130 誕生日イベント、開始!
とうとうやって来た俺の誕生日。かもめ駅前で無事に仕事帰りの蒼井さんを車に乗せることができた。
助手席におさまった蒼井さんは、俺を見て不思議そうな顔をした。俺がネクタイを締めていて、後ろには通勤カバンとジャケットが乗せてあったから。
「どこかにお出かけだったんですか?」
「いや、蒼井さんに合わせようと思って」
本当は何を着たら良いのか分からなくて、ネクタイと通勤カバンならどうにでもなると思ったのだ。夏の間は持たなかったジャケットは、九月半ばの夜には必要かも知れないと思って持って来た。食事のあとに、蒼井さんと散歩したいから。
「ああ、なるほど。…あ、お誕生日、おめでとうございます」
お祝いの言葉よりも、蒼井さんらしい律義さの方がずっと嬉しい。
「ありがとうございます。時間に余裕があるからのんびり行こうね」
「はい」
今週に入ってから、彼女が以前に戻ったようでほっとしている。今の様子を見ていると、俺の突然の告白のあと、彼女がどれほどプレッシャーを感じていたのかよく分かる。きっといろいろな葛藤があっただろう。俺のせいで悩ませてしまったのだと思うと、本当に申し訳ない気持ちになる。
それをどうにか整理したらしい蒼井さんには、今はたくさん楽しい思いをさせてあげたい。だから……今日は手を出すのを控えようと思っている。
最初の予定どおり、レストランは俺が選んでおいた。ネットで探した小さな洋食店。葉空市の観光スポットである港周辺を見下ろす丘の上にあり、店のサイトには「値段が手ごろで気軽に楽しめるフレンチ」とあった。万が一、満席だと困るので予約をして。
食事のあとに丘の上の公園を散歩するつもりなので、車は公園のそばの駐車場に停めた。レストランはそこから数分。
「やっぱりわたしがおごるのが普通だと思うんですけど。宇喜多さんのお誕生日なんですから」
狭い歩道を歩きながら、蒼井さんが俺の顔をのぞき込む。まとめた髪の先が白いサマーセーターの肩にかかって元気に揺れている。
「食事代はいいよ。最初に割り勘でって言ったよね? ……誕生日に一緒に過ごせるだけで十分なんだ」
手は出さないにしても、言葉で伝えるくらいはしておかないと。照れくさくて声が小さくなっちゃったけど。
蒼井さんはうなるような声を出しただけで黙ってしまった。またプレッシャーをかけてしまっただろうか。こういうことって、やっぱりよく分からない。
「あそこだよ」
落ち込む前に目的地が見えてほっとした。道がカーブした先にある二階建ての洋館。暖か味のある灯りで照らされた正面は、数段の階段の上にガラスの嵌った木の扉。窓からは明るい光がもれている。
「わあ、かわいらしいお店ですね」
蒼井さんの感嘆の声、そして笑顔。その無邪気さに喜びがこみ上げる。
(よし。今日はこの調子で行ければ!)
彼女を楽しませてあげること、それが目標だ!
手をかける前に扉が開き、スーツ姿の女性が出迎えてくれた。名前を告げると「お待ちしておりました」と恭しくお辞儀をされ、「あれ?」と思った。気軽な店のわりに対応が丁寧だ。
次いで登場したのがモデルのようなウェイター。白いシャツに黒いベスト、長い脚には細身のパンツ、磨かれた靴。先ほどの女性の指示を受け、俺たちに低く艶のある声で「どうぞ、こちらです」と微笑む。彼にしたがって足を踏み入れたダイニングは――。
きらきらと光があふれていた。
木の柱や梁を生かした内装は写真よりも重厚な趣。灯りは天井から下がる釣り鐘型の花を模したアンティーク調のいくつもの電灯と各テーブルのガラスの筒に入った本物のろうそく。真っ白なテーブルクロスのかかった四角いテーブルにはフォークとナイフがずらりと並び、立体に折られたナプキンが鎮座している。
(これって気軽……じゃないような……?)
豪華とは違うけれど、白さと言い光と言い、「あらたまった雰囲気」な気がする。
(ネクタイして来て良かったー……)
ほかの男性客を密かに観察しながらつくづく思った。手に持っているジャケットを着るべきかと思うけれど、今ここでごそごそ着るのもはばかられる気がして決心がつかない。
ウェイターに着席を介助された蒼井さんが戸惑いを浮かべながらお礼を言っている。こちらを向いた顔には「自信がありません!」とはっきりと書いてあった。俺も同じだけれど、虚勢を張って「大丈夫だよ」という顔でうなずいておく。
「料理はBコース、メインは肉料理でとうかがっておりますが?」
「ええ。それでお願いします」
ウェイターの確認に、予約時に頼んでおいて良かったと思った。この雰囲気の中で上手く選べる自信は無い……と思ったら。
「食前酒などはどうなさいますか?」
(食前酒?!)
