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俺が真面目だとみんなは言うけれど  作者: 虹色
第八章 恋人まであと…?
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134 働く理由?


誕生日のあと、蒼井さんが何かアクションを起こしてくれるのではないかと軽く期待していた。けれど、彼女は大学のレポートを書くので忙しくなってしまい、朝の電車と仕事中以外は俺の相手をする余裕は無いようだった。


大学の単位取得はゆっくりとしか進んでいないようで、蒼井さんはそれは自分が怠けているからだと言う。のんびりしている時間が多すぎる、と。


でも、俺から見れば、彼女はとても頑張っている。一人で勉強を続けるのは簡単なことではないと思うから。


彼女の頑張りを思うと、俺も何か有意義なことをしなくちゃいけないような焦りを覚える。けれど、何も思い付かなくて、言い訳みたいに寝る前に筋トレをしてみたりしている……。




九月も下旬に入った夕方、一階のロビーで声をかけられた。振り向くと、白瀬さんが微笑んでいた。


「……こんにちは」


多少の警戒モードは仕方ない。あの一件以来ほぼ一か月、彼女は俺を無視していたのだから。何か心境の変化でもあったのだろうか。


「あたしね、今月いっぱいで辞めることにしたの」

「え? やめるって……仕事を?」


予想外の言葉とあっけらかんとした態度に驚いた。だって、俺たちはまだ半年で……。


「うん、そう。べつに宇喜多さんとのことが理由じゃないから。一応、それだけは言っておこうと思って」

「ああ……、そう? ありがとう」


混乱しながら言葉を絞り出す。お礼を言っている場合ではないと思うのに。


「ええと……、もう、次の仕事決まってるの?」

「ううん、これから探すつもり。辞めるって決めたのもおとといだし」

「おととい? それで今月末で辞めるの?」


決断が早すぎないだろうか。まるでアルバイトみたいな……。


「だけど、俺たちまだ半年だよ? やっと試用期間が終わるところなのに」


自分がショックを受けていることにも驚いている。親しい友人でなくても、同期が辞めるというのは自分の中の何かが崩れるような気がするものなのだ……。


「なんだかね、嫌になっちゃったんだ。思っていたのと違うんだもの」


白瀬さんは肩をすくめた。


「ケースワーカーになったら困っている人を助けてあげようって思ってた。これほど人の役に立つ仕事は無いって。でも、そんなことなかった」


そこで、ため息。


「空しいだけ。誰も感謝なんかしてくれないし」

「感謝って……、でも、ちゃんと給料もらってるよね? それが仕事なんだし、仕方ないんじゃないの?」

「だとしても、やりがいって大事でしょ? あたしがいくら相談にのったり手続きを教えたりしても、みんな、当たり前の顔してるか、逆に『希望どおりじゃない』なんて文句言ったりするんだもの。本当にやりきれない気持ちになるよ」


(みんな……?)


