129 ◇ 杏奈さんに教わる ◇
「その証明書は税務署で発行しているものですね。……ええ、はい、そうです」
宇喜多さんが電話で説明している。最初のころはいろいろ確かめながらの対応だったけれど、今ではほとんど助けは要らないし、声には自信があふれている。説明も上手になった。
(もうすぐ半年だもんね……)
真面目に仕事に取り組んできたのだから、知識も技術もどんどん身に付いて当たり前だ。
(あのころはわたしがちゃんと先輩だったのに……)
思い出してみるとあっという間だった。
もちろん、今でも仕事ではわたしの方が知識が多い。でも、それ以外ではどうしても気持ちで押され気味で、とても困ってしまう。
(どうしたらいいんだろう?)
今週はずっと、頭の中がごちゃごちゃだ。不安。絶望。迷い。その中にどうやっても消えない、そして一番厄介な、期待。
頭では、宇喜多さんがわたしを恋愛対象からはずしてくれたら……と思っている。それが宇喜多さんには一番良いことだと思うし……、わたしは悲しいけれど、失望させないで済むし、これからも仲良くはできるだろうから。
けれど、心はそうは行かない。小さな希望を捨てきれない。
正直に言うと、ここ数日、宇喜多さんの一挙手一投足がいちいち気になってしまう。言葉や動きから特別な意味を読み取ろうとしている……みたいな。
(だって、あんなふうにされたら……)
抱き締めて「好きだよ」なんて……ずるいと思う。わたしがお返事できないって分かっているのに。もう五日も経つのに、まだドキドキする。あれは……、あれは本当にずるい!
それに、わたしの言葉を自分に有利なように解釈している。
確かにわたしは「今のままでいたい」と言った。そして、それより前に――またドキドキする――抱き締められたり手をつないだりしたのも事実だ。だから、宇喜多さんが言うことは間違ってはいない。
だけど、そんなふうに触れ合うことは、恋人同士とどこが違うの?
あれでは単にわたしが返事をしていないだけで、宇喜多さんは何も我慢していない状態なのでは? ……まあ、わたしに触ることがそんなに嬉しいことなのかと問われたら、それは疑問だけれど。
でも、手をつないだり抱き締めたりすることで、わたしを…………その、誘っている、とは言えない?
だって、あんなふうにされたら困るよ! 止めようとしている気持ちが止まらなくなっちゃうもん!
宇喜多さんって普段は間違いなく真面目だけど、もしかしたら、少しは警戒した方がいいのかな?
……いや、でも、困ったときに助けてくれたり相談に乗ってくれたりしたのは、べつに見返りを期待してのことではなかった。それは間違いない。やっぱり疑っちゃいけない。となると、わたしの気持ちの問題? でも、あれは……。
(うー……)
わたしがもっと断固とした気持ちでいられたら……。
だけど、それが難しい。だって、好きなんだもん。
宇喜多さんは待つと言ってくれている。でも、それはきっと、わたしが前に進む決心がつくまで、ということだ。たぶん、断られることは予定に入っていない。…と言うよりも、断っても理詰めで説得されてしまいそうな気がする。
(そりゃそうだよね……)
好きって言っちゃったし……。
わたしの気持ちを知られているってことは、弱みを握られているのと同じだ。断りたいと言いながら、自分で弱点を告げてしまった。
(何やってるんだろう、わたし……)
何もかもめちゃくちゃだ。だけど、全部本当の気持ちで、自分でもどうにもならない。そして、宇喜多さんはわたしの予想と違う考え方や行動をする。
(勝てない気がする……)
負けてしまえたら楽なのに。それに、本心ではそうしたい。でも、できない。鈴穂には偉そうなことを言ったのに……。
(あ、お昼だ)
今日は杏奈さんと小さなカフェに行く予定。おしゃべりで気分が紛れるといいんだけど。
「今度の金曜日にね、前下さんと飲みに行くことになったの!」
ランチの注文が済むと、杏奈さんが小声で教えてくれた。
「え、二人でですか? おめでとうございます!」
「いやいや、まだ先は長いよ」
そう言いながらも杏奈さんの表情は明るい。
「でも、二人でお出かけするってことは、ほぼ決まりなのでは?」
「そんなことないよ」
杏奈さんが笑う。
「一度出かけたくらいじゃ、まだお友だちでしょう。当分は彼女なんて認識されないよ」
「そういうものですか……」
確かに、同僚と飲みに行ったり遊びに行ったりって話は聞くもんね。……と言うことは、宇喜多さんと二人で出かけてもオーケーってことか。ちょっと安心した。
「前下さん、やっと蒼ちゃん以外の存在に気付いたって感じ」
杏奈さんがいたずらっぽく笑う。
「ああ……、すみません……」
「あはは、蒼ちゃんがあやまる必要無いよ。前下さんって融通が利かないところがあるからね」
「うーん、わたしにはよく分からなかったですけど……、仕事はきちんとしてるし……」
「ふふ、そうだろうけど」
杏奈さんが前下さんを冷静に分析していることには感心してしまう。それに、やみくもに自分をアピールするわけじゃなく、自分を変えることもしない。きっと前下さんにとって自分が良いパートナーになれると自信があるからだ。
「じゃあ、杏奈さん、これからが勝負ってところですか?」
「そうね。やっとこっちを向いてくれたし」
「お出かけをたくさんして?」
「うん、そうだね。わたしのことをもっと知ってもらわないとね」
「楽しみですねえ」
「うん。いろいろ作戦を練るのも楽しいんだよね」
(作戦か……)
それが無いからわたしはめちゃくちゃになっちゃってるんだなあ……。
「何回くらい出かけたら決まるものですか?」
そのあたりが知りたい。関係が決まらないまま二人で出かけるのは何回くらいが限度なのか。
「あはは、それは分からないよ」
「そうなんですか?」
「そうだよ。一度で決まることもあるだろうし、何度出かけても進まない場合もあるんじゃない?」
「ああ、それはそうですね……」
回数じゃないのか……。
「じゃあ、何で決まるんでしょう? どうなったら『彼女』ってことになるんですか?」
「え?」
驚かれてしまった。普通はこんなこと、そこまで具体的には考えないのかも知れない。
「そりゃあ、お互いに好きになったらでしょ」
「ああ……、それは当然……ですねぇ……」
それだと、宇喜多さんとわたしは当てはまってしまう。お互いに相手の気持ちを知っているのだからなおさら。でも、それは困るのに。
「あ、でも」
その言葉に救いを期待!
