140 初訪問!
「宇喜多さん、どうもありがとう。蒼ちゃん、またね〜♪」
「お疲れさまでしたー」
「お疲れさまでした。失礼します」
元気の良い元藤さんと別れて車を出した瞬間、車内にふわりと沈黙が落ちた。夕暮れの時間はすでに過ぎ、車のヘッドライトが道路脇に並ぶ家を浮かび上がらせる。
運転席の後ろから蒼井さんの小さなため息――深呼吸?――の気配。テニスとおしゃべりでいっぱいだった合宿もこれで終了だ。
「良かったら、ご飯食べて帰らない?」
早々に、用意しておいた言葉を口に出す。蒼井さんから話を聞き出すには送り届けるだけの時間では足りないと思い、きのうの夜から考えに考えたさり気ないはずの誘いだ。警戒されないように笑顔を作ってみたけれど、ルームミラーで目を合わせる前に視線を戻してしまった。
「ええと……、ファミレスですか?」
「うん、そうだね」
車を置けて、少し長居しても大丈夫な店となると、ファミレスしか思いつかない。
「疲れてるかなあ? 早く帰りたい?」
すぐに返事が聞こえなくて、気弱な自分が出てしまった。俺の計画はここで打ち切りか?
「うーん、そういうわけじゃ……ないんですけど……」
鏡の中に眉間にしわを寄せて考え込んでいる彼女が映る。何か困ることがあるのだろうか。
「あの」
(うわっ)
急に声が近くなったのでびっくりした。いつの間にか、シートの背もたれをつかんで身を乗り出していた。
「あの、うちに来ませんか? 麺類で良ければお夕飯作ります」
「ええっ?」
(蒼井さんの部屋に? 俺が?)
突然の展開。蒼井さんの熱心な様子もいつもと違う。
可愛らしい調度の小さな部屋で仲睦まじく食事をしているふたりが目に浮かぶ。同時に胸があやしく騒ぎ出す。
(とてつもなく嬉しいことが起ころうとしている!)
「え、い、いいっ、いいの、かな?」
浮き立つ気持ちがどうにもならない。だって、部屋にどうぞってことは。
「はい」
(つまり、恋人未満は終了……?)
そういうことではないだろうか。
(だって)
自分を好きだと言っている男を一人暮らしの部屋に招くなんて。そんな危険なことを蒼井さんが軽々しくするはずがない。
(そして……)
この前の話だと、誰にも見られない場所での行為は「俺の判断」で……。
(なんてことだ!)
いやいやいや、それはまだ早い。でも、とうとう――。
(俺たちは恋人なんだ……)
勉強と合宿でしばらくふたりの時間が無くて不安だった。でも、蒼井さんはちゃんと考えてくれていたんだ。そして、こんな方法で結論を伝えてくれた。表現が遠回しなところがまた。
(蒼井さんらしくてかわいい!)
あの日だって、手をつなぎたいと分かるまで、ずいぶん時間がかかってしまった。でも、今日はちゃんと理解した!
「少しだけお買い物して、車はどこか――」
「近くに時間貸しのパーキングがあったと思う。そこに停めるよ」
「はい。お願いします」
「あはは、そんな」
こちらこそよろしくお願いします、だ。決心してくれて嬉しいよ!
(格好良く振る舞えるかな……)
蒼井さんを失望させたくない。
ああ……、はやる心でアクセルを踏み込んでしまいそうだ!
途中で食材を買ったあと、先に部屋を片付けると言う蒼井さんをアパートの前で降ろしてから車を置きに行った。思えば俺が一人であのアパートの階段を上るのは初めてだ。
(恋人の部屋を訪ねるときってこんな気持ちなのか……)
大いなる期待と少しの不安。
失敗しないように気を付けなくちゃ。まずは蒼井さんの手料理が先だ。俺も何か手伝おう。
二階の廊下に出るとほぼ同時に一番奥のドアが開いた。俺が来るのを窓から見ていたのかも知れない。ぺこりと頭を下げる蒼井さんに夢中で振りそうになった手にブレーキをかけた。
(焦るな。落ち着け)
足の運びは一歩ずつ着実に。表情はあくまでもクールに。
「いらっしゃいませ」
「お邪魔します」
彼女も微妙に緊張しているようだ。初めての彼氏訪問なのだから当然だ。
「あんまり片付いてないんですけど、スペースは空けましたから」
玄関に入って思い出した。一度、ここで蒼井さんを抱き締めたことがある。
(いやいやいや! まだだぞ!)
