136 テニス部合宿 その1
蒼井さんはまだ返事をくれない。
誕生日に嬉しい気分を味えた分、何も変化が無いことが余計に不安だ。
勉強が忙しいと言われると、帰りや休日に誘うのもためらわれるし、通勤電車の中では彼女の気持ちを確かめるような言動はできない。電車がもっと混んでいれば……などという不謹慎な想像を追い払うのに忙しいだけ。
彼女の気持ちが固まるまで待てると思い、彼女にも「待つ」と伝えた。けれど、ときどき待てない気分になる。すぐにでも彼女を自分のものにしたいという衝動がわいてきたり。
そんなことを考えるなんて、俺って危ない男なのだろうか。周囲に真面目だという印象を与えるような性格だから、潜在的に抑圧された部分が大きいのか? もちろん、思うだけだから、誰にも迷惑はかけていないけれど……。
こんな事態になってみると、大学時代に恋愛話から距離を置いていたことが悔やまれる。
あのころは興味が無かったから、友人の話など適当に聞き流していた。みんなも俺に話しても面白くないし意味が無いから、俺の前ではあまり話題に出さなかったのだろう。俺が恋愛関係のことに疎いのは自分が原因なのだ。
だとしても、これほどどうしたら良いのか分からないとは思わなかった。こういうことは誰にでも基礎的な能力として備わっているのかと思っていた。でも、どうやらそうではないらしい。
蒼井さんと出会い、仲良くなり、彼女の思いや葛藤を知るようになった。楽しませてあげたい、手伝ってあげたいという気持ちが恋になった。
一緒の時間を作るのも、デートに誘うのも、どう過ごすのかも、何もかも手探り。期待が膨らんだかと思うとたちまち萎み、ドキドキして、緊張して、酔った勢いも借りた。
その苦労が実り、蒼井さんも俺を好きになってくれた。
なのに、そこから先に進めない――。
彼女が決心がつかないから仕方がない……のだけれど、ただ待っているだけで良いのだろうか? そこが分からない。
放っておいたらこの状態が定着して、いつか、ただの友人関係になってしまうのでは? だけど、強引にことを進めたら、今の良好な関係を壊してしまうかも知れないし……。
やっぱり俺には待つことしかできないのだろうか? 少しくらい彼女を急かすようなことができたら……。
俺たちの関係は進まなくてもカレンダーは滞りなく進み、シルバーウィークも後半に突入。テニス部の合宿が始まった。
いつものとおり、朝一番で蒼井さんを迎えに行き、途中で元藤さんともう一人を車に乗せて、富士五湖にほど近い合宿所に向かった。
渋滞を避けて出発が早かったため、準備で夜更かししたという蒼井さんは、現れたときにはまだ寝ぼけ眼でぼんやりしていた。いつもしゃきしゃきした姿しか見せない彼女だけど、本当は朝が弱いらしい。ほやほやと頼りない彼女にかき乱される心をなだめながら、一緒に暮らせたらこんな姿が毎朝見られるのか……とむなしい夢を描いた。
途中のサービスエリアでほかの部員たちと合流し、昼前には現地に到着。宿は大きめの民宿だ。簡単な昼食と飲み物などの買い出しを済ませ、さっそく練習が始まった。
いつもの土曜日の練習と違い、専用のコートで帰る時間を気にせずにテニスに打ち込むのは気持ちが良かった。天気にも恵まれ、秋になりかけたさわやかな空気の中でスポーツをするのにはもってこいの日だ。鮫川さんや前下さんと一緒に経験者のグループにいると気を散らす余裕など無く、久しぶりに何時間も集中してボールを追いかけた。
「じゃあ、休憩にしよう。十五分ね」
「はい!」
散らばっていたボールを拾い、各々飲み物やタオルを手にコートのまわりに置いてある椅子へ散っていく。まだ新入りの俺は少し遠慮して、一番遠くにある椅子に腰掛けた。
奥のコートでは蒼井さんや宗屋たち初級グループが練習中だ。宗屋の力任せのスイングは思わず注目してしまう勢いがあって、上手くなったら手強そうだ。トレパンにポロシャツ姿の蒼井さんは自信の無さがぎこちない動きに表れているけれど、ときどき綺麗な返球が出る。
「気持ちいいですね!」
元気な声で話しかけてきたのは北尾杏奈さん。勢いよく隣の椅子に座ると、テニスウェアからすらりと伸びた足を投げ出してスポーツドリンクをあおった。
「でも、久しぶりだからへばっちゃってダメ。体力が落ちてるのを実感しちゃう」
「それは俺も同じです。思っていたよりも足が動かなくて悔しい思いをしてます」
