもらうっていう計画なんですから」
「……ん? それって」
つまり。
「蒼井さんはオーケーってこと?」
「え、あ……」
彼女の視線が泳いだ。
(なんだ!)
説得する必要なんて無かったんだ!
「ありがとう、蒼井さん!」
膝でずりずりとテーブルをまわって蒼井さんの隣に移動。それから彼女の両手を握って。
「ふたりで幸せになろうね! ああ、嬉しいよ。決心してくれてありがとう!」
「え、いや、あの、宇喜多さん、あの、そうじゃなくて」
握った手を必死で引き抜かれてしまった。
「ちょっと待ってください。落ち着いて」
てのひらをこちらに向けて、身振りでも俺に訴える。俺もときどきうちの犬にそんなそんなふうにするけれど、人間にも効き目があるようだ。俺も自然と姿勢を整えて、彼女の言葉を待つ態勢になった。
「さっき、今すぐには答えを出さないでって言ったじゃないですか。落ち着いて考えてほしいんです」
「落ち着いたって俺の気持ちは変わらないよ。前にも言ったと思うけど」
どんな事情があっても……って言ったのに。
「でも、予想してなかった話もありましたよね?」
思わず思い当たる表情になったのを彼女は見逃さなかった。
「だから、もう一回考えてみないといけないんです。あとになって『やっぱりダメだ』なんてことになったらお互いに不幸ですから」
(ああ……、そうか)
蒼井さんがここまで慎重になる理由がすとんと胸に下りてきた。
彼女は失敗するのが怖いのだ。失敗によって降りかかる不幸や悲しみが。
(そうなんだ……)
俺が気持ちを伝えた日、彼女は「ダメになっちゃうからこのままでいたい」と言った。彼女の中では好きな相手と幸せになることへの期待よりも、不幸に対する恐れの方が大きいからだ。
だから、リスクをぎりぎりまで減らしたいと思っている。そのためのステップを彼女は踏んでいるのだ。
(そうか……)
たぶん、蒼井さんは今までいろいろなことをあきらめてきたのだろう。大学に行けなかったことだけじゃない。経済的に苦しい家庭で厳しいお母さんに育てられた彼女は、我慢することや、与えられたものだけで満足することが身に付いているのだろう。
もちろん、それ自体が不幸というわけではない。でも――だから、手に入るものがとても大切なのだ。そして、失うことを恐れている。次を期待する、という考え方ができないから。
彼女は俺との関係をそれほど大切に思ってくれている。そして今日、それが壊れることも覚悟して、話したくなかった事情を話してくれた。
今度は俺の覚悟を示す番だ。そして、それを信じてもらわなくちゃいけない。
「……仕方ないな」
そう言うと、彼女がほっと息をついた。
「わかったよ。一旦、考えることにする」
蒼井さんを納得させるには時間を置くしかない。そして計画を練って……。
「じゃあ、俺、食器洗うよ」
「あ、いえ、そんな、お客様だから――」
「あはは、お客様なんてほどのものじゃないよ。大丈夫。俺、食器洗いなら慣れてるから」
「それならわたし、拭きます」
「そう? じゃあ、一緒にやろう」
仲良く仕事をするのも楽しいだろう。
(あとは……)
どのタイミングで俺の決定を伝えるか……だな。




