131 夜の散歩
「美味しかったですねえ」
店を出ると、蒼井さんが満足そうににっこりした。
「うん。そうだね」
食事はとても楽しかった。不安材料はいろいろあったけれど、一緒にいると、それらさえも楽しいものに変わる。
ナイフとフォークが上手く使えなくて、レタスに悪戦苦闘したりジャガイモを転がしてしまったりした。パンが上手くちぎれないとか、バターがきれいに塗れないとか、些細なことに蒼井さんは落ち込んだ。
でも、きれいに盛られた料理が出てくるたび、一緒に感嘆し、味わい、微笑み合った。そして、たくさん話して笑った。思っていたよりも時間が経っていて、店を出るときに驚いたくらいだった。
「ケーキがわたしの方に出てきちゃったときは、本当にどうしようかと思いましたよ〜」
「あれはねえ……、俺も焦ったよ。でも、蒼井さんが引き受けてくれてほっとした」
デザートのとき、通常のシャーベットのほかに小さなチーズケーキが一つ出てきた。お皿にはチョコレートで「Happy Birthday」と書かれ、ウェイターも「お誕生日、おめでとうございます」と語りかけ、それを迷いなく置いた。蒼井さんの前に! 店からの心遣いのケーキだった。
頭の中に、予約のときに何かの記念日かと尋ねられ、誕生日だと答えたことがスパークのようによみがえった。経験の無い俺はそれがバースデイケーキのサービスにつながるとは思ってもみなかったのだ。店側が男が予約をしたから相手の女性の誕生日だと解釈したのか、質問された俺が気もそぞろで聞き洩らしたのか、それは分からない。
蒼井さんは困惑顔でそのケーキと俺を素早く何度も見比べ、俺はひどくきまりの悪い思いで、蒼井さんに「それを受け取って丸く収めてくれ!」と視線を送った。それがちゃんと伝わったのだった。
「ふふ、まさに以心伝心ですね! あ、そうそう、お金を払います」
歩きながら、蒼井さんがリュックを探り始めた。約束では割り勘だったけれど、とりあえず店では俺に払わせてもらったのだ。店の雰囲気と蒼井さんの誕生日だと思われている状況を考えると、そうしないと格好がつかないと思って。
「ああ……、このままでもいいんだけど……」
「いえいえ、そういうわけには行きません。本当はわたしが全部出してもいい日なのに……あ、あった」
彼女がリュックを探っていた手を出した。そこには水色のお財布、そして決意に満ちた表情。これでは断っても無駄だろう。
「わかった。でも暗いし、歩きながらじゃ危ないから、公園に行ってからにしよう?」
「あ、そうですね、はい」
今度は素直に同意してくれた。そして、抱えたリュックと手に持ったお財布を見比べている。お財布を中に戻すべきかどうか迷っているのだろう。その様子がまたかわいらしい。
「これは俺が持ってあげる」
ひょいとリュックを抜き取られた蒼井さんがあわてている。そんな姿も楽しみながら公園へ入る道へと曲がる。目的地はすぐ先だ。
(手をつなぎたくなるなあ)
自分にもそれができるのだとわかったせいか、彼女に触れるにあたって越えなければならないハードルが低くなっている気がする。だから今は自分のカバンと蒼井さんのリュックで両手がふさがっているのは都合が良い。
(こんなふうに暗い公園だ………と? んん?)
目の前の景色に、道を間違えたのかと思った。
(こんなに人がいる……)
道を間違えたわけじゃない。道の途中に案内も出ていた。形状もたしかに公園だ。
入り口から左右に広がっている整備された空間。手前半分には花壇があり、その間を散歩道が通っている。正面が海側で、柵の向こうはライトアップされた大きな橋と港周辺の明かりでぼうっと明るい。でも、それだけじゃない。
周りじゅう、カップル、カップル、カップル……。世の中にカップルがこれほどいたのかと思うほどの数だ。
柵には等間隔に並ぶ二人連れのシルエット。詰めれば五人は座れるベンチも、今はすべて二人席だ。それも、空いたと思うと見計らったように次の二人組が現れる。散歩道をそぞろ歩きをするにも、ほかのカップルと鉢合わせしないようにコース取りを見極める必要がありそう。
(そうか……)
港を見下ろす丘の上の公園。葉空市の観光スポット。それは同時にデートコースでもある。特に夜は。
「うわあ、混んでますねえ」
蒼井さんらしい率直な感想。残念そうにはちっとも見えないところが、俺は残念だ。
(そうは言っても……)
こんなに人がいる中では手をつなぐことさえ俺にはできそうにない。それどころか――。
(この中にいたら、俺たちも同じに見られる……?)