今日は時間がたっぷりある。
「こっちです。どうぞ」
玄関からまっすぐ延びる通路の突き当りに部屋がある。途中の扉は洗面所や物入れだろう。
「うちは床の生活なんですけど、大丈夫ですか?」
「全然かまわないよ」
通された部屋は蒼井さんらしい、すっきりと明るい部屋だった。
カーペットは淡いピンクとベージュの幾何学模様。正面のカーテンは白地に薄緑色の葉が踊っている。部屋の真ん中に水色のローテーブル。左右の壁沿いにテレビや本棚が並び、隅っこに布をかぶせた大きな四角いものが寄せてあった。折り畳み式のベッドを片付けてあるらしい。
(そうだよな……)
蒼井さんなら当然の処置だ。そういう配慮にほっとしたけれど、一方でがっかりもしている自分を叱る。
落ち着かない気持ちを隠すため、カーテンに近付き、隙間から外を覗いてみる。
「いつもここから見送ってくれるんだね?」
いつも蒼井さんを降ろす場所は……あそこだ。
「そうです」という声は離れた場所から聞こえた。冷蔵庫を開け閉めする音も聞こえる。振り向くと、小さなカウンターの向こう側で蒼井さんがエプロンをかけていた。近付いてみると一畳くらいのキッチンだった。
「ちゃんとしたキッチンがあるんだね。大学の友だちが住んでた部屋はコンロが一つ置けるくらいのスペースしか無かったけど」
「自炊するつもりだったから、そういう部屋を探したんです」
赤いエプロン姿もかわいらしい彼女がキャベツを吟味しながら答えた。今日のメニューはキャベツとベーコンのスパゲティだそうだ。
「何か手伝うけど?」
「ええと、じゃあ、これを開けてください」
カウンター越しに手渡されたのはスパゲティの袋。仕事をもらえてほっとした。じっと座っていられるほど肝が据わっていないのだ。
でも、指示に従って細長い入れ物に乾麺二人分を入れると、俺の仕事は無くなってしまった。あとは電子レンジが仕事をしてくれるらしい。便利な世の中も、こういうときには具合が悪い。
手持ち無沙汰のままカウンターの前に立って、切ったり炒めたりしている蒼井さんと話をする。蒼井さんは手を動かしながらちゃんと会話をしてくれた。調理の動作が体にしみ込んでいるのが分かる。
「俺も料理できるようになりたいなあ」
蒼井さんの役に立ちたい。仕事を続ける蒼井さんのためにも、俺が夕食を作れないと。
「慣れればすぐにできますよ。それに、最近はお料理の味付けの素もいろいろ出てますから」
「ああ、そうだったね」
さっき買い物をしたときに見た。スパゲティ用の商品以外も中華料理や和惣菜、鍋用スープなど、あらゆるものがあるようだった。
「お野菜も切って売っているものがあるし。カレーセットとか鍋セットとかも」
「へえ、至れり尽くせりだねえ」
良い匂いが立ち上ってきた。蒼井さんが炒めているキャベツとベーコンの鍋からだ。菜箸に追い立てられながら、薄緑色のキャベツがだんだん透き通ってつややかになっていく。
「それに、宇喜多さんならお料理も上手そうです。大事なポイントをしっかり押さえてできそうだから」
そう言われるとかなり嬉しい。
「うん。俺、がんばるよ。安心して任せてもらえるように」
……と、それまでせわしなく動いていた蒼井さんの手が止まった。顔を上げると、問いかけるように俺を見つめている彼女と目が合った。そこで胸騒ぎが。
「……あ」
ハッとして鍋の作業を再開する蒼井さん。
「ええと、それは……」
という質問は気まずそうに視線を鍋に向けたまま。
「まだお返事してないです……よね?」
(しまった!)
早とちりだったのだ。すかさず軌道修正に移る。
「うん、まだだよね。でも、俺の心構えは伝えておこうと思って。判断材料の一つとして」
さわやかに微笑んだつもりだけど、わざとらしい気もする。でも、部屋に誘われてすっかりその気だったなんて、絶対に知られちゃいけない!
「ああ……、はい……」
けれど、どうやらフォローしきれなかったらしい。それまでの和やかムードが跡形もなく消えてしまった。蒼井さんはもう何も言ってくれず、硬い表情できゅうりとトマトを切り始めた。――と思ったら手を止めて。
「そのお話……」
「え?」
「実は、そのお話をするためにうちに来てもらったんです……」
「あ……」
胸のあたりがぎゅっと苦しくなった。
(そうか。だからファミレスじゃなくて……)
他人に聞かれない場所を選んだのだ。
(俺だって最初はその話をするつもりだったんだよなあ……)
なのに、部屋に招待されて一足飛びに自分の望む結論にたどり着いた俺は、なんてお目出度い男なんだろう! しかも、今度は話すと言われて怖じ気づいている。
(情けない……)
誕生日のキス未遂事件もそうだし、焦り過ぎだ!
無言になった部屋に美味しそうな匂いだけが空しく漂う。言うべきことも取るべき態度も分からなくて、そんな自分を責め始めたとき――。
ピピピピピピピピピピ……。
電子レンジの音に救われた。この機会を逃してなるものか!
「あ、俺がやるよ」
「え、あ、そうですか? じゃあ、このフタをして……、ああ、そのままだと熱いのでこれで……、気を付けてくださいね、火傷しちゃうから」
「うん、大丈夫。流しで水を切ればいいんだよね?」
「はい」
不慣れな俺を心配する蒼井さんにほっとする。どうやら気まずさはリセットできたらしい。
「じゃあ、この鍋に入れて……、ええと、それじゃあ、そこのお皿をください。あと、テーブルを拭かないと」
慌ただしく動き出した蒼井さんのまわりで俺もうろうろする。動きながら気持ちと覚悟を立て直しを図るために。