「片方が申し込んで、とりあえずお付き合いってこともあるから、好きになる前に彼氏や彼女って立場になる場合もあるかもね」
「ああ、なるほど」
(好きになる前に……か)
そこはもう過ぎてしまった。
……いや、「お付き合い」が恋人関係の基準だとしたら。
「あの、じゃあ、お互いに好きだけど、片方がそういう関係を望んでいないとしたら――」
「それはカップルとして成立しないよ」
(おお!)
この素早い反応。つまり、これは確実なこと。わたしと宇喜多さんはカップルとして成立していない。
「そうですよね!」
何度二人で出かけても、手をつないでも、抱き締められても、わたしが返事をしなければ恋人同士じゃない! やった!
「え? それ、もしかして、蒼ちゃんの話?」
「あ、いいえ、友だちが悩んでて」
「ふうん。どうして悩むんだろうね? 両想いなのに」
「う、そうですね……」
確かに一般的に見れば変な話だ。
「ええと、その子は自分が相手の重荷になるんじゃないかって思ってるらしくて……」
「ん〜でも、その理由じゃ、相手はあきらめないよね」
「え? そうですか?」
驚くわたしに、杏奈さんは神妙な顔でうなずいた。
「って言うか、その理由であきらめるような相手なら、断って正解じゃない? だって、本当に好きなら、自分が多少大変な思いをしても、その子を幸せにしたいって思うんじゃないのかな」
(その子を幸せにしたい……?)
この前、宇喜多さんは、わたしに幸せをあげたいって言ってくれた……。
「それに、本当に重荷になっちゃうかどうかは、やってみないと分からないんじゃない?」
「それって……賭けってことですか?」
「ああ、確かにそんな感じするね。でも、賭けっていうより努力かな」
「努力……」
不思議だ。この言葉だと、自分にもできそうに感じる。
「好き同士なら、ふたりで幸せになれるように力を合わせればいいんだよ。で、将来も仲良くやって行けるとか無理だとか、そういうことを確認するために、恋人同士の期間があるんじゃない?」
「確認するために……。それは『お試し』ってことですか……?」
「あはは、そうそう。結婚可能かどうかのお試し」
言われてみると、それは大事なプロセスのような気がする。
「でも……、でも、それでずっと好きなままでいたら、そのうちに結婚のことも考えますよね?」
「まあ、そうなるよね」
「そのときに、どうしても困るとか、嫌な条件とか、そういうのがあるとしたら……?」
「う〜ん、程度にもよると思うけど……」
杏奈さんがニヤリとした。「そこはなるようになるよ」と。
「お互いに離れたくないなら、ふたりで解決方法を考えるしかないでしょ。うちの課の先輩なんか、奥さんの愚痴、しょっちゅうこぼしてるよ。でも、そういうことってどうにかなるんだよ」
「そうなんですか……?」
「そうだよ。何があったって、信頼と愛情があるんだから。その先輩の話聞いてると、最後はのろけ話を聞いてる気分になるよ。」
「仲良しなんですね……」
「ま、愛情のなせる業だよね。わたしも前下さんとそういう関係になれたらいいなあ」
「ですね。頑張ってください!」
「うん。頑張るね」
(信頼と愛情……か)
わたしは宇喜多さんに……それは持ってる、かな。宇喜多さんもたぶん……。
でも、それが十分なのかどうか……。
(まあ、今日はとりあえず)
杏奈さんと話したら、不安が少し減った。
まだお返事を延ばしても良さそうだということ。そして、二人で出かけても、彼女として認定されるわけではないということ。
宇喜多さん本人も、当分は今のままでいいって言ってくれているわけだし――「今」の状態に疑問はあるけれど。
しばらくの間、落ち着いて様子を見るのもいいかも知れない。