それだって恥ずかしい。
たとえばあのカップル。
しっかり手をつないでる。世界に自分たちしかいないような顔をして。
向こうでは腰に手をまわしている。向かい合って見つめ合っている人もいる。あっちは――。
(ここでするのかよ?!)
よくも恥ずかしくないものだ! 俺が目をそらさなくちゃならないじゃないか!
(そうだ!)
あんな行為、蒼井さんに見せちゃいけない! いくら俺が少しは興味があるとしても。蒼井さんに期待したくなったとしても……。
「明るいところで清算しようか」
「はい」
この無邪気な笑顔。ああ、この純粋無垢な蒼井さんが悩ましい!
(でも、そうだ……)
思い出した。蒼井さんも俺のことが好きなのだった。だとしたら……。
(いい……の、かも)
ドキドキしてきた。
(だって……、嫌ならこんなところに来ないんじゃないかな……?)
カップルばっかりの、こんな危険な場所に!
「あ、ここならちゃんと見えそう。ええと、五千八百円……ですよね? 千円札があったような……」
財布をのぞき込んでいるから表情が見えない。蒼井さんはどう感じているのだろう?
(今日は自粛するつもりだったけど……)
蒼井さんもこの雰囲気で前向きになっているかも知れない。その勢いで一気に進めるかも知れない。そっと抱き締めて「俺のこと好きなんだよね? だったらいいだろ?」とか……。
(言ってみたいなあ!!!)
「宇喜多さん。二百円お釣り、ありますか?」
(うわ!)
問いかける大きな瞳。俺を信じて疑わない、俺が愛する彼女の瞳。
「二百円? うん、あると思うよ」
大切にすると誓っている。誠実さゆえに俺に返事ができない蒼井さんを。だから我慢だ。
「あ、やっぱりお釣りはいいです」
財布を出そうとした俺を蒼井さんが止めた。
「え? どうして?」
「ちょっとだけ、おごりです」
少し恥ずかしそうに、そして俺をなだめるように笑顔で首をかしげて。
「お誕生日だから。ね?」
「……うん、わかった。ありがとう」
二百円くらいなら、俺たちの関係の中でも出してもらって構わないだろう。
「いいえ」
蒼井さんは嬉しそうに俺にお金を渡し、俺が抱えていたリュックを受け取った。
「あとね」
俺が財布にお金をしまったタイミングで、「これ」と顔の前に細長い包みが差し出された。
「お誕生日のプレゼントです」
「え……?」
「本当は食事の最後に渡そうと思ってたんですけど、あのケーキのおかげで出せなくなっちゃって。だから、今」
(いらないって言っておいたのに。ふたりで食事に行ければ十分だって)
一人暮らしの蒼井さんだから。
給料日前に宗屋が生活費がキツいとぼやいているのを俺は聞いている。そんな俺たちよりも高卒である彼女の給料は少なく、さらに高校時代の奨学金の返済や大学の授業料の支払いもある。今月はテニス部の合宿も。なのに……。
「何だと思います? この箱の形見たら分かっちゃうかなあ?」
彼女は驚いている俺の前から箱を引っ込めると、自分で確認するように見直した。それがとても嬉しそうで……。
「あのね、筆記用具なんです。宇喜多さんの字が上手になるかもって思って。開けてみてください。気に入るかどうか――」
そこで言葉は途切れた。俺の腕の中で。
「ごめん。今日は何もしないつもりだったんだけど……」
これでもものすごく気持ちを抑えているなんて分からないだろうけれど。
「どれだけ嬉しいか伝えるにはこうするしかないんだ」
驚いているのかも知れない。腕の中で彼女はじっとしたまま。
リュックを抱えているから抱き締め返してくれないのは仕方がない。でも。
(大丈夫だ)
俺たちは絶対に上手く行く。だって蒼井さんもこんなに俺のことを想ってくれているのだから。
「宇喜多さん……?」
そっと呼ばれて腕を緩める。
向けられた瞳は夜空の星を宿したようにきらめき、俺の名を呼んだ唇はかすかに開いて。
(これはもしかしたら……キスの催促……?)
蒼井さんから? そんなことがあるだろうか?
でも……、そうだ。蒼井さんが口に出せるはずがない、そんなこと。だからこうやって……。
(うん、わかったよ)
大丈夫。ちゃんと伝わった。
俺が抱き締めたことに応えて、蒼井さんも伝え返してくれたんだ。言葉にできない気持ちを伝え合うってなんて素晴らしいんだろう!
(ものすごくドキドキしてる……)
周りに人がいるけれど、俺たちのことなんか誰も見ていないに違いない。
初めてだから上手くできるかどうか分からない。でも、蒼井さんは待っているのだから……。