「ああ、練習中に何度も悔しがってましたよね?」
「あれ? もしかして目立ってましたか?」
「目立ってたって言うか、宇喜多さんでもあんな言葉を使うんだなあって感心してたんです」
「えぇ? プレーよりも言葉遣いに注目されるなんて……」
がっかりしてみせると北尾さんがはじけるように笑った。彼女は太陽の下がとても良く似合う。
「ねえ、宇喜多さん?」
「はい?」
北尾さんがこちらに身を乗り出した。そしてささやき声で。
「蒼ちゃんとはどうなってるんですか?」
「ぶふっ」
飲みかけていたスポーツドリンクを思わず噴いてしまった。
「どどど、どうって」
落ち着いていた心拍数が跳ね上がり、体が熱いような冷たいような、おかしな感覚に襲われる。
ごしごしと汗を拭いだした俺にお構いなく、北尾さんがますます身を乗り出してくる。
「ちゃんと進んでます? あれから一か月でしょう? 蒼ちゃんは何も言わないけど、ちゃんと気持ちを伝えたんですか?」
「い、いや、あの、それは」
そう言えば、北尾さんと元藤さんは俺の気持ちを知っていたのだった。白瀬さんの一件のときに、酒のつまみ代わりに宗屋が大袈裟に話したし。
「え? もしかして、まだなんですか?」
軽蔑を含んだ視線が不意打ちで準備ができていなかった心を責めたてる。
(でも、こんな場所では話せないよ!)
こんなオープンな場所で、しかも当の相手が見える所にいるのに!
「お、俺なんかよりも、北尾さんはどうなんですか? もう前下さんに『かっこ悪い』って言ったんですか?」
「きゃ〜〜〜、やだやだやだ! やめて! しーっ、しーっ。」
今度は北尾さんがあわてて口の前に指を立てる。
「もっと小さい声で! もうやだ、宇喜多さん! こんなところじゃダメだよ!」
小声で叫びながら、照れ隠しなのか俺の腕をパタパタとたたいた。持っていたペットボトルが揺れて中身がこぼれそうになる。
「何言ってるんですか。北尾さんだって俺に聞いたじゃないですか」
自分の話から解放されて余裕ができた。人の悪い笑顔を見せるのは、今度は俺の番だ。
「でも、蒼ちゃんはあっちにいるじゃない! わたしの場合はそうじゃないでしょ? 近くにいるかも――」
「楽しそうだね。まだまだ余裕で走れそうだなあ」
「あ」
「まっ、前下さん?!」
突然、本人が後ろから現れた。自分が話題に上っていたことには気付いていない? 北尾さんは気まずさのあまりタオルを頭からかぶってしまった。となれば、ここは俺が話をつながなければ。
「いやあ、俺はこんなに長い練習は久しぶりなのでキツいです。でも、北尾さんは元気そうですよ」
北尾さんがタオルの陰から俺をにらんだ。でも、前下さんも俺の話に乗ることにしたらしい。
「うん、俺もそう思ったよ。杏奈ちゃんの今の様子だと、次のボレー練習は一カゴ分一人でできそうかな」
「え、そんな! 一カゴ分?!」
「うん。俺が球出ししてあげるよ?」
北尾さんの椅子の背に手をかけて、横から顔をのぞき込む前下さん。思いのほか二人の距離が近くて、なんだか俺の方がドキドキしてしまう。だって、見ようによっては前下さんがキスをしようとしているみたいだ。
(なるほど、こういう距離の縮め方もあるのか……)
ドリンクを飲みながら、ふたりのやり取りをこっそりと観察。
(触れていないのに親密な距離。さすが前下さんだ)
わざとなのか無意識なのかは分からないけれど、北尾さんが舞い上がっているのは明らかだ。俺も今度、使ってみよう。恥ずかしがる蒼井さんを見られるに違いない!
(……ん?)
前下さんが俺に向けた視線。一瞬、問いかけるような表情が浮かんだように見えた……けれど、すぐにいつもの笑顔になる。
「宇喜多くんはいつ見てもフォームが綺麗だねぇ。ぶれないんだよね」
「でも、速さについて行けないんですよね。融通が利かないのは性格と同じです」
「融通が利かないって……あははは、自分で言うんだ?」
「ええ、十分に分かってるんです。もう何年も言われ続けてますから」
「でも、その実直さが宇喜多くんの良さでもあるよね」
「だといいんですけど……」
いつもどおりの前下さんだ。さっきは何か違うものを見ていたのかも知れない。
「そろそろ始めるよー」
鮫川さんが呼んでいる。
「はーい」
とにかく今は久しぶりにたくさん走り回りたい。くたくたになるまで練習して、夜はお風呂とビールだ!