どうするも何も、俺にそんな習慣は無い!
渡された皮装丁のメニュー帳。ドキドキしながら開くとローマ字と解説が並んでいる。緊張している今は、それらを読んでも頭に入らない。でも、今日は。
「車で来ているので……」
頼まなくて済むことがありがたい。酒を断れることにこれほどほっとする日が来るとは思わなかった。でも、何も頼まないのはケチっぽく見えるかも知れない。蒼井さんの前だし、少しは格好良く振る舞いたい。だとすれば……?
「……ソフトドリンクはありますか?」
落ち着いているふりをして、一か八か尋ねてみる。まさに人生は賭けだ!
「こちらでございます」
ウェイターがページをめくって示してくれた。どうやら尋ねても良かったみたいだ。
蒼井さんにジュースでもどうかと話しかけると、まるで目を覚ましたようにまばたきをした。店の雰囲気にあてられてぼんやりしていたらしい。
おすすめは炭酸入りのリンゴジュースだと言われたので、二人ともそれに決めた。ウェイターが去ると、蒼井さんが身を乗り出して、小声で、でも必死の表情で話しかけてきた。
「宇喜多さん、気軽なお店って言ってませんでしたっけ?」
「言ったよ。お店のサイトにそう書いてあったから」
不安なのは俺も同じだ。顔に出ないようにしているだけで。
「もしかすると、『気軽に楽しめる』っていうのは料理の値段のことだったのかも知れない」
「わたし、ちゃんとしたマナーはよく分からないんですけど……」
蒼井さんが困り切った様子でテーブルや周囲をそっと見回す。
「俺もよく分からないから」と言いそうになったけれど思い直した。蒼井さんを不安にさせちゃいけない。……いや、格好付けたい。
「とりあえず、フォークとナイフは外側から使えばいいんだよ」
姉さんの結婚披露宴で言われたことを必死で思い出し、当然のことのような顔を装う。飲み物の注文を乗り越えられたのだからきっとどうにかなる、と、自分を励ましながら。
「ナプキンは二つ折りで、折ってある方を手前にね」
蒼井さんが小さくうなずきながら、神妙な顔つきでナプキンを膝に乗せた。
俺もそうしながらさり気なく周囲を観察してみる。ほかのお客もカップルばかりで、みんな俺たちよりも年齢が上のようだ。それぞれ慣れた様子で微笑んだり話したりしている。きょろきょろしている人など一人もいない。
この中にいると、自分が背伸びして大人の真似をしている高校生のような気分になる。なにしろ俺は社会人経験わずか半年の二十三歳、蒼井さんは弱冠十九歳なのだ。俺たちの未熟さはみんなに見破られているに違いない。
そこに飲み物を持ってウェイターが戻って来た。俺たちの気後れに気付いているのかも知れないけれど、そんな気配はまったく見せない。泡が躍る金色の液が注がれたグラスをそれぞれの前に置き、お礼を言った蒼井さんにやさしく微笑みを返した。それを見たら覚悟が決まった。
(もう、腹をくくるしかない)
ここで泣き言や弁解を言っても仕方ない。せっかく二人で来たのだから、新しい経験を楽しもう。俺も蒼井さんも騒ぐような性格じゃないし、少しくらいの失敗なら、お店の人は大目に見てくれるだろう。
「じゃあ、乾杯からかな」
「あ、はい」
ふたりでグラスを持ち上げる。
「かんぱい」
「かんぱい。宇喜多さんのお誕生日に」
「蒼井さんのフランス料理初挑戦に」
リンゴの甘酸っぱさと軽い炭酸が溶け合ってとても美味しい飲み物だ。
「ねえ、蒼井さん。ろうそくの炎の温度って何度だっけ? 理科で習った覚え無い?」
グラスを置くときに目に入った机上のろうそくを話題に出してみた。店の雰囲気やマナーの不安から蒼井さんの気をそらすのに、目の前のろうそくはちょうど良い気がして。
「え、習いましたっけ? 言われてみると、先生が黒板に図を描いていたような気がしますけど……」
「あ。もしかして坂畑先生? 俺よりも字が汚い」
「ああ、そうです、坂畑先生! 確かに汚い字でした。『こんな字でも先生になれるんだ!』って感心しました。読めない字があるから、ちゃんと話を聞いてないといけなくて」
「俺、あの先生の板書見て、自分も社会に出てもやって行けそうだって自信が持てたんだよ」
「でも、宇喜多さんは急がなければちゃんと読める字ですよ。それに、わたしは宇喜多さんの文字の解読は免許皆伝ですから」
「免許皆伝?」
「はい。高品さんに認めてもらいました」
蒼井さんが得意気に胸を張った。
「俺の知らないところでそんな話をしてるんだ?」
かわいらしく肩をすくめる蒼井さんからは、もう緊張感は伝わって来ない。
(うん。きっと大丈夫だ)
この感じなら、食事も楽しめるに違いない。