いくら何でも全員が文句を言うなんてこと、あるわけがない。言わない人だっているはずだ。お礼を言ってくれる人だって。


けれど、俺も怒鳴られたから分かる。嫌な気持ちや怖い思いは重く心にのしかかるものなのだ。嬉しいこと全部を打ち消してしまうくらいに。


「まあ、そういうことなの。じゃあね」


俺があれこれ考えているあいだに白瀬さんは行ってしまった。


階段を上りながら、俺は白瀬さんの話を反芻していた。どうしても納得できない気分で。


税務課に戻るなり椅子にも座らずに、先輩たちに「同期が一人、退職するんだそうです」と告げた。少し強い口調になったので、先輩たちが一斉に顔を上げた。


「この時期に? もうすぐ本採用なのに」

「いつ辞めるの?」

「今月いっぱいで」

「へえ。いつ決めたのかなあ?」

「おとといだそうですよ」

「うわあ、いきなりだから欠員になるね。大変だ。どこの課?」

「福祉課で……ケースワーカーです」


答えた瞬間に蒼井さんと目が合った。


「ええ、白瀬さんです」


蒼井さんは「そうなんですか……」と複雑な表情になった。


「本人の話では、仕事にやりがいが無いって」


俺のせいだと勘違いされると困るので、急いで退職の理由を説明する。


「やりがいって言ってもねえ……」


高品さんが顔をしかめた。それに後押しされた気分で付け加える。


「誰にも感謝されないって」

「まあ、ケースワーカーだと、決まった相手のために時間や手間をかけるわけだからねえ……、気持ちは分かるけど……」

「感謝されることを期待してるなんて、甘いよ」


ばっさりと切り捨てたのは東堂さん。


「相手はそれがこっちの仕事だって分かってるんだから。感謝されようがされまいが、やらなきゃいけないことをやる。それが働くってことだと思うけど?」

「税金の職場なんて、喜んでなんかもらえないもんねぇ」

「でも、わたしは『ありがとう』って言われたら嬉しいですけど……」


蒼井さんがおずおずと言った。


「それはそうだよ。そこは誰だって同じ」


東堂さんと高品さんも蒼井さんには穏やかな顔を向ける。彼女が真面目に仕事をしているのを知っているから。


「でもね、感謝するかどうかは相手の自由なわけでしょう? 蒼ちゃんは感謝されようと思って仕事してるの?」

「あ、いいえ、感謝されようと思ってるわけではなくて……、お客様には気持ち良く用事を済ませてもらえたらいいなあって……」

「そうそう、基本はそれだよね、顧客満足度の問題。満足の先に感謝の気持ちがあるんじゃないかな」

「つまり、感謝されないってことは、満足されるだけの仕事をしてないってことだよね」


東堂さんと高品さんがうなずき合う。


「それにさあ、お礼の言葉なんて、言ってみれば予定外のおまけみたいなものじゃない? それが無いからって不満だなんてお門違いだと思うけど」


(なるほど。おまけか……)


今度は俺と蒼井さんが感心と納得で深くうなずく。


「感謝どころか」と東堂さんが続ける。


「採用一年目は、迷惑かけないで仕事ができるかどうかってところでしょう? なのに感謝されないからやりがいが無いなんて、ずいぶん自信過剰じゃない?」

「ケースワーカーは専門職ですから、最初からバリバリできるのかも……?」


蒼井さんがとりなした。彼女には白瀬さんを庇う義理など無いのに。それから小さくため息をついて続けた。


「わたしは退職する勇気なんて無いです。次の仕事を見付けられる自信が無いし、仕事を失ったら生活できないから」


「あ〜、わかる〜」と同意したのは高品さんだ。


「あたしだってどんなに子育てで大変でも、旦那に何かあったら困ると思うと辞められないよ〜」


その隣からは東堂さんのクールな声が。


「わたしは夫婦として夫と同じ地位を主張したいから辞めたくないな。それに、離婚したくなったときに、自分の収入が無いから離婚に踏み切れないなんていうのも嫌だし」

「何言ってるの? 仲良しのくせして」

「うふふ、まあ……、ホントのこと言えば、家事ってあんまり好きじゃないの。仕事してれば、堂々と家事も半分こにできるでしょう?」

「うんうん、それはあるね」


高品さんと東堂さんの話を蒼井さんがうなずきながら聞いている。


(仕事を辞めない理由、か……)


ふと気付いた。


蒼井さんも、高品さんも、東堂さんも、「辞めない理由」を持っている。


俺は「働く理由」は持っているけれど、「辞めない理由」は考えたことがない。なぜなら、働き続けることが当然だと思っているからだ。辞めるという可能性を考えたことがないのだ。


蒼井さんたちが「辞めない理由」を持っている理由。それはもしかしたら、世の中に、女性が仕事を辞めることへの期待があるせいじゃないだろうか。その期待に反論するために、働き続ける女性は「辞めない理由」を持たなくてはならないのではないだろうか。


仕事を辞めることへの期待……という言い方は反感を買いそうだけれど、確かにまだ存在している気がする。


だって、もしもうちの二番目の姉が結婚するとなったら、俺は「仕事は続けるの?」などと尋ねると思う。女性が働くことに違和感を持っていなくても、だ。


一方、例えば宗屋が結婚すると聞いても、仕事の継続については尋ねないだろう。それは結婚が男の仕事に影響を及ぼすとは想像もしていないからだ。


自分としては、結婚後に蒼井さんが仕事をするのは構わない。それどころか、彼女みたいな真面目できちんとした人が退職することは社会の損失だと思う。だから、彼女が仕事を続けられるようにバックアップするのが俺の役目でもあると思っている。


(でも……、そうだ……)


仕事を辞めないということは、経済的に自立しているということでもある。つまり。


(俺も簡単に捨てられちゃうんだ……)


さっき、東堂さんが言った。収入があれば離婚に踏み切れるって。


まして、蒼井さんは自分は結婚できないと思っていたひとだ。誰かに頼ろうなんて、そもそも考えていない。当然、俺がいなくても生きていけるのだ。


(俺に価値が無くなれば……)


俺の価値ってなんだろう?


俺は蒼井さんを守って、支えて行きたいと思っている。彼女を幸せにすることが自分の幸せだと思っている。


でも、彼女は俺の何に価値を見出してくれているのだろう? 今は蒼井さんも俺のことを好きでいてくれるけれど――。


(くっ、ふふ……、そうなんだよなあ……)


蒼井さんは俺のことが好きなのだ。誕生日の夜、あんなふうに……。


(かわいかったー……)


少し怒ったような表情で手を差し出す蒼井さん。ささやかれた言葉。そして別れ際の――。


「宇喜多さん、何、にやにやしてるの?」

「えっ?」


いつの間にか女性陣に注目されていた。


「べ、べつに、にやにやなんかしてません」


顔が熱い気がするのはきっと勘違いだ。


「そう?」

「そうですよ。いつもこんな顔です」


蒼井さんに不審に思われていないか気になるけれど、そちらを見るのは我慢した。


けれど同時に、向かいの先輩たちに見つからないように蒼井さんに触れることはできないかと策略をめぐらせてしまうのも事実で……。


好きなひとが近くに居すぎるのも考えものだ。







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